【植松俊介独演会レポ】 PART2

謎に包まれたLIVEがヴェールを脱ぎました。
さて続いてのトークでは何が飛び出すやら…?

〜2幕目〜


黒スーツに着替え、植松さん再登場。
スケッチブックを手に『植松俊介ヒストリー』を語り始めました。
※管理人の記憶を主にまとめたため、一部記述が曖昧になっています。
[幼小時代](←と書いてありましたが、正確には「幼“少”時代」です)
植松さんの人生グラフ(六角形のレーダーチャート)はオール満点。
運動も勉強もできて女の子にもモテて、早くも全盛期を迎えていたそうです。

ご両親が共働きのため、幼い頃は保育園に入っていた植松さん。
その日もお迎えを待っていたのですが、なかなかお母さんがやって来ません。
1人で退屈だった植松さんは、肩から保育園バックを下げたまますべり台で遊んでいました。
すると、滑り降りようとした瞬間バッグの紐がすべり台の頂上に引っかかり首吊り状態に…。
助けを呼べずどんどん意識の薄れる中、間一髪でようやくお母さんが到着。
何とか一命を取り留めました。この時に植松さんは「幼くして死を覚悟」したそうです(苦笑)。

小学生の頃に色んなお稽古ゴト(書道など)をしていた植松さん。
スイミングスクールに通っていたのを買われ、学校の水泳大会でも代表に選ばれました。
ところが学校のプールでは、スクールのようにゴーグル(水中メガネ)を使うコトは出来ません。
いくら泳ぎに自身があるとはいえ、それはゴーグル着用での話。
そこで大会当日、植松さんは目をつぶったまま25m自由形を泳ぎました。
クラスの期待を一身に背負い、精一杯のクロールで端まで泳ぎ切った…と思いきや、
水面から顔を上げるとそこはプール側面の壁っ!
植松さんは自分のコースを外れて斜めに泳いでいたのです(笑)。

小5の頃、遊び仲間(大熊さんを含む)でちょっとエッチなマンガを買おう!というコトになり、
330円くらいのコミックスを1人50円程度ずつ出し合って本屋さんに買いに行ったそうです。
けれども純粋な少年だった当時の植松さんたちは、買ってしまった己自身が恥ずかしくなり、
近くの山の誰にも見つからないような場所に埋めてしまいました。
……しかし、その日の夜に一人で大熊さんがマンガを掘り起こしていたコトが後で発覚(笑)。
大熊さんは購入時、皆よりちょっと多めに70円出資していたそうです…。

[中学時代]
全盛期を過ぎたら、途端に人生グラフが小っちゃくなりました(汗)。
女子が第二次性徴期を迎えて“オトコを見る目”ができたため、モテっぷりは大幅ダウン。
但し、『人生の満足度』だけはやや高得点だったそうです。

幼少時代の仲間と同じ学校へ進み、部活選びで植松さんは水泳部(?)、
大熊さんは柔道部(?)に入ろうとしたのですが、怖〜い先輩がいたため断念。
唯一危なくなかったバスケ部に仲間みんなで入部しました。
でも全然試合には出られず、背番号は20番台。
「オフェーンス!」「ディフェーンス!」といった声出し担当だったそうです。
ちなみに、大熊さんは体育委員だったため優遇措置で10番台だったとか(笑)。

あと、よく仲間内でしょーもない遊びをやっていて、
中でも不意打ちされた『浣腸』(←別のスゴい名前ついてましたが忘れてしまいました…)は、
不覚ながら人生で一番キレた瞬間だったそうです(苦笑)。

[高校時代]
ますます人生グラフが小さくなってます。
遂に『仲間』や『人生の満足度』のポイントまでが減ってしまいました。

これまで一緒だった仲間たちはそれぞれ別の学校へ進学したため、
友人ゼロの状態からいじめられたコトもあった植松さん。
(いじめの事は大熊さんも知らなかったようです)
また10代の若者的な(哲学的な?)悩みも抱え、
「食べては出す、という毎日」に疑問を感じていたそうです。

部活は山岳部と水泳部に入っていましたが、山岳部は妙なヒトが多かったので辞め、
汚れた水で緑色になったプールでもっぱら潜水ゲームに明け暮れていたとか。
しかも練習していないのに大会へ出るコトになり、
出場前に適当なタイムを書いて提出したら女子のチームと泳ぐハメに(苦笑)。
25mしか泳いだ経験のない植松さんは、50mのリレーで後半バテながらも何とかゴール。
結果は7組中6位くらいだったそうです。(←最下位は回避)

入った高校がいわゆる進学校だったため、自然と将来の進路は「大学進学」と考えていたそう。
数学や理科が得意だったものの、家庭の事情により高2からは文系を選択。
決して良い成績ではなかったのに、たまたま一度テストで上位に入ったのがキッカケで
担任に「お前だったら京大に行ける!」と言われ受験するも不合格。
観光目的でちょっと上京し、ついでに受けた(!?)早稲田大学に見事合格しました。

[大学時代]
人生グラフが少〜し回復していたような気がします。(ドン底から脱出?)

地元、高松の仲間たちに見送られながら上京。
(この時、大熊さんが自作の曲で弾き語ったというエピソードは有名ですね)
最初に住んでいたのは東村山市。部屋でローソクの火を見つめると落ち着いていたとか…。
その後、同じ都内のS区に引っ越しました。

大学1・2年の頃は軽音楽部に入り、クイーンのコピーバンドでドラムを叩いていたそうです。
(TBS『桂芸能社マジ!』のストリートミュージシャン対決でもスティックさばきを披露)
この他に、当時の恋愛エピソードも話していました。(感慨深げに語っていたのが印象的でした)

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