

他のキリスト教について
◆東方正教会(オルトドクス)とギリシャ正教会
9世紀から11世紀にかけて、カトリック教会から分離した東方正教会が東ローマ帝国におこり、帝国の滅亡後はロシアに広まり、現在は東欧諸国に伸びています。この正教会にもいくつかの分裂があったようです。
日本には、ロシアのニコライが伝え、東京神田のニコライ堂や函館のハリストス正教会が有名です。香をたくさん炊き、多くのイコンの前でろうそくをともして祈るのが特徴で、たまねぎのような丸い屋根も正教会の特徴です。儀式はたいへん荘厳です。
◆聖公会(英国国教会)
16世紀、イギリスでヘンリー8世が、政略上の離婚をめぐって、これを認可しないローマ教皇と対立し、イギリス独自の教会を確立しました。彼は修道院の財産を没収し、王権を強化していったのです。しかし、このようないきさつのため、儀式などはカトリックと近く、純然たる新教を求める人々は清教徒(ピューリタン)となりました。
聖公会は、正式には英国国教会といい、立教大学、聖路加看護大学などは聖公会の流れを汲むものです。儀式はカトリックに似ていますが、組織、司祭の妻帯性とか儀式の考え方は少し違います。
◆プロテスタント
新教徒とよばれ、一般にはマルチン・ルターが1517年に引き起こした宗教改革によって、カトリック教会から分離した人々を称してプロテスタントと呼びます。カトリック教会の権威に対抗(プロテスタント)することによって、新しい教会制度を確立しました。彼らは個人の信仰を重んじ、儀式を質素にし、位階制を廃止し、聖書を唯一のものとし、カトリック教会で聖書とともに認めている教会の歴史や殉教録、公文書、聖霊の助けのもとに使徒たちから代々伝えられた聖伝を否定しました。
その後多くの宗派に分かれましたが、日本では、明治初年から宣教が始まり、明治期の文学者の間にも広まり、文化人にも影響を与えました。ルーテル、ユニテリアン、カルバン、フレンド、バプチスト、メソジストなどさまざまな派があって、それぞれ礼拝やきまりが違いますが、日本では日本基督教団が最大のものです。プロテスタントでは教会の指導者を、「牧師」とか、宗派によっては「長老」と呼びます。日曜日には集会を行い、聖書を読んで祈り、賛美歌を歌いますが、カトリックのミサのような聖餐式は一般にあまり行なわれないようです。(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著、 「キリスト教ハンドブック」遠藤周作編、 「カトリックとプロテスタント」ホセ・ヨンパルト著 参照)
聖体ランプ、聖櫃、聖体訪問
祭壇の奥、またはその左右のいずれかに赤いランプが灯されています。これを「聖体ランプ」と言い、キリストの「聖体」が安置されていることを示すと同時に、キリストの永続的愛の象徴でもあります。この聖体ランプの近くに、小さな箱のような「聖櫃(せいひつ)」と呼ばれるものが置かれています。その中に、キリストの聖体であるパンが安置されています。
カトリック教会の伝統では、ミサの中で、聖別されたパン(聖体)をミサに与れない人、特に病気の人や身体の不自由な人の所へ運ぶという習慣があります。また信者は、ミサ以外の時にも聖堂を訪ねて祈りを捧げる、という習慣もあります。これを「聖体訪問」と言います。
なお聖体ランプは、キリストの死を記念する聖金曜日を除いて、いつでも灯されています。(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著 参照)
聖香油
人間は、生活において「水」と同じように「油」を欠くことができません。食用として料理や食卓にのるだけでなく、医療薬としても、灯火の燃料としても古代から重宝されていました。儀礼において油を用いる宗教がありますが、それはそこに秘められたこのような力を象徴的に解し、表現しているからです。
イスラエルの民にとっても油は貴重なものでした。地中海の沿岸の地域に実るオリーブから作られた油は、彼らにとって幸いをもたらす源〔いのちの糧・力・豊穣・多産・祝福〕であり、救いの恵みの象徴として聖書にも扱われています。民に新しい力をもたらし、いのちを再生へと導く油は、神の恵み・聖霊の注ぎを表すしるしとして塗油の儀式で用いられるようになりました。旧約においては、預言者・祭司・王は神から招かれた者として油を注がれました。そして使徒たちは、イエスこそ待ち望まれた救い主「クリストス(油を注がれた者)」であると宣言しました。弟子たちは、キリストの内に注がれた同じ聖霊に満たされています。彼らは病む者のために油を塗って祈り、癒しの霊を与えたのです。
古代から教会では入信に際して、神の子としての消えない封印を押されたことを表すために塗油が行われていました。また叙階においては、人を聖化するための塗油も行われていました(3世紀)。4〜5世紀になると 、入信に用いる油〔聖香油:堅信と叙階〕と悪霊からの開放をもたらす洗礼志願者の油、そして病からの回復を願う病者の油が典礼的に確立していました。その当時、聖香油は香料バルサムを混ぜ、司教が聖木曜日に祝福しましたが、他の油は司祭も祝福できました。10世紀からローマ典礼では、志願者の油も病者の油も聖香油とともに、聖木曜日に司教が祝福するようになりました。(「家庭の友」なんでも質問箱/回答者 南雲正晴神父 参照)
黙想会と黙想の家
黙想とは、考察的な祈りのことをいいます。黙想の対象は、信仰上の神秘、神が自分に何を望んでいるかをいっそうよく知ること、神が黙想している本人からどのように奉仕されることを望んでいるかについて神意を知ることの3つがあげられます。(語源はラテン語の、meditatio「よく考える」)。
黙想会とは、日常の生活環境や仕事から一定の期間離れて、自分の霊的生活に必要な決心をするために、孤独な場所に引きこもり、黙想、反省、祈りのときを過ごすことをいいます。この慣習は、キリスト教以前からありましたが、キリストが40日間荒野で過ごした模範にならって、キリストに従う者ができるかぎりこれを見習うべきであることは神からの啓示の一部となりました。
すべての司祭と修道者は、一定期間の黙想会に参加することが義務づけられています。ピウス11世教皇は、次のように書いています。「人々が1ヶ月間、または8日間、またはそれ以下の期間、完全なキリスト教徒としての生活を送るための修行を行うための黙想の家が数多くいたる所に作られ、大いに利用されることを望む」と。
一般の信者でも休日などを利用して、祈りと思索のうちに、信仰を深めるため、修道院や黙想の家に滞在し、指導を受けたり、修道院の祈りの時間に共に参加することができます。教会のグループや修道会が、会を知ってもらうために主催するのもありますが、個人で究明や霊的読書のために日帰り、あるいは泊りがけで滞在することができます。黙想の家には聖堂もあり、十分に祈ることができます。
黙想の家、祈りの家、瞑想の家の案内「あわただしい日常生活を離れて静かに祈るために」という小冊子がありますので、ご利用ください。(「現代カトリック事典」、「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著 参照)
BCとAD
キリスト教起源のことばですが、宗教とは関係なく一般化し、国際化している西暦の表示法。そして、キリスト降誕を起点として、紀元前(BC)と紀元後(AD)としています。BCが「Before Christ」と英語であるのに対し、ADは「Anno Domini(主の年の意)」とラテン語。現在使われている西洋暦は、ディオニシウス・エクシグウス(550年没)の算定によるキリスト降誕の年を紀元1年としていますが、現代の学者の間では、キリストの誕生は実際にはこれより数年早かったというのが通説です。紀元前4年のヘロデス大王の死(マタイ2:19)を根拠に紀元前7年から4年までの間という説があります。クリニウスによる戸籍登録(ルカ2:1〜2)を根拠に紀元6年にキリストが生まれたという説もあります。
ところで、イスラエル共和国では独自の暦を使用していて、その暦(ユダヤ教に基づく宗教暦)では太陽暦の3〜4月ごろを「ニサンの月」といって、これが昔は正月でした。今はティシレーの月(秋)が正月です。このユダヤ教暦は太陰暦(月の満ち欠けで数えるもの)であり、その紀元は西暦とは違い、たとえば、1989年9月30日が、ユダヤ暦の紀元5750年1月1日となります。このユダヤ教紀元の起点は、天地創造の時ということのようです。
なお、イスラエル共和国ではBCの代わりにBCE(Before Common Era)を使い、ADではなくCE(Common Era 共通暦)といいます。あのナザレ出身のイエスを、預言者と認めてもキリスト(救い主)とは認めないのがユダヤ教の立場なので、Before Christは使わないわけです。ただし、カレンダーなどには西暦も表示してあるものが多く、つまりユダヤ暦と共通暦の併用にしないと、国際的付き合いに支障をきたすからです。(「現代カトリック事典」「日本語になったキリスト教のことば」千代崎秀雄 著参照)
グレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)
教会、修道院等でローマ典礼(ミサ、聖務日課等)を歌う際に使用されるラテン語単旋律聖歌。基本的に単声、無伴奏で歌われます。
この聖歌の最初の集大成を指揮したと伝えられる教皇聖グレゴリオ1世(在位590〜604)への敬意をこめて、グレゴリオ聖歌と呼ばれています。
現在完全な形で残っているものは、9世紀までさかのぼることができ、その萌芽は4世紀からすでにみられ、さらにギリシャおよびヘブライ(ユダヤ教)起源にまで思いをおよぼすことができます。
作曲は多くの無名の作曲家によってなされており、最盛期は10〜13世紀でした。ルネッサンスに入ると古臭い音楽として蔑視され、また多くの改悪が行われ衰退していきました。
19世紀中頃より、フランス・ソレムのベネディクト会修道院を中心として、復興運動がはじまり、古文書の解説による本元的な姿の追求と、歌唱法の研究が精力的に行われるようになりました。これらの努力は、20世紀に入って実を結び、教皇聖ピオ10世は、教会音楽についての有名な回勅でグレゴリオ聖歌に典礼聖歌の首位の座を与え、それ以降も全世界の教会、修道院で積極的に使用されるようになりました。
第2バチカン公会議の結果、典礼の国語化が協力に進められるようになりましたが、公会議後出された典礼憲章に於いても、グレゴリオ聖歌をローマ典礼用聖歌の第一のものとして明記してあります。
国語化の進展に伴って、グレゴリオ聖歌は教会でほとんど使用されなくなりました。しかし、不思議なことに多くの人々が、CDによってこの聖歌の魅力に触れ、静かなブームになっています。
この聖歌について、日本におけるグレゴリオ聖歌研究の第一人者水嶋良雄エリザベト音楽大学院教授は、次のように述べています。「喝采を博するなど露ほども考えず、ただひたすらな祈りだけを求めて歌いつづけてきたグレゴリオ聖歌であったが、その純粋な思いが、この聖歌に計り知れない高みと永遠のいのちを与えてきた。」
なお、膨大な曲のうちごく一部が、当教会に常備されている「カトリック聖歌集」に載せられています。(501〜584番)
教父(Fathers of the Church)
古代教会の著述家たちのうち、教会が信仰の特別な証人と認める聖なる人物のことをいいます。教父と認められる4つの主な特徴は、教会古代に属し、正統信仰を保ち、聖性に優れ、教会が「信仰の特別な証人」と認めていることがあげられます。
まだキリスト教神学が確立されていないころ、彼らの信仰、主張が教義的なものとされましたが、さまざまな神学論争を生みつつ、後世のキリスト教神学を形成していきました。
教父たちの中で有名なのは、アウグスティヌス(354〜430)、ベネディクトゥス(480〜546、西方の修道生活の祖)らであり、特にアウグスティヌスは、過去4世紀に及ぶ伝統を統合し、悩みの種だった教義問題を解明し、神についての知識を集大成するなど、西方キリスト教神学の確立に大きい影響を与えています。
ふつう西ヨーロッパ教会系の「ラテン教父」と、東方教会系の「ギリシア教父」の2つに分けられています。今日では「ラテン教父」はセビリアの聖イシドルス(560〜636)を持って終わり、「ギリシア教父」はダマスコの聖ヨハネス(675〜749)を持って終わったと一般に認められています。
ミサの中で「私たちの教父ヨハネ・パウロ2世」という言葉がありますが、これは典礼が日本語になったとき、「教皇」の「皇」の字が「天皇」のイメージと重なるため、教皇様を親しみをこめて「パパ様」と呼ぶことから「教父」と訳され、現在も使われています。(「現代カトリック事典」「キリスト教を知る事典」外村民彦著 参照)
エホバの証人
エホバの証人をキリスト信者として認めることは難しいことです。なぜなら、まず使っている聖書が正しいものではありません。自分の都合で、いろいろな箇所を書き直しています。また、カトリックだけでなく、正教会やプロテスタント教会の圧倒的多数派が、キリスト信仰の基礎として信じているキリストの神性を、エホバの証人は認めるどころか激しく否定しています。
彼らが強調している「エホバ」の名前は、現代のすべての聖書学者が間違っていると、指摘しています。例えば「Encyclopedia Americana(アメリカの大辞典)」の16巻8頁に次のように書いてあります。「エホバ。聖書に書いてあるイスラエルの神の間違った発音」。彼らは神に向かって、エホバだけ使わなければならないと一生懸命に強調しています。
「エホバの証人」の起源、また根本的教えは、その創立者が決めたキリストの再臨とこの世の終わりのことです。
1876年ころ、エホバの証人の創立者C・T・ラッセルは、独自の聖書解釈により、キリストの来臨は見えない形で2年前に既に行われたと決定しました。ところが、1914年から2914年までの千年間、地上のキリストが見える形で君臨し続けると宣言しました。その予言に基づき、エホバの証人は作られました。1914年にそれが実現せず、その代わりに第一次世界大戦が始まりました。キリストの君臨の始まりをエホバの証人は2〜3回延ばしました。数年前まで、見える形で君臨が始まるのは、第一次大戦のときにいた誰か、しかもその誰かが生きている間に起こるという宣言でした。その人々は既に非常に少なくなり、最近再修正して「いつだろうか、知らない」と告白し、エホバの証人の信仰の基礎を捨てました。このことを知っていて、彼らの教えを信じる人がいるでしょうか。(「家庭の友」なんでも質問箱より参照)
ミサについて
ミサはもちろん昔からミサと呼ばれてきましたが、最初からそうだったわけではなく、5世紀ごろから一般的になったようです。それ以前には、種々の名称があり、集まり、感謝、賛美、奉献、ささげもの、パンをさくこと、奉仕、といった意味のギリシャ語やラテン語が用いられていました。これらの名称はいずれもミサの大切な要素を表しており、一つの名称では表現しつくすことのできないほどのミサの豊かさを今日でも私たちに教えてくれています。今の日本の教会でも、感謝の祭儀という名称を用いて、ミサのもつ豊かさを表そうとしています。
さて「ミサ」ですが、もともとは祭儀の結びの派遣のことば「イテ・ミサ・エスト(行け、終わった)」というラテン語から出たといわれています。初めの段階では解散することや結びの祈願といったミサの結びの部分だけをさしていたのですが、次第に祭儀全体を表す名称として使われるようになっていきました。
派遣のことばからとられた「ミサ」という語が今、祭儀全体の名称となっています。ミサという名称は、ミサが生活の場への、そして福音宣教の場への派遣にほかならないということを私たちに伝えようとしているのかもしれません。(「教会所在地」94年版参照)
クリスマスについて
◆待降節(Advent)
クリスマスの準備をする祈りの習慣で、日曜日を4回含み、11月30日の聖アンデレの祝日に最も近い日曜日を待降節第1主日とし、12月25日のクリスマスの週の日曜日が、待降節第4主日となります。教会の典礼暦の1年の始まりでもあります。
日本では、もう11月からクリスマスの飾り付けを始めるところがありますが、 教会では待降節第1主日から飾り付けを始め、今年(2002年)は、12月1日が待降節第1主日にあたります。
英語のadventは、重要人物などの出現、到来を意味し、この語の頭文字が大文字になると、イエス・キリストの来臨(クリスマス)を指します。
◆クリスマス(Christmas)
クリスマスは、「キリストのミサ」(礼拝)であり、非常に宗教的な行事です。イエス・キリストが誕生したとされる12月25日は、世界中のキリスト教国で祝われています。
イエスの降誕日は、3世紀ころには5月20日と推測されていました。主キリストの誕生が、典礼において祝われるようになったのは、4世紀初頭のことのようです。初めはヨルダン川での洗礼者聖ヨハネからの受洗と一緒に誕生が祝われたようです。ローマでは、336年12月25日に祝われていることが確認されています。
12月25日という年末に祝うようになった習慣は、教会が異教の祝祭日をキリスト教化していく過程で、冬至と新年を祝う祭りを残したものと見られています。4世紀後半にはクリスマスは毎年祝われるようになったようです。
「Xマス」という表記は、ギリシア語のキリスト(Χριστδς)の頭文字Xに「mas」をつけたものです。
◆降誕節(Christmastide)
一般にクリスマス前夜からキリストの公現の日までをいいます。公現祭(Epiphany)とは、異邦人への救い主の公現を祝う日で、クリスマスから12日後の1月6日にあたります。日本では、元日の次の日曜日と決められています。東方教会で3世紀ころに始まりました。始めはキリストの受洗の(時には降誕の)祝日だったのが、4世紀ころ東方の博士が星に導かれてキリストの降誕を礼拝しにきたことを祝う日となりました。
ヨーロッパではクリスマスの飾り物は、この1月6日まで続けられています。(「キリスト教を知る事典」外村民彦著参照)
イコン
イコンは、東方キリスト教会の社会で広く用いられ、深い崇敬を受けてきた『板絵』です。
イコンは、像を意味するギリシャ語の『エイコン』を語源とし、キリスト教の礼拝のためのもので、聖母子・キリスト・天使・聖人などの像が多く存在します。
イコン画家たち自身が深い静寂と祈りの『行』のなかにあって、それらを描き、書き残したものです。
それは、見るためだけの絵画ではなく、心の目で観想し、黙想し、神を体験する手段です。イコンそのものは、礼拝の対象ではなく、それらを通して、聖なる方を礼拝するためのものです。
優れたイコンの前に立つ時、表面的にあらわされている悲しみや痛みの表情の奥に、何ものにも動かしがたい神からの真の喜びや、優しさ、高められた愛に出会うでしょう。
<松原教会の聖櫃前のキリストのイコンの説明>
イコンの起源は、ロシア正教会(1600年ごろ)です。現在、ドイツのレックリンハウゼンのイコン博物館に保存されているイコンのレプリカです。
キリストはこのイコンに「パントクラトル」、すなわち全能者および宇宙の支配者として表現されています。いつも髪を長く伸ばしている形で、古代ユダヤ教のナジル人を思い起こさせるキリストの姿です。また青い外套を身に付けています。それは人間イエスの神性のしるしです。彼の力強い首は神のみことばであり、聖霊に満たされ、命の息吹であることを示しています。
キリストの頭部から十字架のしるしがついた輪光が光り輝いています。十字架からキリストの栄光が世界に輝いたからです。この輪光に刻まれたことばは「わたしはあるという者だ」です。
エキュメニカル運動
キリスト教は二千年の歴史の中で、さまざまな教派を生んできました。大きくはローマ・カトリック、正教会、英国教会、プロテスタントなどです。分裂が続いた一方で、教会一致の試みも長く続けられてきましたが、信仰上の論争やそこから生じる人間的争いが絶えませんでした。それが20世紀になって「キリスト教会の一致」を目指す動きが活発化しました。こうした考えを「エキュメニズム」(ecumenism)、その運動を「エキュメニカル運動」と呼んでいます。
プロテスタントでは、1910年にスコットランドのエディンバラで開かれた第一回世界宣教会議が、超教派を目指す会議として特筆されます。この会議は1948年に「世界教会協議会」(WCC)が結成されるきっかけとなりました。
ローマ・カトリックでは、1962〜1965年に開かれた第2バチカン公会議で諸教会との一致を討議し、「エキュメニズムに関する教令」として決定されました。その教令の書き出しは「すべてのキリスト者の間の一致再建を促進することは、第2バチカン公会議のおもな目的の一つである」となっています。
以来、キリスト教の中では、カトリック、プロテスタントを問わず、同じイエス・キリストを信ずる者として、同席して祈りをし、会合を持ち、社会的運動にも協力して参加しています。
また、エキュメニズムを広く見ると、ただキリスト教だけでなく、世界の諸宗教の間の交流、理解も、1960年代以来深まっています。1986年にはローマ教皇の提案によって、世界の各宗教の代表が集まって「世界平和の祈り」の集会がイタリアのアッシジで開かれたのもその一例です。(「キリスト教を知る事典」外村民彦著 参照)
聖人
新約聖書の中で、キリスト信者全般の名称として「聖徒」または「聖なる人々」が用いられています(コロサイ1:2)が、「聖人」という称号は、初期のころから聖徳にひいでた人々にだけ限定されていました。厳密な意味では、聖人とは、生存中に英雄的な徳の実行によって目立ち、教会が通常の普遍的教導権をもって聖人と宣言した人々、あるいは「列聖」と呼ばれる荘厳な宣言によって聖人と宣言した人々をいいます。教会がある人の聖性を公に認めることは、その人物が天国の栄光の中にいること、全世界の人々がその聖人に取り次ぎを願ってよいこと、その人の生存中の徳あるいは殉教死は、キリスト教信仰の証言であり、模範であることを意味しています。
教会は一年を周期として、特定の日と季節にキリストの諸秘儀、または救いのみわざをたたえるとともに、聖母マリアをはじめ殉教者・諸聖人の記念を行います。こうして教会暦は、キリストの事績を中心とする主日・祭日・典礼季節と、聖母・諸聖人を記念する祝日との組み合わせから成り立っています。(「現代カトリック事典」「聖人略伝」 参照)
イースター・エッグ
復活祭に教会では、きれいに色をつけた卵をくばります。古代において卵は春の印(シンボル)であり、人々は卵を互いに贈り物として与えました。またこの卵から、殻をわってひよこが生まれることから、キリストが墓を開いて復活されたことになぞらえたものであるとも言われています。
卵に色をぬるのは、十字架の血や復活の喜びを表すためです。復活祭に卵を食べるということは、私たちがお正月にお餅を食べるようなもので、本当のところその起源ははっきりしていません。
キリスト教の初めのころは、四旬節中に卵を食べることを禁止していました。復活祭のその日からそれまで食べずにいた卵を食べることができる、それでこの日は特別に卵を祝別したという説明もあります。(通信講座キリスト教入門 参照)