骨折2

父が亡くなったことは、当時の私にどれほどのダメージを与えたか自覚できていなかった。
ただただ、日々の無気力感にさいなまれ、仕事に向かうために毎朝、バスと電車を乗り継いで自分を仕事場に運ばなければならないことが、苦痛でならなかった。

自分はこんな時に、なんて怠け者なんだろう……
会社のすぐそばまで来ていながら、なぜそのまま行くことができないんだろう。
お父さんの死と、私の仕事は無関係なのに、このやる気のなさは何だろう。
会社に行ってしまえば、仕事は難なくやることができるのに、どうしようもない脱力感。

結局、会社は辞めて、実家からバスで通えるところに仕事を見つけた。

ところが田舎なのでバスの本数が少なく、あまりに不自由なのでバイクで通うことにした。
当時つきあっていた彼(後に結婚する相手)の影響で下手なくせにクラッチ付きの50cc.のロードスポーツタイプのバイクを買い、それなりにバイクに乗ることを楽しんでいた時だと思う。

本当はその頃も、仕事に行くということがいやでいやで、毎朝ゆううつだった。
毎朝、遅刻寸前か、ちょい遅刻。準備が遅いのだ。なぜか、間に合うように動けない。

事故のあった日、会社に向かう道ではなくバス停への道の途中だった。
その時間からバスに乗っても、絶対遅刻とわかっていたのにだ。
バイクで向かった方が早いこともわかっていた。
心の中は「ごめんなさいと謝るしかない…」というなげやりな感じで焦って走ってもいなかった。
「遅刻だとわかっていながら、急ごうとしない自分」をしっかりと自覚していた。
同時に、「父を失ったのだから、大目に見てくれたって…」という甘えもあったのだろう。
仕事と全然関係ないのに。

社会に対しての自己責任が全然育っていなかったのだ。
「家族」という関わりの中で守られていたい、もう小さい子どもではないのに「家族」を言い訳して、自分の責任を逃れられると思っていたのだろう。

そうして、遅刻への罪悪感と甘えを心の中で行ったり来たりさせながらバイクを走らせていた時、ふと美容院のポスターが目に飛び込んできた。
それに目を奪われていた瞬間、物にぶつかった衝撃に続いて宙を飛ぶ感覚があり、すぐに地面に転がった痛みと、体中にじわじわと湧いてくる痛みに悲鳴をあげる自分がいた。
痛みが局部的に感じられるようになるまで自分のからだがどうなっているのか理解できなかった。

倒れている私に寄ってきてくれた男性が言った。
「この男、化粧してるぞ」
(私は男じゃありません!フルフェイスヘルメットだったから)
救急車を呼んでくれたようだった。

あ~あ…やっちゃった。
仕事で描きかけの絵も、描けなくなるなあ。
買ったばかりのバイクもダメになった。

停車していたトラックの後ろに突っ込んで、両手首と左ひざが割れた。

2ヶ月半ほどの入院から帰ってきた私は、入院中に家族にかけた迷惑を謝罪し、事故の後始末を自分でするという意識に欠けていた。