慶長出羽合戦

 

慶長出羽合戦とは

1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦は、徳川家康の東軍が石田三成の西軍を破ったことで知られているが、関ヶ原合戦は 、北は東北から南は九州まで全国で繰り広げられた。その関ヶ原合戦全国版のなかで、出羽国で最上義光と上杉景勝の部将、直江兼続が戦ったものが慶長出羽合戦である。 その慶長出羽合戦で、もっとも熾烈であったのが山形の畑谷・長谷堂・上山の3拠点での合戦であり、なかでも長谷堂での合戦が特に有名である。一般的にはこれを総称して長谷堂合戦ともいわれている。

 
なぜ出羽合戦は起こったか

徳川家康が会津を攻めずに小山で引き返したからである。家康は奥羽の諸将に会津への攻撃を指示していた。 伊達を除くほとんどの武将達は山形に集結していた。最上義光を山形方面からの総大将とし、上杉討伐軍の一角として会津へ進軍する予定だった。家康の来援がないことを知ると、 諸将は次々に帰国してしまったのである。すでに上杉領の白石城を攻撃していた伊達政宗もとっとと和睦してしまった。それだけ会津120万石を領する上杉軍は、家康の軍なしでは戦えない強敵だったのである。そこで窮地に陥ったのが、会津と国境を接する最上である。家康は来ない。奥羽の諸将も帰国してしまった。頼みの綱の伊達は和睦。義光は孤軍となって上杉勢と戦わなければならなくなった。義光は低姿勢で和睦しようとした。人質は何人でも提出する、指図しだいで自分が兵を率いてどこへでも出陣する、などとなりふりかまわず下手にでたが、兼続は了承しなかった。そして9月11日に米沢を発ち、山形を目指して進撃してきたのである。

 
上杉軍の快進撃

置賜や庄内など、多方面から山形城を目指して進撃してきた上杉軍は、 次々と最上方の支城を落としていく。米沢を発した上杉の先鋒軍がまず猛攻を加えたのが、山形城に近く出城的要素の強い畑谷城であった。畑谷城は、いくつもの山が連なる東黒森山の尾根続きの館山に築かれた山城である。城には空濠を備え、置賜方面とを結ぶ拠点となっていた。城を守るのは、8千石を有していた江口五兵衛光清で少数の兵で城に籠った。この江口五兵衛は稀にみる忠臣であった。江口は最上義光の京への滞在や、大名、公家、豪商らとの連歌などの交流の際にも度々義光に帯同していたらしく、文化人としても非常に精通した人物であったらしい。畑谷城を大軍で囲んだ直江兼続は 江口に降伏を勧めた。しかし江口はこれを拒否し、わずかの兵ながら城に篭り大軍相手に果敢に戦う姿勢をみせた。そのため兼続は総攻撃を命じる。

この辺り一帯を上杉の兵が埋め尽くしていたのだろう
畑谷城遠景
丸で囲んでいる部分が本丸付近
畑谷城

畑谷城址碑

案内説明板(クリックで説明が読めます)
見事な空堀だ
東部大空濠

本丸へと続く道

本丸頂上部
畑谷落城

衆寡敵せず。江口五兵衛は自刃、それに従った兵500人はすべて討ち死にし、畑谷城は2日で陥落した。義光は畑谷城が包囲される以前、他の支城と同じように城を捨てて山形に戻るよう江口に指示していた。 畑谷城は小城であり、少数の兵で大軍を迎え撃つには厳しい城であるからだ。しかし江口はこれを聞き入れずに畑谷に籠城、そして散った。山形には逃げ戻らず、上杉にも降伏はしない。最上の忠臣江口五兵衛光清の武門の意地と、主君義光へ のせめてもの奉公だったのかもしれない。現在、城跡のすぐ近くの長松寺には江口五兵衛の墓と戦死者への供養塔が建っている。
畑谷城を落とした上杉軍はその勢いで長谷堂城も包囲する。もう一方の上山城では、城将里見民部らの奇襲も成功し、持ちこたえていたが、庄内から進撃した上杉軍の別働隊は最上川を渡り、寒河江城、谷地城、白岩城など、明け逃げも含め順調に城を落としていた。義光は最大の危機を迎える。長谷堂城が落ちれば、山形城は包囲され、落ちるのも時間の問題であった。

本丸には忠臣江口光清の碑が建っている
江口五兵衛光清の碑
畑谷城の脇にある江口光清の墓
江口五兵衛光清の墓(クリックで説明が読めます)
兼続もここから山形城を望んだのか…
高森山から山形方面
 
長谷堂城の攻防

長谷堂城は小城ながらも、堀は深く、背後には大森山、見駒山を控えているが、独立した小山に築かれており、少数の兵で守るにはもってこいの天然の要害であった。 実際に城を探索してみると、城内は小城という割には意外に広く、所々に空濠や曲輪が配置してあり防御性の高さを感じた。義光は長谷堂城へ、部将鮭延秀綱ら旗本100騎と足軽鉄砲200の援兵を送り、なんとしてでも死守するよう命じた。城将 、志村伊豆守光安(高治)は、これによく応えた。直江軍が総攻撃をかけてきたが、十分に引き寄せておいてから鉄砲隊の一斉射撃を加え、散々に追い散らした。これは兼続の誤算であった。たかが小城と思っていたが、長谷堂城の守りは堅く、その将兵の士気は高く手強いことを思い知らされた。その後、兼続は何度も長谷堂城へ攻撃を加えるが、力攻めでは無理だと考え、今度は稲を刈り、敵を挑発して城から誘い出そうとした。城兵の中からは、これに怒り、城から討って出ようとする者がでた。しかし光安は、「敵の誘いに乗り、城外に出る者は厳罰にする」と強く戒め、兼続の策には乗らなかった。


長谷堂城遠景

登り口(志村大手口)

志村口からの登城道

中腹の曲輪

空濠跡

城内にある説明版
(クリックで復元図がみれます)

本丸へ続く道
 
兼続撤退と追撃戦

 

光安は劣勢の最上軍の士気を高め、よく戦った。兼続が兵の一部を割いて山形城に向かおうとすると、光安は精兵200を持って夜襲をかける。その後も、度々小競り合いや奇襲を繰り返し、上杉軍を釘付けにしたのである。なかでも15日、24日、29日の戦いがもっとも激戦であったといわれている。上杉方は剣豪と謳われた上泉主水泰綱、岩井備中、松本杢之助等の猛将が討死している。現在、長谷堂城のすぐそばの主水塚には、主水が討ち取られた場所(他説あり)に両軍の戦死者の供養碑がある。そして9月30日、山形城の義光から光安に吉報がもたらされた。関ヶ原で家康の東軍が三成の西軍を破り、大勝利を収めたとの報である。城内では一斉に閧の声をあげて喜び合ったという。関ヶ原での東軍勝利から半月遅れで出羽に届いた吉報である。一方、29日に会津にいる上杉景勝から西軍敗北の報を知らされた兼続はすぐさま撤退を開始する。家康勝利が確定した今、戦いを続ける意味が無くなったからである。ここで攻守は一変した。光安は長谷堂城の手勢を率いて、義光の子、義康や援軍の伊達政景らと追撃戦を展開する。義光も自ら陣頭に立ちながら指揮を執り、兼続を追った。しかし兼続は自ら殿軍となり、山間に伏兵を配し最上軍に反撃を加えながら、見事に兵を引き上げさせた。この追撃戦で義光はあまりに前方に出過ぎたため、上杉軍の鉄砲隊に狙い撃ちされ兜に被弾した。旗本が壁になるほど危ない 状況であったという。この追撃戦は、兼続を討ち取る絶好の機会、悪くとも上杉軍に大打撃を与えるまたとない瞬間であったが、自軍に被害を出し、上杉軍にはまんまと米沢に引き上げられてしまった。これには、後に義光も「退却するにも臆することなく、かえって勝ちに乗じた味方の軍勢を数多く討ち取り、会津に帰陣していったことは、謙信の武勇の強さが今も残っている」と、敵ながら深く感銘したという。こうして半月余りの長谷堂合戦は終わりを告げたのである。志村伊豆守光安は戦後、その功を認められ、酒田東禅寺城3万石を与えられた。


本丸頂上部
逆光で見難くなってしまった…
本丸にある城址碑
山形城が一望できる
長谷堂城から山形城を望む(クリックでアップ)

登り口(坂紀伊大手口)

説明案内板
(クリックで説明が読めます)

両軍の戦死者を供養した主水塚
(クリックで説明が読めます)
 
関ヶ原・慶長出羽合戦経過表 (1600年)
6月16日 徳川家康、諸将を大坂城に集めて会津遠征の部署を決定。
7月7日 徳川家康、伏見を発し会津遠征を開始。
7月24日 徳川家康、江戸城において奥羽諸将に会津攻撃の部署を指令。
この頃 伊達政宗、会津領に攻め入り、白石を攻略。
三成挙兵の報が入り、家康率いる東軍、小山より西へ引き返す。
8月18日 山形に集結していた奥羽の諸将、相次いで帰国。
伊達政宗、上杉と和睦。
9月8日 最上義光、直江兼続へ和睦を申し入れるが叶わず。
9月13日 直江兼続、米沢を出陣。三方より最上領へ侵攻。
9月15日 直江軍、畑谷城を落とす。関ヶ原で、徳川家康率いる東軍が西軍を破る。
この頃 最上義光、子の義康を送り伊達政宗に援軍を求める。
9月16日 直江兼続、菅沢山に本陣を置き長谷堂城を包囲。攻撃開始。
城将志村高治、奮戦し、これを一旦退ける。
以後、攻防戦は連日続く。
この頃 庄内から侵攻した直江第三軍が谷地、寒河江、白岩城を落とす。
9月17日 上山城を攻めた直江第二軍が、里見民部の奇襲に遭い大敗を喫する。
9月21日 伊達政景率いる援軍、笹谷峠を越えて最上領に入る。
9月24日 最上義光、伊達政景と軍議。
9月29日 長谷堂城の将兵、奇襲をかけ敵将上泉泰綱を討ち取る。
直江兼続、会津の上杉景勝より西軍敗北の報を受け、撤退を命じられる。
9月30日 志村高治、山形の最上義光より東軍勝利の報を受ける。
10月1日 直江軍撤退。最上、伊達両軍追撃に入る。
石田三成ら西軍の将、六条河原で処刑される。

 


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