宝物 A

誰にも、捨てられない物や、忘れられない出来事などがある。
それらは、自分が歳を重ねていく中であらためて見たり思い出したりするたびに、違った感覚を覚える。

私の"宝物A" は
手塚治虫先生からの返事の手紙2通だった。
「……だった」というのは、もうそれが消えてしまったからだ。
頂いたのは中学生の頃で、その後私は実家を離れ一人暮らしする間、シーツの空き箱に入れて実家の物置きの中にあるとずっと信じていた。
離婚しひとりの生活がまた始まる時、手元に置こうと思い母に"箱"のことを聞くと、「そんな箱はとっくに燃やしちゃった」と言われた。

手塚先生の手紙だけではない。
手塚先生が送ってくれた海のトリトンのセル画、東京ムービーを訪問した時にもらったバカボンのセル画や背景画、もう一人の大ファンだった漫画家の早田光茂先生の何通もの手紙と絵、限定盤の海のトリトンBGMのLPレコード、 地元のボウリング場でなぜか売ってた原始少年リュウのセル画。
おまけに、亡くなる数カ月前にもらった父からの手紙まで。

これらが一気に全部消えたと知った時の喪失感は、その後数年消えなかった。
これほど大切だと思っている物を全部一つの箱に入れてしまい、しかも手元に置かなかった自分が悔やまれてならなかった。母は、箱を開けてざっと見ると「何だかわからない古い手紙やいたずら書き(私の漫画)、紙切れしか入っていない」と思ったので「燃やした」のだ。
弟に言われた。
「そんなに大切なものなら自分で持ってりゃいいじゃんか!」
はい、その通りです。私が悪い。だからよけいにやるせない……(;_;)

手塚治虫先生は、どれほど忙しい人だったかは私が言うまでもなく、私のようなファンがいったい何人、先生にファンレターを送っていたか。私に返事が届いたということは、先生はきっと全てのファンレターに答えていたのだと思う。
昭和の時代の田舎の中学生が、世間を知らず、「うまく描けたこの絵を先生に見てもらおう!」などと思い、きっとほめてくれるに違いないとワクワクしながら返事を待って、本当に返事をもらえた。先生の言葉は、決して絶賛などしてくれないがアドバイスと努力を続ける大切さを私に「感じさせて」くれた。

先生からみたら私の絵など「ハナクソ」だったでしょう。でも若い芽を摘まないように、漫画の世界を愛していた先生は、命を削ってファンを大切にした。どこの誰ともわからないのに!

手塚先生から返事をもらったと、他人に「見せ」たら、「へー!すごい」で終わる。
私と同じ感動は味わってはもらえないだろう。味わってもらう必要は私にはない。だから優越感にもならない。
この喜びは私だけのもので、説明しきれないものだ。
手紙という物体は消えてしまったが、それらを手にした時の幸福感はいつでも思い出せる。

もし、母が箱を焼かずに、今も私の手元にそれらが残っていたら?
自分はいずれ体から離れ、宝物を手にすることはできないのだから、結局は思い出しか持って逝けない。
執着心を「ズバッ」と断ち切ってくれた母に感謝すべきかな。

 … でもなあ … やっぱ惜しかったかも …… 2012.6