

アレルヤ、ホサナ
●アレルヤ(Alleluia)
ヘブライ語でhallelujah、「ヤーウェを賛美せよ」「主をほめたたえよ」という意味。語源はhalelu「たたえる」+jah「ヤーウェ」。古典典礼において、とくに詩編において、歓喜を表す語で、現在では聖務日課と聖体祭儀において使われています。
キリスト教会の讃美歌でも「ハレルヤ」の言葉を使った歌詞が多くあります。ローマ・カトリックのミサで最もよく知られているのは、復活祭の賛歌とミサのアレルヤ唱です。
「ハレルヤ」は旧約聖書の詩編に非常に多く出てきます。詩編の最後の第150編は「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。ハレルヤ」で終わっています。新約聖書ではヨハネの黙示録にでてきます(第19章1〜6)。
●ホサナ(Hosanna)
ヘブライ語の喜びと勝利の叫び声。詩編118からとられた語で「どうか私たちを救ってください」という意味。語源は ho si a na「どうぞ救ってください」、歓呼の声。
ユダヤの仮小屋の祝日の期間中、祭壇の周囲の行列のときに司祭が唱えるか歌うかしました。ある節が唱えられるとトランペットが吹き鳴らされ、しゅろの葉がうち振られ、歓呼の声ホシアナ(Hosiana)がくり返されました。
現在のミサでは「聖なるかな」(Sanctus)のときに司祭と信者が声を合わせてホサナを2回唱えるか歌うかします。枝の主日には、受難の数日前にキリストがエルサレムに入ったときに群集がホサナと叫んだことを見習って、しゅろの葉の配布と荘厳な行列の間にもホサナと唱えます。(現代カトリック事典、キリスト教を知る事典 外村民彦著 参照)
列福・列聖●列福・列聖
ローマ・カトリックで、聖人の仲間に加えられることを列聖といいます。ある信徒や聖職者たちが、その生存中に聖なる生活を送ったり、あるいは殉教死したりした場合、その人物の死後に、生前の生涯、英雄的徳行、著述などについて調査し、第1段階として「福者」の列に加えます(これを「列福」といいます)。さらに年月を経て調査を続けて、聖人に加える資格があると決定された場合、教皇によって「聖人とする」と宣言されます。これが「列聖」です。
最近では、日本でも活躍したフランシスコ会のコルベ神父が1982年に列聖されています。また「聖パウロ修道会」「聖パウロ女子修道会」「師イエズス修道女会」など、「パウロ家族修道会」と呼ばれる5つの修道会の創立者、ヤコブ・アルベリオーネ神父が、今年(2003年)4月27日に福者に上げられました。「神の愛の宣教者会」の創立者、マザー・テレサは10月19日に福者に上げられる予定です。
日本人ではキリシタン時代に迫害を受けて殉教した日本二十六聖人があります。
●日本二十六聖人
1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎・西坂の丘で、豊臣秀吉の命令によって処刑され、殉教したキリスト教徒たち。
1593年、フィリピンの使節として来日したスペイン人のフランシスコ会士ペドロ・バウティスタらは最初から活発に布教をしました。これが秀吉を刺激、さらに1596年四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の積荷没収問題にからんで、キリシタン迫害がひどくなりました。
これをきっかけに、そのころ京阪地方にいたフランシスコ会士6人と日本人17人、これに自分から進んで捕らえられたイエズス会の三木パウロら日本人三人の計26人が、京都市中を引き回されたうえ長崎に送られ、十字架にかけられて槍で処刑されました。
26人は信仰の模範と仰がれ、1861(文久元)年から翌年にかけて、教皇ピオ9世によって聖人の列に加えられました。(キリスト教を知る事典 外村民彦著 参照)
死海文書(Dead Sea Scrolls)
パレスチナの死海近くの住居跡から発掘された写本や多くの断片を総称して「死海文書」と言います。
1947年の初夏、一人の羊飼いの少年が、死海を見下ろす崖によじ登った山羊を捕らえようとして、洞穴の中から何か古い書物らしいものを見つけました。
それが死海文書発見の最初でした。その後、周辺の洞穴や住居跡などで組織的な発掘がおこなわれました。その中で最も資料的に重要と見られるのが、クムラン洞穴から出た文書でした。すべて羊皮紙でできており、紀元前2〜前1世紀に書かれたものといわれます。亜麻布に包まれてつぼに入れられてあったため、保存状態がよかったようです。
数百におよぶイザヤ書などヘブライ語旧約聖書の巻物や、旧約外典、宗規要覧(共同体の規律)などが含まれています。また、近くの別の場所からは、旧約聖書の正典を筆写した写経室なども発掘されました。クムラン教団と呼ばれるユダヤ教の1つがあった場所と見られ、キリスト教の修道院のような組織があったようです。
保守的学者は、これらの文書は紀元前170年と紀元68年の間に書かれたと主張しています。死海文書の中には、キリスト教の主要教義の痕跡はありません。しかし、キリスト教信仰の意味解明に役立つ多くの類似箇所があります。現存する最古のヘブライ語の聖書の写本より古い写本の発見の意味は大きく、旧約聖書の研究に貢献しています。今もこの一帯でおびただしい文書が発見されており、死海文書の研究に従事する欧米の学者が多くいます。出版される書物も無数で、イエスについての異説も出ているほどですが、文書に対する体系的な評価はまだ固まっていません。(キリスト教を知る事典 外村民彦著/現代カトリック事典 参照)
聖母マリア被昇天
マリア被昇天とは、マリアが霊魂と肉体とともに天国に入ったという教理です。この教理は、ピウス12世教皇によって1950年に公に宣言されたものです。
聖書の中に、聖母の被昇天について直接の根拠はありませんが、マリアは恩恵に満ちた者だった(ルカ1:28)ことから論証しています。この教義は、聖書よりもむしろ何世紀にもわたって伝達されてきた口述伝承の一部です。マリアは、地上でのキリストの救いの仕事に非常に密接に結ばれていたので、肉体の栄光においてもキリストと共にいるのは当然のことです。
なお、キリストの場合は昇天、ラテン語ではascensioと言いますが、マリアの場合は被昇天、ラテン語ではassumptioと言います。神であるキリストは自ら天に昇ることができますが、人間であるマリアは自ら天に昇ることはできず、キリストによって天に上げられたことから、このように違った表現が用いられます。
8月15日をマリアの祝日とすることは非常に古くからのことでした。「マリアの就眠」としてその死去を記念する伝統は、431年のエフェソス公会議の後間もなく始まったと思われますが、東ローマ皇帝マウリキウス(在位582〜602年)によって、それを8月15日に祝うことが定められました。東方正教会では今でも、8月15日をマリアの就眠として祝っています。マリアの就眠を記念する習慣は、7世紀には西方教会にも伝わり、847年には教皇レオ4世によって、聖母の被昇天として8日間にわたって、祝われる祭日として定められています。(「よくわかるカトリック」小高毅著/「現代カトリック事典」 参照)
聖ニコラオ(サンタ・クロース)
ニコラオは、270年、小アジア(今のトルコ)のリシア州パタラに生まれました。財産家の信心深い両親に見守られて、知恵にも善徳にもすぐれたものとなりました。
両親の死後、莫大な遺産を相続しましたが、情け深いニコラオは、それを貧しい人にあげようと決心しました。その慈善のひとつに次のような話があります。
近所に貧しい靴屋が住んでいました。3人の美しい娘がいましたが、父は貧乏なので、嫁入りの支度金がどうしてもつくれませんでした。そのうちに父の心に魔がさして娘たちを売り飛ばそうとしました。ニコラオはこれを知って、気の毒に思い、どうにかしてこの計画をやめさせようと決心しました。
ある夏の晩、ひとりの嫁入りに必要なお金を布切れに包み、それを例の靴屋の2階の窓の中に放り込み、暗闇に姿を消しました。靴屋一家は、このお金は天のお恵みだといって神に感謝し、長女の結婚を滞りなくすませました。
しばらくしてニコラオは、また次女の嫁入り金を同じように投げ入れました。靴屋の主人は、この名も知れぬ恩人は誰なのか、ぜひ知りたいと思うようになりました。そして、三女の嫁入り金を投げ入れた時のことです。靴屋の主人は、お金の音に目を覚まし、闇に逃げたニコラオに追いつきました。そしてニコラオの前にひれ伏し「あなたは私どもを救ってくださった恩人です」とニコラオの足に接吻しようとしました。ニコラオはこれを押し止め、このことを人に話さないように誓わせました。
スイス、ドイツ、オランダなどでは、聖ニコラオの祝日は子どもの日になりました。聖人がかつてお金を窓に投げ入れ、三人の娘を救った伝説がもとになって、聖人の祝日の前夜に子どもへそっとプレゼントをする習慣ができました。12月5日の晩、ベッドへ行く前に子どもは紙で作った小船か靴を用意したり、靴下を窓際へかけておいたりします。すると聖ニコラオが夜通る時、お菓子と贈り物を入れてくれると信じています。
宗教改革の頃から、プロテスタントの地方では、この優しい司教の訪問を廃止して、贈り物を入れた袋を背負い、司教服になぞらえた赤服赤ずきんで長靴ばきの好々(こうこう)爺(や)の形にかえ、それをクリスマスと結びつけてしまいました。名前も聖ニコラオをオランダなまりで「サンタ・クロース」と呼びました。
18世紀に「サンタ・クロース」は、イギリスにも渡り、クリスマスのプレゼントを窓からではなく、煙突から入って、暖炉やストーブのそばに用意しておいた靴や靴下の中に入れることになりました。さらにこの習慣には北欧の伝説も加わり、ニコラオは8頭のトナカイのそりにおもちゃを乗せて北の国から訪れてくるのだ、と言い伝えられました。
オランダと英国から移住民が、この習慣をアメリカに移してからは、他の国にも伝わりました。日本でもクリスマスが近づくと、デパートや商店のショーウインドウや、新聞や雑誌の広告欄に「サンタ・クロース」の姿がよく見受けられます。
信徒は、この物質的な世俗主義の宣伝を見るたびに、聖ニコラオの本当の姿とその美しい愛の教えを思い出して、これを自分の周囲の人にも伝え、聖ニコラオの愛の精神を自分の生活の中に生かすように努めたいものです。(「教会の聖人たち」池田敏雄著 参照)
イエスかイエズスか
新共同訳聖書の人名の表記で一番問題となったのは「イエス」です。プロテスタントの聖書では「イエス」となっていますが、ロシア正教の日本ハリストス正教会では「イイスス」、カトリックでは「イエズス」と表記してきました。同じ言語圏で、プロテスタントとカトリックで、このように違った呼び方をする例は他にはみられないのではないでしょうか。
イエスはユダヤ人でありましたから、ヘブライ語風に発音すれば「イエシュア」となります。ところがイエスの生涯を記した福音書はギリシア語で記述されていますので、それはギリシア語化され「イエースース」と表記されています。これはさらにラテン語で「イエズス」と表記されることになりました。 カトリックが「イエズス」と表記したのはキリシタン時代からのことですが、これはカトリックがラテン語を共通語とし、儀式書、公式文書等はラテン語が用いられてきたことによります。ラテン語でイエスはJesusと綴りますが、中世からの教会ラテン語では、母音に挟まれたSは濁るという原則があります。そのため「イエズス」と発音されました。
新共同訳では、すでに一般に受け入れられている「イエス」という表記が採用され、この刊行にともなって、日本のカトリック教会の司教団は礼拝式での朗読にこの「新共同訳」を使用することを決定しました。したがって、わが国におけるカトリック教会では全国どこの教会でも日曜日の礼拝式、ミサの中での福音書の朗読では「イエス」と発音されているはずです。(「よくわかるカトリック」小高毅著参照)
統一協会
キリスト教の名をかたって人を惑わす新興宗教があります。「統一協会」もしくは「原理運動」(正式の名は「世界基督教統一神霊協会」)もそのひとつです。
統一協会は、文鮮明という教祖によって1954年に韓国で創立された、陰陽道とシャーマニズムが一体となった新興宗教です。文鮮明は聖書を勝手に解釈して、自分の都合のよいように用いますが、つまるところは、自分こそが再臨のメシアだ、と主張します。イエスがなしえなかった救いを、自分がもたらす、と言います。「原理講論」という教典があって、これが真理を初めて明らかにするものとされます。
統一協会の教えについてはここで記述しませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見分けるために一つのかぎがあります。それは、イエス・キリストをだれと言うか、を見ることです。イエスをとおして神が歴史の中でただ一回限り、決定的な仕方でご自身を啓示されたのだ、イエスこそ神の絶対的な仲介者だ、と信じるのがキリスト教です。もしイエスがなしえなかったことを他の人がなす、というのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。また、聖書が明らかにしなかったことを、他の書物が啓示するというのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。これはキリスト教信仰の真髄をなすことです。(「キリスト教に問う65のQ&A」百瀬文晃著参照)
モルモン教
モルモン教は、正式の名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」といって、1830年ジョセフ・スミスという人によって米国で創立されたキリスト教的な新興宗教です。スミスは天使の啓示によって「モルモン経」という聖書を発見した、と主張しました。それによると、古代イスラエルの一部族が紀元前600年ころアメリカ大陸に移住し、これがアメリカ・インディアンの祖先でした。イエス・キリストが彼らに現れ多くのことを教えたにもかかわらず、彼らは堕落して滅び、ただ一人の生き残りであるモルモンがすべてを金の板に書き記して埋めた、と言うのです。その教えによると、今の世の終わりが近く、イエスは間もなく再臨します。モルモン教徒は、自分たちこそイエスの再臨を準備する集団だと確信し、他のキリスト教の教派を誤りとして排斥します。
教祖のスミスは1844年に死にましたが、後継者ヤングは信徒たちを米国西部のユタ州に導き、ソルトレークシティーという町を築きました。この町は終末的なエルサレムとされています。モルモン教徒の生活は道徳的に非常に堅固で、勤勉に仕事に精を出します。特に宣教活動に熱心で、すべての男子の信徒は2年間、世界のさまざまな国で布教に従事することが義務づけられています。
モルモン教徒の倫理的なまじめさは尊敬に値しますが、その教えは架空の私小説に基づく、19世紀のアメリカの世界覇権の自負心に由来する、と言ってもよいでしょう。正統なキリスト教とは言えません。(「キリスト教に問う65のQ&A」 百瀬文晃著参照)
十字架の道行
聖堂の左右の壁には、14枚の絵、または十字架がかけられています。 これを「十字架の道行」と呼んでいます。イエス・キリストが、祭司たちや律法学者、ファリサイ派の人たちによって訴えられ、当時のローマ総督ポンティオ・ピラトによって死刑の宣告を受けた場面から、自ら十字架を担い、刑場であるカルワリオの丘まで上り、はりつけにされて死に、葬られるまでの14の場面が描いてあります。1つの場面を「留(りゅう)」(Station)と言い、ふつう祭壇に向かって左奥から第1留が始まり、時計と逆回りに進行して、右奥で終わります。
中世の修道者たちは、イエスの受難をしのんでエルサレムに巡礼したいと思っていました。しかし交通が発達していないうえに、修道院から外に出ることが規制されていた時代でしたから、せめて修道院の囲いのなかで巡礼と黙想ができるようにと、15世紀フランシスコ会の修道者が、修道院の庭にこの道行を作ったのが始まりだと言われています。
それで修道院などでは、聖堂内の他に、庭に作ってあるところもあります。信者は、たとえエルサレムに巡礼できなくても、どこの国の聖堂においても、その「十字架の道行」をたどりながらイエス・キリストの死をしのび、十字架における神のわざを黙想し、祈ることができます。まれにキリストの復活の姿が描かれた15枚の絵がかけられている場合もあります。 特にキリストの受難の時期には、毎週金曜日に、これらの絵の1つひとつに信者が心を合わせて注目し、十字架の道行の祈りをささげます。また共同で祈ることもします。(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男 著 参照)
松原教会の聖堂に、はめこまれている十字架の道行の壁画は、ルイ・フランセン師が昭和43年夏、九州の有田市の岩尾陶芸会社で製作したもので、他の十字架の道行と少し違います。第1留「最後の晩餐」から始まり、第14留「ご復活」で終わります。
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