おじぞうさま

私が小学校2、3年生の頃だったと思うのだが、ある夏の暑い夜のこと。

当時は「蚊屋」を吊って、蒸し暑くてもその中で寝ていた。両脇には弟妹がいた。
寝苦しくて、うつ伏せで頭を持ち上げて、何気なく目の前の廊下のその向こうのガラス戸を眺めていたように覚えている。

ガラス戸は、腰のあたりから下が「スリガラス」になっていて、 なにも写らない。
それが……

何も写っていないそのガラスの「向こう」から、ぼんやりと白っぽいものが、だんだん大きくなるように見えるのだ。
大きくなるというか「向こうからこっちに向かってくる」から、大きく見えてくる……!?

私は、自分が確かに今、目覚めていることを何度も確認した。
そして、どんどん近づいてくるものが

「おじぞうさまだ!」

とわかって、一気に恐怖が沸き起こった。血が逆流する感じがした。

「おじぞうさまが近づいてくるぅーーーーー!!!」

恐怖で固まった身体をやっと動かして、タオルを頭からかぶった。見るのをやめるしか、恐怖から逃れる方法がないと思ったのだ。
その後、かなり長い間タオルの中で息を殺してジッとしていたのを覚えている。そして、知らない間にまた眠ったようだった。

一番のお気に入りの遊び場は、お寺の境内だ。今はあまり見かけないが、当時はお寺の境内にブランコやシーソー、滑り台なんかを置いた遊び場があちこちにあったように思う。現在そこは、境内と遊び場は分離してる。樹齢も相当なものだろうと思われる立派な木が何本もあって、子供達を見守っているようだった。
私もよく、太くて大きな木に抱きついたり、根元のきのこを採ってままごとに使ったりして遊ばせてもらった。
そこに引越してくる前も、私はお寺の中にある保育園で過ごしていた。小坊主の格好をしてお遊技をやった記憶がある。まるで一休さんみたいで我ながら可愛かった(´ー`)

夏休みの間、午前中は公民館やお寺の本堂で子供会が集まって、夏休みの宿題をやるのが恒例だった。
1年生から6年生までいっしょだから、わからないことがあると上級生に教えてもらったりして、兄弟がいない一人っ子でも兄弟と一緒にいて揉まれる体験をすることができたように思う。

私はどんなに顔見知りでも、上級生に「教えて」と言いにくかった記憶がある。
誰にでも気軽に自分を表現できる子供ではなかった。

人がやっていることが気になって、自分がやっていることに集中できない。上からのぞきこまれるのも大嫌い。 何か、指摘されようものならもう、続けるのが嫌になってしまう。一人で気ままにやりたいのだ。
でも、やったものが「どう評価されるか」は気になったものだ。
それなのに、「気にしている」ことを気づかれるのも嫌だった。まったく、ややこしい子どもだ。

絵を描いて学校から賞状をもらっても、まわりから嫌味を言われたりするので複雑だった。
友人の顔を描くという課題で、「きれい過ぎるから描き直せ」と言われた。
先生から見るとマンガで、いわゆる子どもらしい絵とは違っていたようで、先生が気に入るように描かなければならなかったわけだ。
その出来事がきっかけか、大人になっても自分の作品は自信が持てなかった。

子供の頃の記憶は、今を健全に生きようとする上でとても大切なものだと思う。
その記憶、その時の感情を思い出していくことによって、今の問題の解決の糸口になることが多いからだ。

おじぞうさまは、私の子供時代の感情を思い出す「入り口」の役割を担うようになった。
よく遊んでいたお寺に、そのおじぞうさまが住んでいて、私にくっついて来てくれたのかもしれない。

守神…なんだろうか(^_^)