最上義光とは

 

最上義光という人物

現在の山形の繁栄を語る上で、欠かせない人物が最上義光である。
義光は天文15年(1546)に、最上義守の嫡男として山形城で生まれた。義光は29歳で家督を継ぐと、敵対する勢力を次々と滅ぼしていき、出羽57万石の大大名にまで上り詰める。また、義光は内政にも力を注ぎ、山形をおおいに発展させた。戦国大名でもあり、優れた政治家でもあった義光は慶長19年(1614)に没するまで、時代の変換の中を駆け抜けた「出羽の驍将」である。

驍将【ぎょうしょう】

1 驍勇の武将。たけだけしく勇ましい大将。勇将

2 (比喩的に)ある分野で、中心になって力強く事を推進する人。

小学館国語辞典より

 

 
最上義光(もがみよしあき)
もがみ「よしあき」と読む
1546〜1614
父最上義守 弟義時 妹義姫(伊達政宗の母)ら
子義康 家親 駒姫(豊臣秀次室)ら
幼名白寿。最上家11代当主。
天文15年(1546)1月に山形城で生まれる。
伊達氏、上杉氏、武藤氏、小野寺氏らと度々争いながら領国を拡大していった。また、僻地の奥羽において、中央の動静に目を向けながら、信長・秀吉・家康に誼を通じつつ、時代の変遷とともに時の権力者の間を巧みに渡り歩き領国を安堵されるなど、外交にも長けていた。そして慶長5年(1600年)関ヶ原 合戦の地方版ともいうべき慶長出羽合戦において、上杉軍の直江兼続の軍勢を撃退し、家康率いる東軍の勝利に大きく貢献。その功により出羽57万石の大名となる。
呼び名としては
出羽の驍将・出羽の虎将・奥羽の驍将・羽州の狐・北天の巨星・鮭様?・シスコン?(笑)などカッコイイのが色々とありますw他にもあるかも 。
 

 

 
父に疎まれた義光

主な戦国大名の家督相続

大名

家督相続時の年齢

状況

最上義光 25 父に疎まれていたとされる。父を隠居させ、当主となる。後に弟を殺す。
織田信長 18 母、家臣に疎まれていたとされる。当主となるが、後に弟を殺す。
徳川家康 19 幼少期から人質となり、今川家の家臣同然の扱いを受ける。今川義元の戦死により自立する。
武田信玄 21 父に疎まれていたとされる。家臣に擁立され、父を追放して当主となる。
伊達政宗 18 母(義光の妹)に疎まれていたとされる。家督は父に譲られたが、後に弟を殺す。
大友宗麟 21 父に疎まれていたとされる。家臣に擁立され、当主となる。

義光の幼少時代を語る上でこんな逸話がある。16歳の時に、父と共に行った温泉で、夜半に山賊に押し入られたという。そのとき義光は少しも動じずに、太刀で賊将を真っ二つに斬り、賊を撃退したという話である。義光は父義守に疎まれていたとされている。義守は義光の武勇を認めながらも、二男の義時を偏愛し、家督も継承させようとした。
※(弟義時に関しては、最近の研究において架空の人物という説があります)
24歳の時に義光は、自身が跡目を継承できるようにと、立石寺に祈願文を納めている程である。
戦国時代に、御家騒動というのはよくあることだ。しかし右の表を見てほしい。戦国時代に台頭した武将は皆、幼少の頃や家督相続までに不遇の日々を送っている。信長しかり、信玄しかりである。幼少の頃のそういう経験が、戦国の世を生きる術を育むのかは不明だが、一気に勢力を拡大していった戦国大名に共通しており、興味深い点である。
現代社会においても、幼少期にチヤホヤされすぎて「若いときに苦労していない奴」というのは、大人になってから損をする。社会的常識が 欠如しているとか、他人に気配りができない人間は社会に出てから通用しないのと一緒だ。(by親父の説教 )
 

 
謀将最上義光

義光の主な調略

調略方法

内容

1577

縁組、内応 天童城攻略。延沢満延内応。
  内応 東根城攻略。

1578

内応、暗殺 上山城攻略。里見越後守内応。
上山満兼暗殺。

1583

内応 尾浦城攻略。前森蔵人ら内応。
武藤義氏自害。

1584

縁組、暗殺 谷地城攻略。白鳥長久暗殺。

義光は、合戦において調略をよく用いた武将である。暗殺、内応、縁組、これらを駆使して出羽を平定していくのである。
義光が家督を継いだ頃、周囲は皆、敵であった。武力をもってして戦を挑むのは望ましくない。弱小勢力が戦に勝つには、調略しかないというのを知っていたのである。敵にくさびを打ち込んでおいてから攻めるという戦略は、中国地方の覇者、毛利元就も度々用いている。
謀将というと、策ばかり弄する腹黒い人物という印象があるが、調略は立派な戦術であり、当時の合戦では普通に行われている。なにより自軍の被害を最小限に抑えることができるため、兵の温存につながる。地理的に中央(近畿)から離れている出羽国においては、戦国大名の出現や領国支配体制が遅れているため、兵農分離も進んでいなかったであろうと思われる。兵のほとんどが、普段は農業に従事する自国の領民であったことを考えれば、力攻めで兵を失うのは好ましくない。
調略は、確実な情報と絶妙な機会があって初めて成功する。義光は情報収集を怠ることなく、常に周囲の動向に目を向けていたのではないだろうか。まあ手っ取り早いっちゃ手っ取り早いんだけど (笑)

 

 
義光の領国政策

義光は敵対する勢力を滅ぼしていく一方で、内政にも力を注いだ。
現在の山形市の繁栄の基礎を築いたともいえ、その町割りは今でも残っている。山形城の拡張や城下町の整備と共に、町人を保護し、城下町では地子銭を徴収しなかったという。
義光は慶長16年〜17年(1611〜1612)に領内の検地を行ったが、米納の他、銭納や公事(雑税)も課していたらしい。当時の出羽の現状を理解して、石高制の貫徹を強行せず、穏健な政策を行った義光は、後世から寛大だったと思慕された。実際に義光も含め、最上時代に一揆が起こった記録はない。
さらに義光は寺社をよく保護した人でもある。古くからの寺社の保護はもとより、新しい寺社の建設も積極的に行った。当時の寺社は独自の勢力を保有しており、度々、領主に反抗することもあった。そのため、土地を寄進することによって寺領を与え、穏便に付き合っていく必要もあった のだが、それにしても義光の保護ぶりは他の大名と比べても郡を抜いている。右の表を見てもわかるように宗派を問わず、寺院・寺社への寄進の石禄が物語っている。日本でも有名なお寺である奈良東大寺で3000石余り、京都法隆寺でさえも1000石程度であったから、義光の神仏への崇敬の念がうかがえるデータである。織田信長のように徹底的に門徒衆と戦い、根絶やしにするのではなく、共存を図ったのだろう。
さらに、義光が特に力を入れたのが治水・灌漑である。山形城下を流失から守るための馬見ヶ崎川の治水や、通船の便を図るための最上川の開削などがそれであり、家臣の北楯大学に命じて完成した北楯堰は有名で、石高が3万石上がったという。あの武田信玄も治水を重視した武将である。信玄の治めた甲斐も、出羽と同じく山国であった。未開発の地が多い出羽国の生産力を高めるには、治水 ・灌漑は不可欠だったのである。
関ヶ原の役後、庄内地方を有してからは、貿易港酒田を抱えており、様々な出羽の産物が舟運によって中央へ輸出されていたと考えられる。なかでも紅花は全国の6割のシェアを誇っていて、「最上紅花」として最大の名産品とされた。最上時代の頃から栽培には力を入れていたらしい。

 

義光の主な領国政策事業

内容

天正8年(1580) 最上川の三難所を開削、通船の便を図る
(慶長年間とする説もある)
天正12年(1584) 野辺沢銀山採掘
文禄元年(1592) 山形城拡張、城下町整備
慶長4年(1599) 立石寺納経堂修造・中堂再建改修
寺領1420石寄進
慶長8年(1603) 赤川治水事業、青龍寺川開削
因幡堰築構、城下町整備
慶長13年(1608) 羽黒山五重塔修造
寒河江慈恩寺三重塔創建
鶴岡金峯山釈迦堂再建
慶長16年(1611) 領内検地、永松銅山発見
慶長17年(1612) 北楯堰築構
 

義光の主な寺院・寺社への寄進石禄

山形光明寺(時宗)
寒河江慈恩寺 (真言宗)
山形光禅寺 (曹洞宗)
山形宝光院 (天台宗)
柏山寺 (天台宗)
山形両所宮
山形六椹八幡宮
山形宝憧寺 (真言宗)
山寺立石寺 (天台宗)
山形龍門寺 (曹洞宗)
山形常念寺 (浄土宗)
山形専称寺 (浄土真宗)
羽黒山
小白川天満宮
1760石
2889石
250石
278石
300石
1115石
480石
1370石
1420石
180石
100石
14石
1336石
270石

 


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