裁判員 「苦役」の後遺症
中日新聞2014年2月19日朝刊28面

 強盗殺人事件の裁判員裁判で裁判員を務めたことで急性ストレス障害(ASD)になったという女性が、制度自体が「苦役」だとして、国家賠償請求訴訟を起こした。裁判員制度が始まって間もなく五年。昨年十二月から裁判員制度の見直し作業が法制審議会で始まっているが、こうした裁判員の被害は議論されていない。(荒井六貴)

断りたかった
 「吐くことはなくなったが、今までも自分が殺されるような夢をみることがある。自分は精神的に強い方だと思っていたけれど、こんなことになるとは」
 裁判員を務めて、ASDになった福島県郡山市の主婦青木日富美さん(63)はそう落胆する。

「今も自分が被害者になるような夢を見ることがある」と話す青木さん=福島県郡山市で
 経緯はこうだ。青木さんは2013年3月1日、福島地裁郡山支部に呼び出され、裁判員に選ばれた。担当したのは、男が夫婦二人をナイフで殺害し、現金1万円などが入った財布を奪った強盗殺人事件だ。
 選任手続きを終えると、裁判官3人のほか、青木さんら女性3人と男性3人の裁判員6人、補充裁判員の男性2人の計8人が、裁判所の一室に集まった。「名誉だ」「やってみたかった」と胸を張る人もいたが、青木さんともう一人の女性裁判員は「できれば、避けたかった」と打ち明けた。
 量刑は「死刑」か「無期懲役」が予想され、重大すぎて、裁くことはできない」と考えたからだ。しかし、裁判官には取り合ってもらえなかった。
 裁判では、夫婦の血まみれの遺体を撮影した証拠写真が示され、被害者が消防に助けを求めて叫び声を上げる録音テープが再生された。
 青木さんは閉廷後、トイレに駆け込み、吐いた。公判は5日間続いたが、吐き気は止まらない。夜も写真や被害者の声が耳から離れず、よく眠れなかった。
 「迷惑がかかると思い、(裁判員を)辞められなかった。死刑かどうかの事件で雰囲気も重く、体調が悪いと言える状況ではなかった。裁判官が気を使ってくれることもなかった」(青木さん)

 3月14日に判決言い渡しを迎えた。判決は死刑。当初、やる気に満ちていた裁判員らも「やらなければ良かった」と口にしていた。
 青木さんは判決後の記者会見で「昼食後に吐いた」と告白したが、裁判所側の反応は全くなかった。

診療たらい回し

 青木さんの症状は改善されず、夫の信矢さん(66)が郡山支部に電話すると、最高裁が設置する裁判員用のメンタルヘルスサポート窓口を紹介された。
 電話してみると「5回まで、無料でカウンセリングを受けられる。受けるのなら上京してください。ただし、交通費は自費です」。素っ気ない口調だったという。


青木さんが裁判員を務めた強盗殺人事件の審理をした福島地裁郡山支部=福島県郡山市で
 信矢さんは「症状も聞かれなかった」と振り返る。サポート窓口の担当者は上京できないなら、地元の医療機関を紹介すると言い、郡山市の保健所の連絡先を告げた。保健所に電話すると、「知識がない。初めて聞いた」という回答が返ってきた。
 地元の心療内科で診察を受けると、ASDと診断された。今も月1回通院し、これまでの医療費は役十万円に上る。裁判所側から、負担を肩代わりする申し出はなかった。

 「たらい回しされた」と感じて憤った青木さんは国を訴えることを考えた。この動きが報じられると、突然、福島地裁の担当者から携帯電話に連絡が来た。
 「(担当者は)おわびしたいと話していた。私が動かなければ、そのままにされていたと思うと、逆にその不誠実さに怒りが増した。提訴を決心した」

記された「過料」

 青木さんは昨年5月、国を相手取り、慰謝料など二百万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。その後、福島地裁に移送された。
 郡山支部の一連の対応について、福島地裁総務課の担当者は、取材に対し「係争中の事案なので答えられない」と話した。
 青木さんは、それまで8年間続けていた介護の仕事も休みがちになり、結局、雇い止めになった。青木さんはなぜ、裁判員になることを断り切れなかったのか。
 裁判員の呼び出し状には「正当な理由がなく応じない時は、十万円以下の過料に処せられることがある」と記されていた。青木さんは「十万円払ってでも、行かなければよかった」と後悔するが、夫の信矢さんは「呼び出し状を読むと、裁判所に行かなければ、犯罪者扱いされると思ってしまう」と悔しがる。


裁判員候補者への呼び出し状。「過料」の2文字が候補者にのしかかる

 青木さん側は、訴えの中で被害を受けた根本の原因は裁判員制度自体にあると指摘。意思に反して参加を強要することから、憲法十八条が禁じる「苦役」にあたると主張する。
 ただ、この主張は容易には通りそうにない。というのも、前例がある。覚醒剤取締法違反事件で、裁判員制度を不当と主張した被告側に対し、最高裁は11年11月、「裁判員制度は一定の負担が生ずることは否定できないが、参政権と同様の権限を国民に付与するもので(中略)苦役にあたらないことは明らか」と判示した。
 この判決に青木さん側の織田信夫弁護士(仙台弁護士会)は疑問を呈す。「覚せい剤事件の弁護側は、裁判員制度が『苦役』かを問うていなかった。通常、争点になっていないことに裁判所は踏み込まない。最高裁はこの事件を使い、全国の下級裁判所に『裁判員制度は違憲ではないから、安心しろ』とアピールしようとしたのではないか」
 最高裁の広報担当者は取材に「答える立場にない」とコメントした。

半数が出席せず

 裁判員制度をめぐっては、呼び出し状に応じて、裁判所に出向く人も減っている。09年に呼び出し状が送られた裁判員候補者9,638人のうち、出席した割合は56.2%だったが、12年には42.8%に落ち込んだ。
 水戸地裁で係争中の現住建造物等放火事件の裁判員裁判では今年1月、補充を含む裁判員8人全員が判決前に「予定が合わない」などと辞任。全員が解任され、審理が止まった。
 裁判員制度は09年5月に始動したが、制度の見直し規定に従い、昨年12月から法制度審議会の部会で議論が始まった。だが、議題は被害発生時の候補者の呼び出し対応や、選任手続きの際に被害者が特定されるような情報を公にするか否かなどについてだ。
 元裁判官の西野喜一・新潟大大学院教授(現代司法論)は「すでに国民皆参加の原則は崩れている。見直しを掲げるが、制度をどうするかという視点に欠けている。最高裁には制度を死守したいという発想しかない。青木さんが救われない議論だ」と話した。

急性ストレス障害 (ASD)
 犯罪被害や災害など生命が脅かされるような体験をしたり、その光景を目撃したりすることで、強い不安や不眠などの症状が出る一過性の障害。症状が続くと、心的外傷後ストレス障害(PTSD)へ移行する。