夢きちがい

時計に目をやった。午後七時三十三分二十二秒――否、あの時計は三分遅れている。玄関の向こうで人の気配、ドアの鍵はあいていた。見知らぬ女が入ってきた。何がぶつぶつと唱えているかのように見えたが何をいっているのかわからない。充血した目はまっすぐに一点を凝視していた。女はその方向へ一直線に進む。玄関からそこまでさほど距離はなく、女が大またで、しかも早足であるけばあっという間についてしまった。女はいった。
「ああ、貴方でございましたか。今日はどうされましたか?」
女はさらに近づいた。ここでようやく、右手に果物ナイフを持っているのに気がついた。女はまた言った。
「顔色が優れないようですわね。熱はあるのかしら。」
左手で私の額に手を当てる。私は先ほどからこの女を恐れている。何故?一体この目の前の華奢に女に何の恐れを抱くというのか。女は怪訝な顔をしてその白く細い手を額から腕、肘、そして私の右手へと滑らせて、掴んだ。
「動悸が激しいようですね。貴方はたくさんの血を体に宿しているから、ほら、心臓は馬車馬のように働かなければならないのですよ。」
どういう意味なのだろう。女は私の右手を掴んだまま、果物ナイフを私の口に差し入れようとする。
「ほら、口を開けてくださいな。大丈夫、のどの奥を突っついたりしませんわ。」
女は優しいのだが、気色悪いのだかわからない笑みを浮かべた。私はそれにつられて、殆ど条件反射で素直にそれに従ってしまった。女は果物ナイフの腹で私の舌を押さえながらのどの奥を覗き込んだ。やがていいですよといいながら果物ナイフを私の口から取り去ると
「ただの風邪のようですね。ただし風邪だからとあなどってはいけませんよ。こじらせると大変なことになってしまいますからね。ここ二、三日は安静になさいませ。……貴方も、心臓もね。」
「心臓も……?」
「そうです。」
先刻から私の右手は囚われたまま、逃れようとするが女の華奢な指の力は万力のように強く、皮膚に食い込んでいる。一つ、二つ汗が頬を滑り落ちた。女はいつの間にか果物ナイフを逆手に持ち替えていた。
「血気盛んなのは非常に結構ですが、心臓にはとても負担がかかりますのよ。無駄な部分は抜いてしまいましょうね。」
勢いよく果物ナイフを私の右手に突きたてた。朱い血が元気よく飛び出す。女はぐりぐりと刃先を回しながら私の腕の深いところまで刃をねじ込ませていく。女の顔、胸、手に赤い斑点が次々と出来ていく。女はその一つ一つをなかったかのように振舞いながら、実に平静に作業をしている。その表情からは喜びも悲しみも怒りも恐怖も感じられない、所謂無表情だった。不思議なもので、私はその光景をまるで人事のように観察していた。腕の痛みはまだ感じはしない。きっとかつてない腕の苦痛の信号を脳が受け付けないのに違いない。それから思えば人間の体は実によく出来ているようで間が抜けている。くつくつとした小さな笑いがこみ上げてきた。
「何を笑っていらっしゃるの?」
女は敏感に察知し、問い詰めた。慌てて顔色を元に戻そうとするが遅かった。
「それとも思い出してくださったのかしら。ねぇ。」
一体何のことだろう。私はこの女には全く覚えが無いのに。
「いいえ、思い出すなど、貴方が思い出したりなんかしないわ。だって私は貴方にとって赤の他人でしかないのですもの。」
「……。」
「いいえおっしゃらないで。貴方の言いたいことは全て存じておりますわ。ええ知っていますとも。私が誰だか訊ねたいのでしょう?」
「……。」
「でも貴方は私を知っているはずだわ。なぜなら私は貴方を知っているのだから。からかわないで頂戴。私は正気よ。さぁ、私は誰?」
本当に覚えが無い。第一こんな美しい黒い髪の女が知り合いにいれば、私はすぐにでも思い出せるに違いない。
「ふふ、貴方はいつもそうね。『貴方は誰?』なんてこといって私をからかうの。あら、貴方何をそんなに沢山汗をかいていらっしゃるの?否ね、赤い汗なんてまるでカバみたい。もしかして、本気で私が誰だかわからないでいるの?しっかりしてくださいな。私は……。」
「タマエ。」
「そう、珠恵よ。知っているのなら聞かないでくださいな。」
咄嗟に口走った名前だがどうやら正解だったらしい。何という偶然だろう。しかしタマエという女に知り合いはいない。
「ねえ、おぼえていらっしゃる?私が小さい頃のこと。貴方と私はよく近くの砂場と滑り台しかない公園で遊んでいたわね、そう貴方と私、お隣さんだった。貴方は滑り台を駆け上がるのが大好きだった。私もそれを真似して駆け上がろうとするのだけど、いつも天辺まで登れずに滑り落ちてしまったわ。貴方はあんなにもあっさりと登れてしまうのに……。何故貴方は登れてしまうのかしら。悔しかった。そうよ、とっても悔しかったのよ。貴方分かっていらして?」
「……ああ。」
「そう理解がはやいのね。関心だわ。あら、いやだ。私おしゃべりに夢中で、穴をあけるのをすっかり忘れていたわ。ごめんあそばせ。」
「穴なら……もうあいていますよ。」
右手はすでに血糊なのか傷口なのか判別できなくなっていた。コーヒーサイフォンのように一定のリズムをもってでてくる血液は先達がつけた道を伝って腕から肘の方へ流れていって、次々と投身自殺を図る。自分の体の中身がこんなにも沢山はみ出ているというのに不思議と私は冷静だった。今は自分の未来よりもこの女の一挙一動の方に興味がある。女は私の右腕からナイフを引き抜いた。無理な力がかかっていたからだろうか。刃先が曲がって、それによって少しばかりの肉が抉り取られた。女はその肉を指ですくって口に入れた。
「人肉は柘榴の味がすると聞いたことがあるけど、私柘榴って食べたことがないからわからないわ。きっとこんな味ね。」
彼女から右手が解放されているのに今気がついた。突き倒せば大分逃げる時間が稼げるだろう。玄関のドアは開いたまま、テレビのスイッチはつけっぱなしである。携帯電話はポケットの中。一番の近くの派出署までは五百メートルというところか。さて、どうして逃げたものか。
「貴方も私から逃げておしまいになるのですか。」
「逃げてなんかいませんよ。」
「嘘だわ。だってほら、貴方の心臓はひっくり返っているのですもの。」
「分かるのですか。」
「いいえ知りませんわ。心臓に穴があいていない人は嘘をつくのよ。」
「ただの迷信ですよ。」
「いいえ、判らなかったら見てみればいいのよ。貴方はきっと嘘つきだわ。」
「それは違います。」
「大丈夫心配しないで、私貴方のことを信じていますわ。幼馴染だった貴方を。安心してくださいな。」
「今からですか。」
「そう今から。でないと朝日が昇ってしまうでしょう?」
「朝日がのぼるとよくないのですか?」
「いいえ、私は朝日が昇るほうがいいと言ったのよ。」
「これは失礼、でも何故なんです?」
女の顔色がいっぺんに青ざめた。全身をわなわなと震わせて私を憎悪のまなざしで睨み付ける。どうやら今の質問は禁忌だったらしい。
「……貴方はやっぱり嘘つきだったのね。私は珠恵ではない。柚葉よ!」
と、女は凄まじい勢いで私の襟を掴んで引き寄せ左がわの首の根元からみぞおちにかけて果物ナイフで切りつけた。しかしながらそんなに深い傷ではないらしく服が斜めに切れただけで、期待していたほどの血飛沫はあがらなかった。やはり先が曲がった果物ナイフは切れ味が悪い。けれども女はそんなことお構い無しに今度は十字を描くように左から右へナイフを突き立てた。ここで初めて痛覚が働いた。刺す様な痛み、実際刺されている訳だが、そんな表現が正しい。その激しい感覚に安堵した。生きていることの実感だろうか。それでもこの他人事のような冷静さは何なのだろう。そういえばさっきから回りの景色がだんだん暗くなってきているような……
「嘘つきは貴方の所為ではありませんわ。貴方の心臓が逆なのが悪いのよ。大丈夫、私が入れ替えて差し上げますわ。」
「……っ!」
「ですカラ今ハ静カニ……――

 そこで目が覚めた。まだ夜が明ける気配もなく、遠くの方でバイクのエンジンの音が聞こえた。カーテンを閉め忘れた窓から北斗七星が見える。最期に見た女の顔のアップが妙に印象的だった。しかしあの女に覚えはない。呼吸が荒くなっているのに気づいた。思わず胸に手をやった。脈がとても激しく波うっているので、自分の心臓が右にあるのか、左にあるのか分からなかった。この行動は自分があの夢に怯えている事に気づかせる。そうか、私は小心者だったのか。これでもモノに動じない性質だと言われているのだが……。
グダグダと考えているうちにいつの間にか再び眠ってしまった……。

時間は私が停めました。
止めたのは貴方ですわ。


「なんだと思えば夢の話?……俺、忙しいから。」
「そんなこと言わずに聞いてくれよ。」
「要するにあれだ、タラバガニみたいな蜘蛛が部屋にいたのだろ?もういいよ。」
「今回は違うさ!女に殺される夢さ!」
「ナニ?お前を殺してくれるような女がいたの?大事にしろよ。貴重だぜ?」
私は嫌がるこの男を捕まえて夢の内容を話して聞かせた。男は昼飯を食べながら話半分に聞いていた。話し終わってひとこと、
「昆虫の恨みなんじゃねーの?」
「フツー違うだろ!」
「じゃ何だ、あ、九十九神の祟りだ。あーきっとそうだ。」
「人が真面目に相談してたら!」
「そう、怒るなよ。夢なんて自分の願望にすぎないのだから。」
「じゃ俺は女に殺されたいってのか?」
「さぁ?フロイトにでも相談すれば?俺の知ったことじゃねーよ。」
男はこともなげに言った。いつものことだがこの男に相談したことに大いに後悔した。否、この男でなくとも同じ結果だったのだろう。夢をあれこれ言うことほど馬鹿馬鹿しくて退屈させるものはない。ただ、話がしたかっただけなのだ。面白い映画の内容を人に話したくなるように……。しかし、よくもこんなにあの夢をおぼえているものだ。不思議だな。やはり何かあるのだろうか……。

「まだここにいらっしゃったのですね。
退屈ではございませんか?」
―――何故です。
あの人は笑った

 ユズハ、とあの女は名乗った。けれども珠恵だとも言った。この矛盾をどう説明すべきか。あるいはあの女ただの気狂いだったのか。そもそもなぜ私はあの女に向かって珠恵と口走ってしまったのか。それが知りたい。殺される恐怖というよりも、自分の死という代償でもってあの女がなにものなのか知りたい気がするのだ。先刻あの女を気狂いと表現したが、狂っているのは私のほうかもしれない。あるいはこころのどこかであの狂った冷徹な女に惹かれている部分があるのかもしれない。パンドラの匣を、そうとわかっていて敢えて開けるようなこの快感。思うに箱を開けたあの女はこの匣に何が入っていたか知っていたのではないだろうか。世の中のありとあらゆる災いが飛び出して最期に底に希望が残って匣の蓋は閉められた。そう、本には書かれていないが、箱の蓋は閉められたのだ。そして希望は閉じ込められ、だからこの世に希望はありえない。代わりに、人は、夢をみるようになった。
「……そんな理論は余りに稚拙すぎやしないか。」
 薄暗い自宅で自分にささやかな突っ込みを入れた。玄関がよく見える位置に座ってこんなことを考えていた。テレビはつけっぱなしである。ここに座ると玄関の様子と時間とスケジュールがよく分かるのだ。そうなるように時計とカレンダーの位置を工夫した。手を伸ばせば何でも取れるようにもした。あるいはなったのかも知れない。捨てられないものばかりだから、部屋はどんどん狭くなった。執着、全く以って未練がましくて、あさましい。自嘲気味な笑いが漏れた。
 今、時計の針は七時十五分を過ぎたところを指している。実は、玄関の鍵はあいている。わざと開けておいた。これから来る客のために。私は何故かあの女が今日くるような気がしてならない。否、多分来るに違いない。テレビの音声は夢の中で聞いたことがあるからだ。様々な情報が氾濫している今、似たようなニュースソースはゴマンとある。ただの既視感だといわれればそうかも知れないが、そういう確信が何故かもてるのだ。不確定で確実な自分の身の破滅を嬉々として待ち構えている私の精神はどこか矛盾している。時計の針の音がうるさく感じられるくらい、私は外の物音に意識を集中させていた。テレビの音が煩い……。

「ここには何でもありますわ。けれどここには何もありませんの。」
―――貴方がいるではありませんか。
「でも、貴方はここにはいませんわ。」


 時計に目をやった。午後七時三十三分二十二秒――否、あの時計は三分遅れている。玄関の向こうで人の気配、ドアの鍵はあいている。見知らぬ女が入ってきた。あの女。何がぶつぶつと唱えているかのように見えたが何をいっているのかわからない。充血した目はまっすぐに一点を凝視していた。女はその方向へ一直線に進む。玄関からそこまでさほど距離はなく、女が大またで、しかも早足で歩けばあっという間についてしまった。女はいった。
「ああ、貴方でございましたか。今日はどうされましたか?」
 女はさらに近づいた。ここでようやく、右手に果物ナイフを持っているのに気がついた。女はまた言った。
「顔色が優れないようですわね。熱はあるのかしら。」
 左手で私の額に手を当てる。私は先ほどからこの女を待っていた。何故?一体この目の前の華奢に女に何の希望を抱くというのか。女は怪訝な顔をしてその白く細い手を額から腕、肘、そして私の右手へと滑らせて、掴んだ。
「動悸が激しいようですね。貴方はたくさんの血を体に宿しているから、ほら、心臓は馬車馬のように働かなければならないのですよ。」
 心臓が動くのは当たり前のことではないらしい。女は私の右手を掴んだまま、果物ナイフを私の口に差し入れようとする。
「ほら、口を開けてくださいな。大丈夫、のどの奥を突っついたりしませんわ。」
 女は優しいのだが、気色悪いのだかわからない笑みを浮かべた。私も女の笑い方を真似て笑った。女は果物ナイフの腹で私の舌を押さえながらのどの奥を覗き込んだ。やがていいですよといいながら果物ナイフを私の口から取り去ると
「ただの風邪のようですね。ただし風邪だからとあなどってはいけませんよ。こじらせると大変なことになってしまいますからね。ここ二、三日は安静になさいませ。……貴方も、心臓もね。」
「心臓は動き続けるのではないのですか?」
「そうです。」
 先刻から私の右手は囚われたまま、逃れようとするが女の華奢な指の力は万力のように強く、皮膚に食い込んでいる。一つ、二つ汗が頬を滑り落ちた。女はいつの間にか果物ナイフを逆手に持ち替えていた。
「血気盛んなのは非常に結構ですが、心臓にはとても負担がかかりますのよ。無駄な部分は抜いてしまいましょうね。」
 勢いよく果物ナイフを私の右手に突きたてた。朱い血が元気よく飛び出す。女はぐりぐりと刃先を回しながら私の腕の深いところまで刃をねじ込ませていく。女の顔、胸、手に赤い斑点が次々と出来ていく。女はその一つ一つをなかったかのように振舞いながら、実に平静に作業をしている。その表情からは喜びも悲しみも怒りも恐怖も感じられない、所謂無表情だった。私はその光景をまるで一度みた映画を観るように観察していた。腕の痛みはまだ感じはしない。きっとかつてない腕の苦痛の信号を脳が受け付けないのに違いない。それから思えば人間の体は実によく出来ているようで間が抜けている。くつくつとした小さな笑いがこみ上げてきた。
「何を笑っていらっしゃるの?」
 女は敏感に察知し、問い詰めた。慌てて顔色を元に戻そうとするが遅かった。
「それとも思い出してくださったのかしら。ねぇ。」
 ここまでは全て予定通り。ここからあの女のクライマックスが始まる。
「いいえ、思い出すなど、貴方が思い出したりなんかしないわ。だって私は貴方にとって赤の他人でしかないのですもの。」
「それは違います。」
「いいえおっしゃらないで。貴方の言いたいことは全て存じておりますわ。ええ知っていますとも。私が誰だか訊ねたいのでしょう?」
「……違います。」
「でも貴方は私を知っているはずだわ。なぜなら私は貴方を知っているのだから。からかわないで頂戴。私は正気よ。さぁ、私は誰?」
「ふふ、貴方はいつもそうね。『貴方は誰?』なんてこといって私をからかうの。あら、貴方何をそんなに沢山汗をかいていらっしゃるの?否ね、赤い汗なんてまるでカバみたい。もしかして、本気で私が誰だかわからないでいるの?しっかりしてくださいな。私は……。」
「ユズハ。」
「何故私の名前をしっているの?貴方と私は初対面のはずだわ。」
 この女の台詞がかわった。機械的ではなくちゃんと自分なりの受け答えをしていたことがこれで判明した。私はさらにこの女をからかってみたくなった。
「いいえ、前にお会いしたでしょう。そう、あれは確か千里山の駅だ。」
「ああ、私定期券を落としてしまって、そのときの……。」
「そうですよ。」
「あの時はどうも。私とっても助かりましたわ。あら、いやだ。私おしゃべりに夢中で、穴をあけるのをすっかり忘れていたわ。ごめんあそばせ。」
「穴なら……もうあいていますよ。ほら。」
 私はあの女の前に右手を突きつけた。右手はすでに血糊なのか傷口なのか判別できなくなっていた。コーヒーサイフォンのように一定のリズムをもってでてくる血液は先達がつけた道を伝って腕から肘の方へ流れていって、次々と投身自殺を図る。自分の体の中身がこんなにも沢山はみ出ているというのに女は私の右腕からナイフを引き抜いた。無理な力がかかっていたからだろうか。刃先が曲がって、それによって少しばかりの肉が抉り取られた。女はその肉を指ですくって口に入れた。
「人肉は柘榴の味がすると聞いたことがあるけど、私柘榴って食べたことがないからわからないわ。きっとこんな味ね。」
「あまり人肉を食べると脳が溶けてしまいますよ。貴方は狂牛病を知らないのですか。」
「でもドイツ人は今でも人類で最も聡明な種族だわ。」
「そうですか。」
 突き倒せば逃げる時間くらい稼げるだろう。玄関のドアは開いたまま、テレビのスイッチはつけっぱなしである。携帯電話はポケットの中。一番の近くの派出署までは五百メートルというところか。しかし「どうして逃げたものか」などとは考える気はない。
「貴方も私から逃げておしまいになるのですか。」
「逃げて欲しいのですか。」
「違うわ。逃げているのは私のほう。私はこんなに薄暗い所は嫌いですもの。」
「お気に召しませんでしたか。でも、外は明るいですよ。」
「ええ、こんなにいいお天気ですもの。きっと外は明るいですわね。」
「そうでしょうとも。」
「でも……。」
 女は突然天を仰いだ。見開く目からは涙が滲んでいる。
「貴方はここにいて退屈ではないの?」
「何故ですか。」
「ここは狭いから手を伸ばせばなんでも手に入るでしょう。でも、ここにはなにもありませんの。」
「……貴方がいるじゃありませんか。」
「ええ、私がいるわ。でも貴方はここにはいませんの。何故なら……。」
「何故なら?」
「私は時間を停めてしまったから。」
「止めたのは私です。」
「そう、止めたのは貴方。貴方は嘘吐きですわ。」
「まさか、私は真実しか信じませんよ。」
「じゃあ何故私を知っているの?」
「知りませんよ。貴方なんか……。」
「そうね、私は貴方を知らない。貴方も私を知らない。それでつじつまが合うの。でもね、矛盾しているの。この現実が。」
 そういって女は自分の右腕を刺した。と、同時に私の腕に痛覚が蘇った。
「痛いでしょう。痛むでしょう。貴方の腕が。私はちっとも痛くないの。ちっとも痛まないの。やっぱり貴方だったのね。」
 あまりの激痛から自分の傷口をかばってしまった。左手の指の間から今尚漏れる赤い血液の感触が心地よかった。やがて、痛みに耐え切れずその場に崩れ落ちた。
「やっと見つけましたわ。私の痛覚。こんなところにいたのね。いい子ね。泣かないで。」
 女はうずくまる私の頭をやさしくなぜた。腕からほとばしる血液が頬にかかった。
「貴方に時を止められたから、こうするしかなかったのよ。」
「時を停めたのは……貴方ではないのですか。」
「やっと停めることができるのよ。ねぇお祝いしましょう。待っていらして、今グラスを持ってくるわ」
 女は立ち上がって、台所の方へ向かった。まるでこの家に住んでいるかのように一直線に、ためらいもせず、ごくごく自然に流しの下の引き出しを開けた。そこからキッチンバサミを取り出した。と、女は凄まじい勢いで戻ってきて、私の襟を掴んで引き寄せ左がわの首の根元にハサミの先端を突き指した。しかしながら女の力はさほど強くなく、そんなに深い傷にはならず、期待していたほどの血飛沫はあがらなかった。痛くない。女はハサミを引き抜くと自分の胸に突き刺した。そして半分ひねって引き抜いた。このときだけ激しい痛みが全身を突き抜ける。ずきずきと刺す様な痛み、実際刺されている訳だが、そんな表現が正しい。その激しい感覚に安堵した。生きていることの実感だろうか。この女に生かされていることの悦びだろうか。私は抵抗することなくただ、さされるが儘に女に身を任せていた。この他人事のような冷静さは何なのだろう。女はもくもくと自分の太もも、左腕、わき腹と刺し続けている。そういえばさっきから回りの景色がだんだん暗くなってきているような……
「……っ!」
「よかったわ。よかったわ。これで私の時間を停める事が出来る。私これで生きてゆける。天使になれるのよ。時間を支配するのよ。」
「お役に……立てましたか…?」
「ええ。足手まといだったわ。ありがとう。」
「それ……は…よかっ……タ……。」
「デモ私、天使ニハナレナイワ……。」

―――時間を支配するものは消滅する運命です。
「でも先生、私天使になりたいの。」
―――困りましたね。
「私が天使だからですか?」


 青年の死体は十日後、彼の部屋の隣に住む住民から異臭がすると訴えられた管理人の老婆が発見した。ここ連日の蒸し暑い陽気は彼の死体を原型をとどめないほどに腐らせるのに充分だった。ドアを開けた瞬間に蝿が黒い塊になって飛びだしてきたという。部屋の鍵は閉まっていた。乾いた血の海の中に咳止め薬が転がっていたので、男の死は自殺として処理された。



あとがき


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