「ゲド、貴方は逃げ出したんだ。生きることからも、死ぬことからもね。 炎の英雄のように紋章を投げ出すことも、 ワイアットのように紋章と生きることもできなかったんだよ。 このうつろな生を唯一確かなものにする「死」という現実からも、 虚無を有にするための光すらも失って、 ただ引きずられ、彷徨う紋章の囚人だ。」 「もういちど、聞くよ。 貴方の指先は、ちゃんと世界に、触れているかい?」 |
ゲドは右手を月にかざした。 吹き渡る風は青白い月の光にまじり、冴えて冷たい。 ゆらぐ焚き火の色は彼の足元までしかとどかず、 その視界を染めることも無い。 暗い影。その五指の中心にあったあの脈動は今はない。 二つ目の心臓。 体を狂わせ、心を薄らがせたあのひかりは今はない。 喪失感でも、安堵でもない。ただ、違和感。 |
望んでいた?そうだったのかもしれない。はるか昔には、そう願ったこともあったかもしれない。 そうだ、こんなものさえなければ、と。 開かれた手を、握り締める。 風がざぁと頭上に広がる枝を揺らし、 土を撫でるそれがわずかに炎を煽る。 「・・・恐れているのか?死ぬことを・・・・」 あの男の言うとおり。永遠の生が空ろだとすれば、 それを唯一確かにするのは死という結末だ。 しかし、それはこんなものなのか? …あいつは、結末のために死んだだろうか? この指がたどるのは…なんだ。 ゲドは近づいてくる影に意識を移した。 「眠らないんですかい?」 少しばつの悪そうな顔をしているということは、多分自分がそうさせているのだろう、 エースが頭をかきながら見下ろしている。 「見張りなら、代わりますけど」 「・・・・・いや」 見張りをすると言ったジャックと代わったのは自分であったし、寝る気にもなれなかった。 否定だけを告げると、エースは肩をすくめる。 「えぇと…」 目を泳がせながらため息をついて、エースはゲドの隣に腰を下ろした。 「その…なんつぅか、大将?」 視線が同じ高さになったところで覗き込んでくる。 見透かされそうな気がして、目を逸らした。 「…大丈夫だ」 なにが大丈夫なのか、自分でもわからないというのに。 見せたくなかったのか、感じさせてはならないと思ったのか。 ゲドの眼差しは炎を追う。 愛するものとわずかな時間を共有するためにあれは死に、 愛するものが生きてくれることに救われてあれは死んだ。 …自分は、どうだろう? 生きることを選んだわけでもなく。 ただ惰性で…その力に生かされ…そして今度は…食い尽くされる。 生きたわけではない、死ななかっただけだ。 そして今は、いつその糸が途切れるかもわからない。 ぁあだが、ただそれが限りなく近づいているということはわかる。 それがひどく感覚として体に残っているようで、…それでいて、どこか遠い。 死すらも遠い。この空ろな現実の中で。 「大将」 視線だけを向けた。 珍しく、ひどく真剣な眼差しだった。 「あんまり我侭言うといくら俺でも怒りますよ?」 …? 「…なんのことだ、それは」 「ですから。明日だって早いんだから寝ちまってくださいよ。 昨日だって急ぐとか言って寝なかったじゃないですか」 あまりのこちらの思考とのズレに一瞬止まる。 しかし、エースは本当に憤慨しているようだった。それで。 ふっと、思わず笑いそうになる。 「…そうだな」 今を眠り明日を戦うことが。 そのあまりにも単純で稚拙な繰り返しが、 今の自分にとっての唯一の現実。 そうなのかもしれない。 「らしくもない…」 口をついた言葉だったが、静寂の中ではいくらエースでも聞こえたようだ。 「大将は毎度そうじゃないですか。ちったあ俺の身にも…」 と、そこで途切れる。 こちらとしてはその言葉の続きを待っていただけなのだが、 しどろもどろになり、沈黙し、頭をかく。 「ぇぇぇと、怒ってます?」 何を取り違えたのか、そんなことを聞く。 「いや」 少し考えて、言った。 「感謝している」 立ち上がり歩き出すゲドの背中を、口を半開きにしたままエースの顔が追う。 「へ」 やっと出た情けない声に、ゲドは振り返らずに少し目を細めた。 |
エースには小難しい話は無理だったようです。 2002/8/03 |
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