現代人に必要な「動くこと」 五感の刺激が脳を活性化する
中日新聞 2008年6月20日(金曜日) 
養老孟司氏 中日新聞特別インタビュー  企画・制作 中日新聞広告局

 情報化が進む現代社会において、わたしたちは自宅や学校、職場にいながらさまざまなことを知ることができます。見知 土地の風景や食べ物なども、インターネットにつながったパソコンや携帯電話で情報として入手できます。技術の進歩により、さらに動きのある情報として見たことのないもの、聞いたことのないものも、まるでそこにいるかのように「体験」できるようになっています。
 でも、それは本当の体験なのでしょうか。ホームページなどのいわゆる情報メディアを通した他人の経験と実際に自分で行動した経験とはどのように違うのでしょうか。東京大学名誉教授の養老孟司さんが、現代社会ならではのこうした問いかけに「脳」と「動き」という視点で答えてくれました。

動くことで、脳は活性化する


 そもそも、動くということと脳の働きにはどのような関係があるのですか。
 自分の力で動くことを、ロコモーションと言います。空間の中を移動する。移動したとたんに見えるものが変わっていく。同じものを見ていても、どんどん大きくなったり小さくなったりしていきます。それを脳がいちいち覚えていたら大変です。だから人間の脳は、ノイズを落として変わらないことだけ、つまり大きさは省いて、形状や色、においなどを遺していくわけです。物のかたちっていうのは、私たちが非常にたくさんのものを、動いて、移動して、見てきた結果、頭の中にできあがっているものなんですね。赤ちゃんがハイハイを始めたとたん、急に脳が発達していく理由もここにあります。
 脳には、大きく言えば三つの働きがあります。五感としてまず入力する働き。それを脳内で全部電気信号に変えて、ガチャガチャと演算する力。最後にそれを筋肉から「動き」として出力します。
 つまり、脳は五感の入力と運動という出力を繰り返し、成長していくのです。逆に言えばそうしたサイクルがなければ脳はちっとも活性化しません。感覚と運動が、脳みそを作っていくのです。


 現代人の脳は活性化しているのでしょうか。
 「現代社会」と呼ばれる今の社会は、五感の入力と運動の出力をきわめて限定しています。冷暖房完備のマンションに住み同じ高さの階段しか上らない人間と、天気が変わり日の光がさっと動き鳥の鳴き声を全部肌感覚で知っている人間とでは、どっちの脳が活性化されるかわかりますよね。
 都会の中で暮らすということは、ある決まった条件の中で生きるということで、それをやると楽なのです。暑いときでも涼しくいられるし、寒いときでも温かくしていられる。そのかわり日の光の動きも分からなければ、風の変化も分からないし、天気の変化も分からない。
 そういうことをずっと続けていると感覚は鈍くなりますね。変化がないのですから当然のことです。これもまた入力と出力の問題です。五感と運動を切り取ってしまったせいなんです。
 感じることや、動くことを切り捨てて、脳の部分だけを大きくしたような社会が今の日本です。文明が進めば進むほど、人間は動かなくなる。当然、脳も弱ってきます。私はこれを「脳化社会」と呼んでいます。

座り込んでしまう若者たち


 「脳化社会」はどこにあらわれてきますか。
 昨年の秋に京都にいきました。京都駅の床に、だーっと高校生が地べたに座っているんです。
 あれは、立っていられないこともあるけれど、おそらくは、「次の動きがない」状態なんです。次の動きがないということは、非常に生き物としてというか、動物としてはヘンな状態。死んでいるみたいなものですから。
 僕は、よく山に虫をとりにいきます。蝶というのは、上から降ってくるか、右からくるか、足下の草むらからポンと出てくるかわからない。だから、どういうところから来てもすぐに網がふれるようにしておくわけです。どこにも力が入っていないふわーっとした状態なのですが、それが今の若い子たちにはできないんですね。
 「次の動き」のある立ち方を進めると「隙がない」ってことになる。武道の専門用語では、「居つかない」と言った。動きが予想されるから、居ついてないと言ったわけです。
 駅の地べたに座っている子たちは、全部、居ついてしまっている。

 どこに原因があるのでしょうか。
 彼らのせいだけでのないんです。今の教育の中から本来の「体育」がすっぽり抜け落ちてしまったことが大きいです。
 体育という限りは、つねに次の「動き」が予想されていて、余分なところに力が入ってなくて、実際に動くときは、一番合理的に動くことを教えないといけない。ところが、こうした次の動きを予想することが身についていません。
 たとえば薪(まき)割りをやらせるとします。ところが、これを力まかせにやろうとする。薪を割ることは考えるんだろうけれど、それ以前の、薪を置く位置とか斧の握り方なんていうのは、すべて感覚でやるものなんです。ある程度高いところからすっと斧を落としたらきれいに割れた。割れた結果が見える。それが報酬になって、また同じ動きをする。こうすることで、どんどん薪割りに必要な動きが合理化されていくわけです。これが今の若い人は苦手です。かつての日本人では当たり前だったことが、そうではなくなっているんです。

人間はどんどん変わっていく


 実際に動いても仕方ない、意味がないと思っているのでは。
 たしかに、今の自分が存在している世界はあります。その世界の中だけで生きようとするのが多くの若い人なんです。でもそれは退屈な世界です。おもしろくない。生きがいがない。そこから、世の中全然希望がないと思っている。人生可能性ゼロなどと、勝手に結論するんです。
 本当はちがうんですね。その存在している自分自身が変わるという可能性は必ず残っているんです。人は変わっていくのです。

 若い人に限らず、自分が確固としたもので変わらない、と思い込んでいる人が多いと思うのですが。
 たとえば、お寺の鐘の音がありますよね。同じお寺の鐘でも、若い時に聞く音色とそれなりの大人になって聞く音色、違いますよね。
 もっといえば、朝聞いた鐘の音と夕方の音も違っているかもしれない。聞くたびに違っているといってもいい。
 でも、実際の音は、固有振動数といって、鐘の音自体は常に同じです。聞いている側が変化しているから毎回違うように聞こえるだけです。
 中国の古書にもありますように「男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」です。人間はどんどん変わっていきます。ところがそれに気づかないまま、「自分だけは変わらない」と思っている。そんなはずはないんです。

 変化しないものと思っている。
 動かないもの、変わらないもの、これは「情報」です。写真に撮っても、声を録音しても、全部その場で動かない。同じように自分も情報だと思い込んでいる人が「情報時代」の人なんです。

旅することのたいせつさ

 

 人間は情報そのもの、などとよくいいますが、それは違うと。
 これもうほとんど現代社会の世界的な錯覚です。人間が「情報」なんて冗談じゃないです。まったく違います。人間は生きて動いているので、ただひたすら変わっていくんです。生きていくということは、瞬間、瞬間で微妙にズレ、それを感じることです。まちがっても情報となることではない。それを勘違いしてしまうのは、動かないからです。
 変わらない自分がある、と思い込む。だから生きることが分からなくなってしまう。生きていることを感じられないから"人間は情報だ"などと思ってしまうのです。
 だから、体を動かさなくてはいけないのです。体を動かすというこてゃ、自分自身がそれによって変わる可能性があるということです。動いてもしょうがないじゃないと思っている自分が変化する可能性があるのです。

 自分が変わり、脳が感じるためにも動かないといけないのですね。
 そうです。そういう意味で「旅」は重要です。医者の世界に「転地」ということがあります。ぜん息とか、アレルギー性の病気は、今いるところから別のところに移ると一時的にしろ良くなるということがありました。だから医者も転地を勧めていましたよね。
 現代の社会では、健康な人もある意味では病気みたいなものです。そういう人が旅をするということは転地することに近いです。普段と違った環境に移るということが、体に新しくいろんな刺激を与えて、ホルモンの出方、視神経のあり方も違ってくるんです。体のバランスが崩れていた場合には、むしろまともに戻る。さらに極端なほうに行くんじゃなくて、安定したほうに戻ってくるのです。

うごけ!日本人


 動くことが、人間の体をあるべき姿にするのですね。
 子供の頃は感覚が良くても、大人になると鈍くなる。鈍くなってることにさえ、気づいていない。子供の頃には注意力があって、しっかり見えていたものが、大人になると選択的に視野に入るものを拾ってしまって、必要だと思うものしか見ない。記憶に残らない。これが現代社会、つまり「脳化社会」の大人なんです。
 脳化した現代社会から出て、本来、私たち人間がもっている力を取り戻すには、感性入力と運動出力を大きくする以外にないと私は考えています。
 たとえば、日本の古典の中で一番日本人らしい生き方をした人を挙げると、芭蕉(ばしょう)とか西行(さいぎょう)とか出てきます。この人たちは本当にただひたすら動いていた人たちです。

 重要なことは、自分の動きと感覚とが絶えずまわっていくことです。歩くと、歩くたびに周囲やものの見え方が変わっていきます。それが刺激となり、それによって自分自身が変わっていきます。
 動かなければ、ダメです。第一、体を動かすことは、絶対に気持ちがいい。
 これは今の日本人にはもう、わかる―わからない段階の問題じゃなくなっています。やるか―やらないか、それぐらいせっぱつまった問題になっています。
 「おまえ、口は達者だけど何ができるんだよ」と怒られることがなくなってしまった日本人が、本当に動けるかどうか。「日本人よ、動け!」と心から言いたいです。

ようろう・たけし
東京大学名誉教授。1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部で解剖学を学び、東京大学教授、北里大学教授を歴任。専門の解剖学を踏まえ、脳と身体との関係から人間のあり方、そして社会問題までわかりやすく解説する語り口は人気が高い。著書は大ベストセラーとなった『バカの壁』をはじめ、『ヒトの見方』『唯脳論』など多数。近著の『養老学』も好評。