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義光は敵対する勢力を滅ぼしていく一方で、内政にも力を注いだ。 現在の山形市の繁栄の基礎を築いたともいえ、その町割りは今でも残っている。山形城の拡張や城下町の整備と共に、町人を保護し、城下町では地子銭を徴収しなかったという。 義光は慶長16年〜17年(1611〜1612)に領内の検地を行ったが、米納の他、銭納や公事(雑税)も課していたらしい。当時の出羽の現状を理解して、石高制の貫徹を強行せず、穏健な政策を行った義光は、後世から寛大だったと思慕された。実際に義光も含め、最上時代に一揆が起こった記録はない。 さらに義光は寺社をよく保護した人でもある。古くからの寺社の保護はもとより、新しい寺社の建設も積極的に行った。当時の寺社は独自の勢力を保有しており、度々、領主に反抗することもあった。そのため、土地を寄進することによって寺領を与え、穏便に付き合っていく必要もあった
のだが、それにしても義光の保護ぶりは他の大名と比べても郡を抜いている。右の表を見てもわかるように宗派を問わず、寺院・寺社への寄進の石禄が物語っている。日本でも有名なお寺である奈良東大寺で3000石余り、京都法隆寺でさえも1000石程度であったから、義光の神仏への崇敬の念がうかがえるデータである。織田信長のように徹底的に門徒衆と戦い、根絶やしにするのではなく、共存を図ったのだろう。 さらに、義光が特に力を入れたのが治水・灌漑である。山形城下を流失から守るための馬見ヶ崎川の治水や、通船の便を図るための最上川の開削などがそれであり、家臣の北楯大学に命じて完成した北楯堰は有名で、石高が3万石上がったという。あの武田信玄も治水を重視した武将である。信玄の治めた甲斐も、出羽と同じく山国であった。未開発の地が多い出羽国の生産力を高めるには、治水
・灌漑は不可欠だったのである。 関ヶ原の役後、庄内地方を有してからは、貿易港酒田を抱えており、様々な出羽の産物が舟運によって中央へ輸出されていたと考えられる。なかでも紅花は全国の6割のシェアを誇っていて、「最上紅花」として最大の名産品とされた。最上時代の頃から栽培には力を入れていたらしい。 |
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義光の主な領国政策事業 |
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年 |
内容 |
| 天正8年(1580) |
最上川の三難所を開削、通船の便を図る (慶長年間とする説もある) |
| 天正12年(1584) |
野辺沢銀山採掘 |
| 文禄元年(1592) |
山形城拡張、城下町整備 |
| 慶長4年(1599) |
立石寺納経堂修造・中堂再建改修 寺領1420石寄進 |
| 慶長8年(1603) |
赤川治水事業、青龍寺川開削 因幡堰築構、城下町整備 |
| 慶長13年(1608) |
羽黒山五重塔修造 寒河江慈恩寺三重塔創建 鶴岡金峯山釈迦堂再建 |
| 慶長16年(1611) |
領内検地、永松銅山発見 |
| 慶長17年(1612) |
北楯堰築構 |
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義光の主な寺院・寺社への寄進石禄 |
山形光明寺(時宗) 寒河江慈恩寺 (真言宗) 山形光禅寺 (曹洞宗) 山形宝光院 (天台宗) 柏山寺 (天台宗) 山形両所宮 山形六椹八幡宮 山形宝憧寺 (真言宗) 山寺立石寺 (天台宗) 山形龍門寺 (曹洞宗) 山形常念寺 (浄土宗) 山形専称寺 (浄土真宗) 羽黒山 小白川天満宮 |
1760石 2889石 250石 278石 300石 1115石 480石 1370石 1420石 180石 100石 14石 1336石 270石 |
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