端を楽にする
大來 尚順 おおき・しょうじゅん  2016年4月19日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
「抜苦与楽」の行
「働く」根底に慈悲の心

 普段から何の疑問を持つこともなく「働く」という言葉を口にし、与えられた環境で体や頭を使ってひたすら働いてきた方は多いのではないでしょうか。定年を迎え、「働く」ことにひとつのピリオドを打たれた方もいらっしゃると思います。
 そもそも「働く」とは、どのようなことを言うのでしょうか。当たり前すぎて考えたことがないという方も多いと思います。生きる手段として仕事をすること、自分の欲求を追求するための方法、自分の目標や夢の実現に向けた努力など、「働く」とはひとそれぞれ、いろいろな解釈があると思います。それは「働く」という自分の体験の中で得た解釈であり、正解、不正解はないはずです。
 わたしは、山口県の徳地という田舎町にある「超勝寺」の衆徒(僧侶)として生活する傍ら、東京の財団にも勤務しています。山口県と東京を行き来し、僧侶兼サラリーマンの二足のわらじを履く生活を始めて、今年で9年目になります。駆け出しのひよこですが、社会で様々な苦楽を経験し、曲がりなりにも「働く」とはどういうことか考えてきました。
 「働く」の語源・由来は、「端はたを楽にする」ことです。「端」は「傍」とする場合もありますが、意味は同じで周りの人々を指します。「楽」は、文字どおり楽を与えること、別の言い方をすれば幸せにすることです。つまり、周りの人々を幸せにすることが本来の「働く」の意味なのです。


 仏教用語にこれと類似する「抜苦与楽ばっくよらく」という言葉があります。「苦を抜いて楽を与える」と書き下し、仏や菩薩と呼ばれる修行者の善行を意味します。「抜苦」は古代インド文字のサンスクリット語で「カルーナ」(悲)を、「与楽」は「マイトリー」(慈)を意味します。つまり、「抜苦与楽」は「慈悲」の実践を指し、実は「端を楽にする」ことなのです。
 しかし、慈悲の実践は菩薩の行であり、本来凡夫と呼ばれ、煩悩に浸る私たち人間には行じることはできない非常に難しい行為です。自己利益の思いなどみじんもなく、何のはからい(計算)もなく他者を幸せにすることが本当の慈悲の実践なのです。そして、その実践を目指すことが仏道なのです。この難しさは、「端を楽にする」ということにも同じく言えます。
 スピード社会で激しい競争に明け暮れていると、ノルマ、同僚・上司との人間関係、社内政治などに注意が取られ、自分を差し置いて他者を思いやる姿勢を保つことは、正直とても難しいことです。
 だからといって、慈悲の実践を諦めろというわけではありません。心に留めておいてもらいたいのは、「働く」ことの根底には周りを幸せにするという慈悲の心がすでに流れているということです。仕事をする意味がわからなくなった時や仕事への熱意を失った時でも、直接は見えなくても、実は自分の仕事が世界中の誰かの幸せのために役立ち、慈悲という菩薩行の第一歩をすでに踏み出しているのです。もっとも大事なのが、「働く」というのは何も職場でバリバリ仕事をすることだけに限定されないということです。端を楽にする「働く」は、誰でも、どこでも、いつでもできる行為なのです。 


 毎朝通勤する時に、わたしは必ず一人のおじいさんを見かけます。どんな天候の悲でも横断歩道に立ち、道路を渡る小学生たちにハイタッチをしては安全を確かめて見送っているのです。子どもたちは笑顔で「おはようございます」「いってきます」と声を張り上げます。ある時、話しかけてみたら、誰かに頼まれたわけでもなく、ただ子どもたちに安全に道路を渡ってもらいたいという思いから始めただけと言われました。これこそ菩薩行なのではないでしょうか。
 私は、その光景を目にするたびに、今日も1日、「端を楽にする」ことに努めようと思うのです。「働く」という本当の意味がなかなか見いだせない今日、自分の置かれた場所でどんな「端を楽にする」ことができるのか、一度ゆっくり考えてみてください。きっと生活に何かの変化が表れてくると思います。

置物でない仏教
生活の中で教えを実践 

 私は僧侶とサラリーマンの二足のわらじを履いて暮らしています。この生活を続けてきて改めて思うのは、仏教は置物ではないということです。
 仏教と聞くと、多くの方は、インド・中国・朝鮮半島を渡って日本にたどり着いた宗教、神道に並ぶ日本の伝統宗教、葬儀屋死後に関係する宗教、またキリスト教・イスラム教に続く世界三大宗教の一つとして考える方が多いのではないでしょうか。
 私たちが今日の社会で使う宗教という意味合いでの仏教という言葉は、明治以降に作られたと言われています。それまでは「仏教」は、「仏道」として表現されていたようです。これは文字通り「仏の道」と解釈できますが、「仏になる道」とも解釈できます。他の誰でもなく、私自身、あなた自身が仏となる道、生き方そのものをいうのです。
 日本では、仏とは、人が亡くなった後に法名や戒名を与えられて成るものと思われがちですが、本来は仏とは「(真理に)目覚めた人」のことをいうのです。つまり、生きている間でも悟りを得られれば、仏になれるのです。これを成し遂げた方がお釈迦さま(釈尊)なのです。実際にお釈迦さまが実践され残された教えや行に身を投じれば、悟りを得られるかもしれないというところに私たちの実践が生まれてくるのです。ここに仏教が、仏(目覚めた人)になる道であり、生き方であるという由縁があるわけです。


 仏教には、真俗二諦という言葉があります。「諦」とは「あきらめる」ことではなく真理を指します。真理には、絶対的な真理(真諦)と世俗的な真理(俗諦)があるという意味です。これに私の二足のわらじの姿を当てはめると、僧侶としての姿(仏道に励む姿)は真諦、サラリーマンとしての姿(時として欲に目がくらんでしうまう愚かな姿)は俗諦となります。常に真っ黒な自分が光に問われるような感覚です。
 私自身、未熟さもあり、非常にバランスを取るのが難しく、サラリーマン社会における三毒の煩悩(貪むさぼりの心、怒りの心、愚痴の心)に目が曇り、時として俗諦に浸る比重が大きくなってしまうことがあります。しかし、僧侶という真諦があるからこそ、自分を反省しては、気持ちを新たにしてサラリーマンとして毎朝出社することができます。
 この実体験から思うことは、どんなに素晴らしい教えがあっても、それを実際に自分の生活に取り入れなければ全く意味がないということです。なぜならば、教えはただの置物ではなく、自身に反映してはじめて意味のあるものになるからです。私自身、仏の教えにどれだけ自分の心が厳しく正され、また癒されたかわかりません。ここに私が仏教はただの置物ではないと主張する根拠があるのです。
 私は皆さんに仏教徒になってほしいと言っているわけではありません。もちろんそうなっていただければうれしいのですが、必ずしもその必要はありません。しかし、仏教の教えや考え方の中で、これは良いなと思うものに出会えたならば、ぜひそれを自身の生活に取り入れてほしいと願っています。


 今日、多くの方が働く目的や意義に不安や恐怖を抱えながらも、竜巻のように襲ってくる大量の仕事やプレッシャーに自身が宙に巻き取られ、宙に足が浮いている状態で生活しているように思えます。また定年を迎え、その長い過程を終えた今、新たに何かを始めようと考えていても、「働く」という意味や目的をなかなか見いだせずにいるというような声もよく聞きます。
 そのような方の足を地に着かせ、心に安心を与えてくれる役割を果たすのが、仏教を生活の中で実践することです。仏教には、「縁起」「空」「諸法無我」など、さまざまな教えがありますが、どれも今の自分の姿や現実を振り返らせてくれるものです。ただし、それにはその「教えに生きる・実践する」自分という主体性が不可欠です。
 地に足を着けるとは、自分がさまざまなものに支えられて生かされていることを知るということでもあります。そこから生まれてくるものは、大いなる感謝の気持ちです。ここに働くことで「端を楽にする」(周りを幸せにする)という動機も生まれてきます。
 仏の教えに生きる・実践することは、さまざまな不安や恐怖から抜け出し、今をより幸せに生きるための一つの方法なのです。

ねるけ むほう

おおぎ・しょうじゅん 1982年、山口県生まれ。自坊の超勝寺(浄土真宗本願寺派)僧侶、仏教伝道協会職員。寺子屋ブッダ講師。龍谷大卒。米国仏教大学院修士課程修了。ハーバード大神学部研究員を経て帰国。通訳、翻訳、執筆、講演など幅広い仏教伝道活動に従事。テレビ「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」(テレビ朝日系列)に出演。著書は『短絡』(アルファポリス)『英語でブッダ』(扶桑社)『西洋の欲望 仏教の希望』(翻訳、サンガ)など。