出羽57万石までの道程

 

四面楚歌の義光

右の図(→)は、義光が家督を相続した天正2年(1574)頃の勢力図である。(見難いですね)
見てのとおり義光に味方する者は少ない。
当時、最上氏は村山、最上両群を勢力圏としていたが、領内に分封配置した天童、上山、東根氏らの支族や家臣が最上宗家を無視して、独立勢力化していた。
義光の家督相続後も、隠居した父、義守の影響力は大きく、弟義時を支援し、国人衆もこれに呼応する。
また、南の米沢には伊達輝宗、北の庄内には武藤義氏、雄勝には小野寺義道がいて、隙あらば最上領をうかがっている状況であった。
義光は、領国支配体制を確立するため、支族、国人衆の討伐を始める。
前途は多難であったが、義光はこうした情勢の中、調略を駆使しながら各勢力を打ち破り、出羽を平定していくのである。

 

天正2年(1574)義光家督相続頃の勢力図

 

 
庄内制圧

 

義光の出羽平定は順調に進んでいた。
天正10年(1582)、義光の軍事作戦の展開に脅威を感じた、尾浦城の武藤義氏は、最上方に組する清水城の清水義氏を攻めた。
義光は清水城を支援し、翌年には調略で武藤義氏を自害に追いこむ。
そして天正15年(1587)に、義氏の後を継いだ義興を、またも調略によって自害に追いこんだ。
右の図(→)は、義光が武藤氏を追って、念願の庄内支配を始めた頃の勢力図である。
庄内は日本海に面しており、港湾の酒田を抱えていた。そのため貿易によってもたらせれる富は想像に難くない。義光は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。
前の勢力図と比べてみるとよくわかるが、殆どの勢力が義光によって滅ぼされている。
義光が家督を継いで、13年後のことである。置賜(伊達氏)を除く羽前(出羽の南半分)を完全に支配するに至っている。
この頃で、実質30万石以上はあったと思われる。だが、越後に逃れた義興の養子、義勝が、父の本庄繁長と共に攻めこんできて、義光は1年も経たぬ内に庄内を失ってしまう。

天正15年(1587)秀吉惣無事令後頃の勢力図

 
 
出羽57万石大名へ

義光は、本庄繁長の戦闘行為は惣無事令に違反しているとして、豊臣秀吉に訴え出た。 徳川家康も義光の言い分を支持して、秀吉との仲介に当たってくれたが結果は上杉の勝訴となり、ようやく手に入れた庄内3郡(田川、櫛引、飽海)を失う。
その後、 義光は豊臣政権下で生き残るために、秀吉の小田原征伐、朝鮮出兵従軍や、 秀吉の養子で、ときの関白、豊臣秀次に愛娘の駒姫(お今・お伊満の方ともいう)を側室として差し出してもいる。なんでも秀次が奥羽仕置きで会津に遠征してきた際に、どうしてもと所望したらしい。しかし駒姫は文禄4年(1595)秀次の謀反事件に連座して処刑されてしまう。そしてこの時期と前後して 、義光は豊臣秀吉に見切りを付け、徳川家康と誼を通じるようになったと思われる。実際に慶長元年(1596)伏見で大地震が起きた際にも、諸武将が秀吉の下に駆けつける中、義光1人が徳川家康を見舞っている。
そして慶長5年(1600)豊臣方の石田三成が挙兵し、関ヶ原合戦が始まるが、こうした中、義光が東軍に味方するのは必然であったともいえる。それに伴い、西軍の上杉景勝の部将、直江兼続が三方より山形城を目指しながら最上領へ侵攻してきた。俗に言う慶長出羽合戦、東北版関ヶ原である。
最上軍は劣勢ながらも果敢に戦い、畑谷城は落ちたものの長谷堂城や上山城を守り抜き、上杉軍を撤退させる。義光は勢いに乗じて庄内に攻めこみ、翌年、尾浦城を落とす。
戦後、その功を家康に認められ、庄内3郡と由利郡を加増された。 義光はとうとう念願の庄内を手に入れたのである。こうして義光は出羽57万石を領する大名へと上り詰めた。下の表(↓)は関ヶ原合戦後の全国の大名石高だが、徳川・豊臣を除くと、前田は別格として、結城(家康の実子)・同じ東北の伊達・蒲生に次ぎ、最上家は全国で第五位という堂々としたものである。
逆に義光と戦った上杉家は、120万石から会津を奪われ、米沢30万石にまで減封されている。この時代が最上家全盛期の頃であったといえる。しかし57万石とは表高で、実質は80万石とも100万石ともいわれている。

 

慶長7年(1602)頃の奥羽諸大名領地図

 

関が原合戦後の主な全国大名石高
順位 大名 国・城 石高 順位 大名 国・城 石高
1 前田利長 加賀/金沢 119.5 8 加藤清正 肥後/熊本 52.0
2 結城秀康 越前/北ノ庄 67.0 9 池田輝政 播磨/姫路 52.0
3 伊達政宗 陸奥/仙台 60.5 10 松平忠吉 尾張/清洲 52.0
4 蒲生秀行 陸奥/会津 60.0 11 小早川秀秋 備前/岡山 51.0
5 最上義光 出羽/山形 57.0 12 福島正則 安芸/広島 49.8
6 島津忠恒 薩摩・大隈 56.0 毛利輝元 周防・長門 36.9
7 黒田長政 筑前/福岡 52.3 上杉景勝 出羽/米沢 30.0
※徳川・豊臣は除く
は関ヶ原合戦後に減封されたおもな大名


 


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