| 伊達政宗(1567〜1536) |
奥羽に覇を唱えた通称「独眼竜」。仙台藩60万石の藩祖。権謀術数に長け、急速に勢力を拡大した。畠山、二階堂、芦名氏を滅ぼし、常陸の佐竹氏や
磐城の相馬氏らと戦う。政宗の生母が義光の妹であったため、表面上は最上家と友好関係にあったが、義光とは犬猿の仲であったという。義光は天正15年(1587)に政宗の家臣、鮎貝宗信を寝返らせて内乱を誘発し、天正16年(1588)には中山口で対峙している。義光と政宗は共に策士でもあったため、水面下では謀略戦を繰り広げていたのではないだろうか。慶長5年(1600)関ヶ原合戦
前、家康が小山で軍勢を引き返し始めると上杉とさっさと和睦し、最上を孤立化させている。慶長出羽合戦において、一応、政宗は義光に援軍を送っているが、中山口で陣を敷くと日和見を決め込んで主だった戦闘には参加していない。追撃戦にだけ都合よく参加している。これは上杉と和睦を締結しているからであり、援兵を送ったのは、義光が合戦に勝利した際に家康への聞こえを良くするためである。
また、最上が合戦で敗れた場合、あわよくば上杉軍と共に山形に攻め入ることも想定していたのであろう。しかしこの行動が、東軍勝利後に家康からのお墨付きだった100万石を反故される要因にもなっている。才能は非凡なものを持っているが、行動がしたたかすぎて打算で動くため、結局信用を得られない「策士、策に溺れる」タイプの武将であったのかもしれない。文禄4年(1595)の秀次事件の際には、義光と互いに謀叛に関与しているとして秀吉に疑われ、あわや改易という状況にまで発展したりもしている。この一件は義光らを快く思わない連中、のちの関ヶ原合戦で西軍に組する武将らの仕業とも思われるが、こうした状況の中で、義光と政宗は共同の敵を見つけ、家康に接近するようになる。義光と政宗は警戒しつつも、互いに認めあっている好敵手のような関係だったのではないだろうか。 |
| 豊臣秀吉(1537?〜1598) |
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織田信長に仕え、信長が倒れると政権を掌握。農民から天下人にまで上り詰めた「太閤秀吉」。武将としては目覚ましい活躍をしたが、天下統一後は野望に燃え、征明を企てて諸将の反感を買う。秀吉は家臣団の統制に失敗した人物ともいえる。五大老、五奉行など表向きには政治的人材の編成をしたが、家臣の本心や確執までには目を向けなかったのではないだろうか。そのために秀吉の死後、関ヶ原合戦が起こり、豊臣家は滅亡への道を辿ることとなる。そして義光にとって、秀吉はまさに天敵であろう。上杉氏と庄内を巡って争っているときも、義光の主張は認められず、結果、ようやく手に入れた庄内を奪われている。また秀次事件の際にも、愛娘駒姫のために助命を願い入れたが、聞き入れられずに処刑されている。義光は秀吉存命の頃から家康に心を寄せていた。関ヶ原合戦で豊臣方に組する仇敵、上杉氏と戦うのは偶然ではなく、必然的ともいえる。 |
| 徳川家康(1543〜1616) |
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関ヶ原合戦で勝利して江戸幕府を開く。豊臣氏を滅亡させて実質的に天下を掌握した。義光は秀吉に臣従する一方で、早くから家康に誼を通じていた。慶長元年(1596)伏見で大地震が起きた際にも、多くの武将が秀吉のもとに馳せ参じたのに対して、ひとり義光だけは、家康のもとに駆けつけて警護している。慶長5年(1600)関ヶ原合戦において、家康は石田三成が挙兵したことを知り、小山から西へ引き返すが、これは義光の孤立を意味する。家康は会津の上杉景勝を義光に押し付けたのである。景勝の出方を見るために、家康は早急に西へは向かわずに、しばらく江戸に滞在している。家康の関ヶ原での勝利は、義光の功績無しには得られなかったものであろう。最上と上杉が戦うことによって、家康は挟撃される恐れが無くなったのである。幕府を開いた後も、東北の外様大名のなかで、伊達を押さえられるのは最上だけである。
また義光は二男家親に家督を継がせるために長男の義康を殺害している。これは徳川政権下において生き残るために、義光が独断で起こしたことなのか、家康の薦めもあったのかは憶測の域を出ないが、家親を継がせたことによって、結果的にその子家信(義俊)の代で最上家は改易の憂き目に合っている。家康が義光を信用していたのか、利用していただけなのかは定かではないが、結果的に見ると義光は家康にとって都合のいい人物だった。こう考えると家康もまた、義光にとっては敵といえるだろう。 |
| 直江兼続(1560〜1620) |
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上杉景勝の懐刀。政治的手腕、智謀に長けた知勇兼備の名将で知られている。関ヶ原合戦前、家康が小山から西へ引き返すと、山形に集結していた北奥羽の諸将が相次いで帰国。伊達も上杉と和睦し、義光は孤立する。義光も、兼続を通じて景勝に和睦を願い入れるが聞き入れられなかった。一説によれば兼続が断固として反対し、最上領へ攻めこむことを熱望したらしい。これは、関ヶ原で家康が勝利すれば、全軍を率いて会津に進撃してくることを予測したものであり、領国で分散している庄内と合併するためにも、最上領の山形を掌握して迎え撃つ必要があったからと思われる。そして長谷堂合戦が繰り広げられるが、最上勢は劣勢であった。三方から進撃してきた直江軍に諸城を次々と攻略され、義光は山形城が包囲されるのも覚悟していたことであろう。関ヶ原での東軍勝利の報が伝わり、義光は撤退する直江軍を追撃するが、兼続は伏兵を配しながら最上軍に多大な被害を与えて無事に米沢城に戻った。名将直江兼続も義光にとっては天敵でしかなかったのである。 |
| 武藤氏(大宝寺氏) |
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庄内を支配した名門の一族で、大宝寺氏ともいわれる。義光とは庄内を巡って武藤義氏、義興、義勝の3代に渡って争った。早くから織田信長に鷹を送るなどして中央と友好を持つが、悪政を行ったために民衆から「悪屋形」と呼ばれた。義光の急激な勢力拡大に脅威を感じた義氏は、義光方の清水城を攻めるが、天正11年(1583)に義光の調略によって家臣が内応。自害に追いこまれ、庄内は最上氏の手中に帰す。後を継いだ義興は、越後の本庄繁長の二男義勝を養子に迎え、上杉、本庄氏の支援を受けて旧領回復の反撃に出るが、天正15年(1587)義光の調略により自害。養子義勝は越後に戻り、天正16年(1588)父の繁長と共に庄内に攻め入り、尾浦城を攻略。庄内を取り戻した。義光の武藤氏との戦いは、実質は上杉氏との戦いであった。酒田港があり海運が盛んなことに加え、肥沃地帯である庄内平野に目を付けた義光と景勝の確執ともいえるだろう。 |
| 小野寺義道(1566〜1646) |
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鎌倉時代から、出羽雄勝郡の地頭として君臨した一族の末裔。小野寺氏は戦国期には横手城を本拠に近隣の諸勢力と戦い、全盛期を築いた。北に勢力を伸ばしてきた義光と幾度となく戦ったが、決着が着くことはなかった。豊臣秀吉の小田原征伐にも参陣して所領を安堵されている。慶長5年(1600)家康は、奥羽の諸将に山形に集結し、会津征伐に従軍するよう命じたが、義道は義光への反感から動かなかった。義光は長谷堂合戦後に上杉氏の庄内に攻めこむと共に、雄勝にも兵を送り横手城を攻略したが城は落ちなかった。しかし戦後、家康から西軍に組したことを咎められて改易。石見国津和野へ配流された。家康の命でも動かなかったのは、義道の武門の意地なのか、西軍が勝つと読んでいたのかは定かではない。 |
| 最上義守(1521〜1590) |
義光の実父。2歳で家督を継ぎ、最上家10代当主となる。伊達氏の内乱に介入して力を蓄え、前世紀初頭に「伊達の馬打ち」(保護領)同然といわれ、没落していた最上家を立てなおすことに成功した。優れた政治家であったというが、嫡男義光との仲は極端に悪かった。義守は二男の義時を偏愛し、家督を継承させようとしたために2度御家騒動を招いている。天正2年(1574)義守は隠居して義光に家督を譲るが、二男義時が叛旗を翻すと伊達氏を介入させてこれを支援した。 ※(最近の研究・調査では弟義時は架空の人物ではないかという説が強いようです) 実際のところは、最上家のなんらかの内紛に乗じて、あわよくば伊達氏の支配下に置こうという政治的干渉が妥当か? 親子仲険悪説が事実だとしたら、義光と義守は、考え方や価値観の違いから溝を深めていったようにも思える。義守は保守派であり、他国や国人
、一族の力を借りて勢力を保持しようとしたが、義光は自らの力で敵対勢力は容赦なく切り崩し、勢力を拡大してい
くという戦国大名的要素が強い。義守もまた、時代に取り残された人間であり、戦国大名の出現が遅れている出羽国に領国支配体制を築こうとする義光の考え方は、到底受け入れられなかったであろう。 |