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最上義康15??〜1603 |
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義光の嫡男。天正14年(1586)有屋峠の合戦では、劣勢だった最上軍を立て直し、小野寺義道を撃退した。慶長5年(1600)長谷堂合戦の折には、伊達家へ援軍の使者として赴き、直江軍退却の際には追撃戦にも参加している。
武勇を誇りながらも思慮深く、家臣からの信望も厚かったものと思われる。しかし、父義光が家督を譲るのが遅いことを不満とし、日頃、親子の関係が悪化していたとされている。義光は徳川政権下で生き残るために、幼少の頃から徳川に仕えた二男の家親に家督を譲ろうとしていたらしい。
また、家康からそのような薦めがあったのかもしれないが事実は謎のままである。義康は、慶長8年(1603)父義光から、蟄居して高野山に上ることを命じられ、途中、庄内で討ち取られた。29歳の若さであったという。 |
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最上家親1582〜16172代目藩主 |
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義光の二男。文禄3年(1594)13歳のときに徳川家に出されて仕えた。義親と名乗ったが、元服し徳川家康の偏偉を賜り家親と名乗る。慶長5年(1600)上杉景勝への会津征伐では、徳川秀忠に従い小山に下り、西軍挙兵の報を受けると中山道を西上し、信濃国上田城の真田攻めに参加。大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた。江戸に滞在していたが義光が没すると国に戻り、義光の後を継いだ。家督を継ぐと、大坂方に通謀の嫌疑があった清水城主の異母弟、義親(氏満)を襲って自刃させる。しかし元和3年(1617)に
江戸で急死したといわれる。36歳であった。御家騒動のなか、毒殺とも暗殺ともいわれているが定かではない。 |
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最上義俊1606〜16323代目藩主 |
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2代家親の子。幼名家信、源五郎。父家親が元和3年(1617)に急死したため、12歳で家督を継ぐ。家親の変死、家督を巡り、重臣間の激しい抗争が続くが、義俊にはこれを治める力はなく、酒を好み、宴楽にふけるのみであったという。そして元和8年(1622)、国政不取締りを理由に最上家は改易され、近江、三河1万石を与えられた。 |
| 清水義親1582〜1614 |
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義光の三男。清水氏の養子となり清水性を称した。義光の死後、二男家親と三男義親の間で家臣を巻き込んだ御家騒動が勃発。義親は豊臣家に人質となっていた経緯から、豊臣秀頼との内応を疑われ、家親に居城の清水城を襲われて自害した。時代は大阪の陣直前であり、家親は徳川家から疑いを掛けられるのを恐れたのと、自身の家督継承を確かなものにするため、後顧の憂いを断つべく義親を攻撃したものと思われる。 |
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山野辺義忠1588〜1664 |
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義光の四男。山野辺城主。養子となり山野辺家を継ぐ。四重の堀と出丸を設けた堅固な山野辺城を築いた。しかし、元和8年(1622)最上家改易とともに領地を没収され、城も完全に破壊されてしまった。その後、備前の池田家に預けられるが、のちに将軍家光の命により許され、水戸徳川家の頼房に仕えて1万石を給された。 |
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志村伊豆守光安15??〜1609 |
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慶長5年(1600)長谷堂合戦において、前衛基地である長谷堂城を守備した。長谷堂合戦勝利の殊勲者であり、剛勇知徳の仕と伝わる。光安は大軍を相手に奇襲を仕掛けたりして果敢に戦い、直江軍を長谷堂城に釘付けにした。直江軍退却後の庄内進攻の際には、東禅寺城を開城させている。長谷堂合戦の功により、飽海3万石を与えられて酒田城(東禅寺城から改名)主となった。しかし、2代目で子の光惟は最上家の内紛に巻き込まれ、非業の死を遂げた。 |
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延沢能登守満延15??〜1??? |
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延沢霧山城主。最上八楯城将の一人。満重、信景とも。天文16年(1547)に延沢城を築き、天童城の天童頼澄とともに、八楯の旗頭筆頭として義光に反抗した。子の遠江守満昌の妻に義光の娘をもらい、以後、義光に従って各地を転戦した。豪力の仕であったといわれ、桜古木を引き倒したという説話が残っている。子の満昌も長谷堂合戦や庄内進攻、2代目家親の清水城攻略にも従って最上家に尽くしたが、元和8年(1622)最上家の改易とともに領地を没収され、肥後の加藤家に預けられた。 |
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延沢遠江守光昌????〜1626 |
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延沢能登守満延の子。康光とも。延沢氏は、はじめ天童氏とともに義光に抵抗していたが、光昌の妻に義光の娘・松尾姫を娶ったことから、義光の軍門に降り、以後最上氏に従い各地を転戦して活躍した。父満延に劣らぬ武勇の士であったという。最上氏改易後は肥後熊本の加藤家に身を寄せ、その4年後に没した。「義光分限帳」によれば2万石を治めたとある。 |
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楯岡甲斐守光直15??〜16?? |
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義光の弟。楯岡城主。楯岡城入部以来、城郭を整備し、湯沢沼の築堤や切り通しの開削を行い、城下町を整えて内政に勤めた。義光をよく支えたという。慶長13年(1608)に兄義光の武運長久を祈り、山寺立石寺に鰐口一個を寄進している。元和8年(1622)最上家改易以降は豊前の細川家に預かりの身となった。細川家では非常に厚遇な扱いを受けたらしく、これも実兄義光の中央との交流の中に、細川幽斎の名があったためと思われ、病気療養中にも当主の細川忠利に自ら見舞われている。 |
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鮭延越前守秀綱1563〜1646 |
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鮭延城主。近江源氏の一族、貞綱の子。出羽国横手城主の小野寺氏の客将となり、天正年間初期に、最上地方の岩花、真室に鮭延城を構えた。天正9年(1591)義光の攻略を受けて降服するが、勇戦ぶりを評されて重臣に取り立てられ、1万5千石(のちに1万7千石)を与えられた。元和年間の藩政期には、楯岡光直とともに主流派として活躍したが、最上家改易に伴って、下総佐倉藩の土居家に預けられた。のちに古河藩土井家に移され、知行5千石を与えられて遇された。別名愛綱とも呼ばれ、家臣に知行を分配して、自分は家臣の間を居候して晩年を過ごしたといわれている。 |
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松根備前守光広15??〜16?? |
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義光の甥。始め松根1万石を有していたが、大江氏滅亡後に白岩城に入部、1万2千石を与えられた。のちに最上家家老職に就くが、元和年間の藩政期には、家督相続を巡って他の重臣と対立。義俊擁立派として御家騒動の中心人物となる。元和8年(1622)最上家改易後は、九州の立花氏に仕えた。 |
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氏家尾張守光氏15??〜1??? |
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成沢城主。左近助、親定とも。義光の三女・竹姫を妻とした。最上氏の始祖である斯波兼頼の子、直家の六男兼義の末裔。氏家氏は兼義以来、10代最上家に仕えた。尾張守も最上家の知将として義光を助け、1万7千石を領していた。2代目家親時代には領国の治政を担当。元和8年(1622)の最上家改易後は長門国萩城の毛利秀就に仕え、知行5百石を給された。 |
| 新関因幡守久正15??〜1638 |
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鶴ヶ岡城代。治水事業に手腕を発揮し現在でも名を残す。その功績大きく義光の信任は厚く、高禄を有した。最上家改易後は、古河藩土井家に直臣として6500石の高禄で召抱えられている。最上時代の内政手腕を買われたらしいとされる。 |
| 江口五兵衛光清15??〜1600 |
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畑谷城主。知行8千石を有した。慶長5年(1600)慶長出羽合戦においては畑谷城に500の兵で篭城。上杉軍の猛攻の末、落城。自刃した。義光の信頼厚く、京にも度々帯同していたと思われる。義に厚く、文化人としても優れた人物であったとされる。 |
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里見民部15??〜16?? |
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慶長5年(1600)慶長出羽合戦においては、上山城を守備した。劣勢に立たされた最上勢の中で、奇襲作戦を仕掛けて戦果を挙げる。長谷堂城とともに上山城を守りきり、勝利に貢献した。「最上義光分限帳」によれば、長崎城1万7千石を治めたとされている。 |
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倉津安房守15??〜1??? |
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蔵増城(倉津館)主。小国城主。倉津氏については不明な部分が多いが、文明9年(1477)に蔵増城を築き、代々安房守を名乗ったとされている。天正8年(1580)の小国攻略に際して格別の功があり、恩賞として小国の地を与えられ、そのときに城を移した。天正12年(1584)の天童合戦にも参加している。嫡子が改名して小国日向守光基と名乗り、小国城を築いた。最上家の改易後は肥前の鍋島家に預かりの身となった。 |
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中山朝正15??〜1??? |
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中山氏9代目。中山氏は南北朝時代からの家臣で、寒河江大江氏に対する拠点として築かれた長崎城を有した。天正12年(1584)義光が寒河江を攻略した際に、朝正は脈を通じていた寒河江氏に組して戦うが、敗れて降服。以後、義光に従う。慶長5年(1600)上杉氏が侵攻してきた際には、寒河江城を守備するが敗れている。庄内攻略にも従って、知行7千石を有した。 |