二人の図書室
「エース」
「はい?」
帳簿につっぷしていたエースは、突然声をかけられて素っ頓狂な声を上げた。
テーブルの向かい側の椅子に斜めに腰掛けた男が、
机に片腕を預ける気だるげな姿勢で、こちらをみている。
そういえばそこに座っていたのだった。
あまりにも静かで、真っ赤な帳簿と報告書にうずもれて頭を悩ませていたエースは、そのことをすっかり失念していた。
それはそうと、ゲドの方から声をかけてくるというのは至極珍しいことである。
声をかけられてエースが顔をあげたのにも関わらず、そのままゲドの唇が静止していることでも、彼の饒舌ぶりはうかがい知れるというものだ。
その表情を見せない漆黒の瞳が微かに、そう、じっと凝視すれば分かるくらいに、泳いでいた。
「ひとつ、聞きたい」
「なんですかい?」
この状況の異常さは重々承知していたが、ゲドの台詞が日々あまりにも少なく珍しく貴重なせいか、エースは意識するより早く反射的に返答してしまうのだった。
もうすっかり帳簿は腕の下で皺がよっている。
「…本当なのか」
「へ?」
普段必要なことを必要な分しか言わないゲドが、言葉を濁している。
エースは自前の機転をなんとか働かせようとした。
長年のつきあいプラスαで、その目線を追えばゲドがしょうゆを取っ
て欲しいらしいとか、すでに居眠りしそうなくらい眠いようだ等比較的単純な思考はわかるのだが、いままで帳簿とにらみ合いをしていた自分にとっては、今の状況はあまりにも情報が少ない。
エースは必死で考える。
エース、一つ聞きたい、本当なのか、その文章を一通り口にするまでに既に五分かかっている。次の単語はなんだ。
エース、といわれたということは自分のことだろう。なにかしただろうか。いや、自分のことともかぎらない。自分が知っていることなのかもしれない。本当なのか、ということは大将にとっては不本意なことなのか、いやただ単に信じられないことなのか…
と、中空を見つめていろいろ考えていると、ゲドはそんなエースの様子に訝しげな表情をした。
そしてまた緩慢に口を開く。
「…苦情が、来ている」
「苦情、ですか?」
苦情。新たな単語だ。苦情ということは思わしくない状況になっているとみて間違いないだろう。金か?金なのか?だからこの帳簿を開いているときに言われたのだろうか!?
エースは腕の下で降り曲がったページとゲドの顔を交互にみた。今月はもう余裕が…、と、ゲドが、目を伏せた。
「…お前のラブレターのな…」
えっ。
エースは固まった。
恋文。ジーンを城に誘ったその足で投函したアレだろうか、それともアルマキナンの二人組み相手にそれぞれ名前を取り違えたらしいことにあとで気づいたアレだろうか、いや酒場のお姉ちゃんに渡して伝票と一緒に刺されていたアレかもしれないし、もしかすると同じ文面で十五人に爆撃をしたアレなのか?
ていうかそれら全部だろう、とは思わないエースは固まったまま思考をフル回転させていた。あるだけの記憶の引き出しをひっくりかえして、そして一つの結論にたどりつく。
なぜ苦情が?
本気で首を捻るエースの様子を見て、ゲドはため息をついた。
「…どうも、ヒューゴのほうに…苦情が、いってるらしくてな…
昨日、頼まれた」
ゆっくりと顔を向けて、まだ固まっているエースの顔を正面から見据える。
「…やめろ」
一瞬だけその目に光りが走り、エースはびくりと背筋をこわばらせた。
「は、い」
ぎくしゃくとエースは答えた。でも、だけど、といろいろ反論が頭を掠めたが舌が痺れて動かなかった。
なおもゲドがこっちを見ているので、エースは椅子から降りてごめんなさいと土下座をした。何でかは自分でもよくわからなかったが。
2002/8/19/BXB
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