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ココではシャカ出演LIVE/イベント/番組の内容をテキスト化してお見せします。
一つ一つが濃い分、マメな更新は出来ませんのであしからず…。
※主に[イカミのなかみ]に先行UPしたモノを再編集しています。

2001.11.24(土)『植松俊介独演会』TEXTレポート

『独演会』とは一般に、噺家さんが1人で行う落語会の呼称です。
お笑い芸人である植松さんがそう名付けた真意は定かではありませんが(単にソロLIVEだから?)、
趣向を凝らした内容盛りだくさんなLIVEでした。
新宿・ビプランシアターで行われた真剣勝負の1人舞台、その一部始終をじっくりお楽しみ下さいませ。

【1幕目】謎に包まれたLIVEがヴェールを脱ぎました。
普段着姿の植松さんが数枚の紙を持って登場。ステージ中央に座り込みます。
手にしていたのはファンレターで、宛名別に分けていくと【大熊さんへ】【シャカさんへ】ばかり。
たま〜にあっても【値松さんへ】…「人偏(にんべん)ちゃうよ〜」とガッカリするも、
ちゃっかり『自分宛て』に分別する植松さん(笑)。
しかしもう一度宛名を確認し直すと、1通だけ【植松さんへ】を発見っ!
その手紙は植松さんファンの息子をもつ母親からのモノで、
「植松さんに似ている息子が今、入院している。手術のため独演会を開いてほしい」と綴られていました。
しばし考え込む植松さんでしたが、思い立って咆哮。

「独演会やるぞぉ〜!!」

【2幕目】続いてはトークです。
黒スーツに着替え、植松さん再登場。
スケッチブックを手に『植松俊介ヒストリー』を語り始めました。

注:
管理人の記憶を主にまとめたため、一部記述が曖昧になっています。


[幼小時代](←と書いてありましたが、正確には「幼“少”時代」です)
植松さんの人生グラフ(六角形のレーダーチャート)はオール満点。
運動も勉強もできて女の子にもモテて、早くも全盛期を迎えていたそうです。

ご両親が共働きのため、幼い頃は保育園に入っていた植松さん。
その日もお迎えを待っていたのですが、なかなかお母さんがやって来ません。
1人で退屈だった植松さんは、肩から保育園バックを下げたまますべり台で遊んでいました。
すると、滑り降りようとした瞬間バッグの紐がすべり台の頂上に引っかかり首吊り状態に…。
助けを呼べずどんどん意識の薄れる中、間一髪でようやくお母さんが到着。
何とか一命を取り留めました。この時に植松さんは「幼くして死を覚悟」したそうです(苦笑)。

小学生の頃に色んなお稽古ゴト(書道など)をしていた植松さん。
スイミングスクールに通っていたのを買われ、学校の水泳大会でも代表に選ばれました。
ところが学校のプールでは、スクールのようにゴーグル(水中メガネ)を使うコトは出来ません。
いくら泳ぎに自身があるとはいえ、それはゴーグル着用での話。
そこで大会当日、植松さんは目をつぶったまま25m自由形を泳ぎました。
クラスの期待を一身に背負い、精一杯のクロールで端まで泳ぎ切った…と思いきや、
水面から顔を上げるとそこはプール側面の壁っ!
植松さんは自分のコースを外れて斜めに泳いでいたのです(笑)。

小5の頃、遊び仲間(大熊さんを含む)でちょっとエッチなマンガを買おう!というコトになり、
330円くらいのコミックスを1人50円程度ずつ出し合って本屋さんに買いに行ったそうです。
けれども純粋な少年だった当時の植松さんたちは、買ってしまった己自身が恥ずかしくなり、
近くの山の誰にも見つからないような場所に埋めてしまいました。
……しかし、その日の夜に一人で大熊さんがマンガを掘り起こしていたコトが後で発覚(笑)。
大熊さんは購入時、皆よりちょっと多めに70円出資していたそうです…。

[中学時代]
全盛期を過ぎたら、途端に人生グラフが小っちゃくなりました(汗)。
女子が第二次性徴期を迎えて“オトコを見る目”ができたため、モテっぷりは大幅ダウン。
但し、『人生の満足度』だけはやや高得点だったそうです。

幼少時代の仲間と同じ学校へ進み、部活選びで植松さんは水泳部(?)、
大熊さんは柔道部(?)に入ろうとしたのですが、怖〜い先輩がいたため断念。
唯一危なくなかったバスケ部に仲間みんなで入部しました。
でも全然試合には出られず、背番号は20番台。
「オフェーンス!」「ディフェーンス!」といった声出し担当だったそうです。
ちなみに、大熊さんは体育委員だったため優遇措置で10番台だったとか(笑)。

あと、よく仲間内でしょーもない遊びをやっていて、
中でも不意打ちされた『浣腸』(←別のスゴい名前ついてましたが忘れてしまいました…)は、
不覚ながら人生で一番キレた瞬間だったそうです(苦笑)。

[高校時代]
ますます人生グラフが小さくなってます。
遂に『仲間』や『人生の満足度』のポイントまでが減ってしまいました。

これまで一緒だった仲間たちはそれぞれ別の学校へ進学したため、
友人ゼロの状態からいじめられたコトもあった植松さん。
(いじめの事は大熊さんも知らなかったようです)
また10代の若者的な(哲学的な?)悩みも抱え、
「食べては出す、という毎日」に疑問を感じていたそうです。

部活は山岳部と水泳部に入っていましたが、山岳部は妙なヒトが多かったので辞め、
汚れた水で緑色になったプールでもっぱら潜水ゲームに明け暮れていたとか。
しかも練習していないのに大会へ出るコトになり、
出場前に適当なタイムを書いて提出したら女子のチームと泳ぐハメに(苦笑)。
25mしか泳いだ経験のない植松さんは、50mのリレーで後半バテながらも何とかゴール。
結果は7組中6位くらいだったそうです。(←最下位は回避)

入った高校がいわゆる進学校だったため、自然と将来の進路は「大学進学」と考えていたそう。
数学や理科が得意だったものの、家庭の事情により高2からは文系を選択。
決して良い成績ではなかったのに、たまたま一度テストで上位に入ったのがキッカケで
担任に「お前だったら京大に行ける!」と言われ受験するも不合格。
観光目的でちょっと上京し、ついでに受けた(!?)早稲田大学に見事合格しました。

[大学時代]
人生グラフが少〜し回復していたような気がします。(ドン底から脱出?)

地元、高松の仲間たちに見送られながら上京。
(この時、大熊さんが自作の曲で弾き語ったというエピソードは有名ですね)
最初に住んでいたのは東村山市。部屋でローソクの火を見つめると落ち着いていたとか…。
その後、同じ都内のS区に引っ越しました。

大学1・2年の頃は軽音楽部に入り、クイーンのコピーバンドでドラムを叩いていたそうです。
(TBS『桂芸能社マジ!』のストリートミュージシャン対決でもスティックさばきを披露)

この他に、当時の恋愛エピソードも話していました。
(感慨深げに語っていたのが印象的でした)
【3幕目】あのアンケートがココで使われるとは…。
「赤コーナー、○○○パウンド、植松ぅ〜俊介ぇ〜っ!」
アナウンス後、パッと明るくなったステージ上にボクサー姿の植松さん。
ゴングが打ち鳴らされると封筒の中から1枚紙切れを取り出して読み上げ、
ラウンド終了まで書かれた内容を相手に戦いを繰り広げました。

注:この「紙切れ」とは開演前に観客へ配られたアンケートです。
    項目の1つに「最近あった腹の立ったことを教えて下さい」というのがあり、
    その回答にあったモノや人に対して植松さんがツッ込みという名のパンチを繰り出しました。

[1ラウンド:ビン○ディン]
「えーっ!1枚目からコレ〜っ!?」と激しくテンパる植松さん(笑)。
何故かヒゲについてやたらツッ込んでいました。

[2ラウンド:コマネチ]
た○しさんのモノマネが随所に入ってました。
また逆に相手を誉めてしまい、自分に向けて(=相手からの)パンチを食らわせていました。

[3ラウンド:俊たんママ]
紙切れを見た途端に崩れる植松さん。かなり敵の攻撃が効いてます(笑)。
ぶった斬りながらも最後には「いい人なんですよ〜」とフォローしていました。
【4幕目】戦いの結末はいかに?
花束を手にドアをノックし、ファンレターにあった息子さんの病室を訪れる植松さん。
手術を終え頭に包帯を巻いた男の子に独演会をやり遂げたと報告し、満足げに笑みを浮かべます。
ところが彼のお母さんから意外な事実を告げられ……!

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

こうして『植松俊介独演会』は温かい拍手と笑いに包まれながら幕を閉じました。
まさかこれほど赤裸々に語られるとは誰が想像したでしょう……ココではまとめきれないくらい、
“植松俊介”という人物を多角的に見るコトの出来た、貴重なLIVEだったと思います。

ちなみに相方の大熊さんはというと、客席の最後列で植松さんの熱演を見届けていました。
どんなお気持ちで舞台をご覧になっていたのでしょうね…?


更に後日談。
このLIVEの話を聞きつけたダイノジ大地さんが翌月24日に『大地洋介独演会』を開いたそうです。
植松さんは若手芸人さん独演会ブームの先駆け!?だったのかも知れません。


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