病期とともに生きたひとの記録を読む
谷本 光男 たにもと・みつお  2016年4月5日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
いかに「本当」を語るか
兆民と子規にみる相違

 病人の記録は、普通「闘病記」と言われるが、わたしはこの言葉を使ったことがない。なぜなら、「病期」と闘うことはどだい無理な話だからだ。いくら闘おうとしてもいつかは負けてしまう。われわれにせいぜい出来ることといえば、「病期と闘うこと」ではなく、「病機とともに生きること」である。「闘病記」と言われるものも、「病期とともに生きたひとの記録」を指している。この記録はわたしと同じような病人だけでなく、健康なひとも読んでみる価値がある。実に多くのことを教えられるからである。
 こういう考えのもとに、昨年の秋、わたしが勤務している大学の公開講義において、このエッセーのタイトルのもとに4回の講義を行った。授業で取り上げたのは、次の4冊であった。すなわち、(1)中江兆民『一年有半』(2)正岡子規『仰臥漫録ぎょうがまんろく』(3)岸本英夫『死を見つめる心』(4)多田富雄『寡黙なる巨人』。この4冊はわが国で病気について書かれたものの中で「古典」とも言うべきもの、また、将来「古典」と見なされるであろうと思われるものである。授業ではこの4冊を取り上げながら、(ティム・オブライエンの小説の総題を変えて借用すれば)「本当の病気の話をしよう」(正確には「いかに本当の病気の話を語るか」)というのが、わたしの講義の意図であった。
 そこでまず初めに、『一年有半』から始めた。この書物は中江兆民の最晩年のものであり、「生前の遺稿」と名づけられたものである。兆民は商用のために出かけた大阪で咽頭癌を発病し、医師から余命はあと1年半と宣告された。タイトルはこのことに由来する。病気は急速に進み、くだを気管に押し入れる手術を行い、声も出なくなった。固形物も全く喉を通らなくなった。こういうからだの状態で『一年有半』は書かれたのである。そして、「これこそわたしの真我である」、つまりここにこそ本当のわたしがいる、と兆民は言っている。
 兆民のからだの状態を考えてこの書物を読むなら、われわれは驚くであろう。淡々と、闊達かったつ自在に社会批判、人物批評、文学上の感想(幸田露伴、尾崎紅葉、坪内逍遥、森鴎外は出てくるが、夏目漱石は出てこない。また「小説のたぐいなどは、みな義太夫には及ばない」と言っている)など、多くのことについて何の脈絡もなく語っている。そして、「近代の非凡人」を31人選び抜いているその中には坂本龍馬、大久保利通など現代でもよく知られたひとが数人出てくるが、そのほとんどは三味線や長唄などの芸能者である。義太夫が好みであった兆民にとって、これは当然であったのだろう。
 『一年有半』でもっとも有名なのは、「ああ、いわゆる1年半も無であり、五十年、百年も無である。つまりわたしは虚無海上の一虚舟なのだ」という言葉である。これがこの書物を支えている哲学であるともいえる。しかし(これに関連するが)どのような人生の中にも楽しみは見出されること、これが兆民を支えていたものであったように思える。そのために、この書物は何度読んでも面白いのである。病人の暗さはどこにもない。


 この『一年有半』に対立するのは、正岡子規の『仰臥漫録』である。子規は『仰臥漫録』の中で「『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり」と述べている。兆民俊樹を比べるとあまりにも違いが目立つ。子規は21歳から35歳で亡くなるまでずっと肺結核に悩まされたことが、その原因のひとつであろうが、ただそれだけではないであろう。「いかに本当の病気の話を語るか」についての考え方が両者では違っているのである。確かに『仰臥漫録』はエッセーというよりも日記という性格が強いのかもしれないが、「この頃の容態および毎日の例」の箇所を読むと、単に日記として書いているようには思えない。子規は自分に向かってのみ『仰臥漫録』を書いているわけではないのである。 

「死」を考え、「希望」を見る
各人に応じて語られる 

 前回のつづきをもう少し書こう。正岡子規の生涯を支配した大きな要素のひとつは「病気」であった。したがって、病気については『墨汁一滴』『病牀びょうしょう六尺』『仰臥漫録ぎょうがまんろく』の随筆三篇のすべてに書いてある。
 この中で病人の記録としては『仰臥漫録』がいちばん優れている。ここにはエゴイストである病人の姿がありのままに描かれている。子規の世話をしたのは律という妹であったが、律に対する感謝はどこにも見当たらない。それどころか「律は強情なり。人間に向かって冷淡なり。…彼の欠点は枚挙に遑いとまあらず。余は時として彼を殺さんと思うほどに腹立つことあり」と残酷なことを言っている。そして、自分の内側をひたすら眺めている。「余は俄にわかに精神が変になって来た。〝さあたまらんたまらん〟〝どーしやうどーしやう〟と苦しがって少し煩悶はんもんを始める」
 これは中江兆民とはまったく違う。兆民は喉頭癌に苦しめられながらも社会を批判し、天下国家を自由に論じた。阿部昭は『仰臥漫録』の「解説」で「虚飾を去った人間の記録」と述べて、兆民との違いを指摘している。


 

 病気になってわれわれに向かって襲ってくるものに「死」の問題がある。この死について徹底的に考えたひとりに宗教学者の岸本英夫がいる。彼は悪性黒色腫(メラノーマ)の宣告をされてから、20回にわたる大小の手術を繰り返してきた。彼の『死を見つめる心』における問題は(死に出逢う場合の心構えはどうであるか」というものであった。それを考えるときの出発点は、「生命飢餓状態」に身をおくということであった。これは、死は生きたいと願う人間の生存欲を脅かす、ということである。「死は、人間の行きたいという心の、向こう側に、たちはだかっている」。ここには兆民のような「虚無海上の一虚舟」という発想は見られない。そこで死に怯おびえることになる。
 岸本が行き着いたところは「別れとしての死」という考え方であった。「死を別れと見ることは、毎日毎日、心の中で別れの準備をしておくということである」と岸本は最後に言っている。
 昨年の大学の公開講義の最後に取り上げたのは、わたしがこの数年来尊敬してきた免疫学者多田富雄であった。多田については知っているひとが多いように思う。6年前に亡くなったが、生前は不自由なからだながらも、多くの書物を出版された。彼の病気でとりわけ心を動かされたのは「嚥下えんげ障害」であった。水が一滴も飲めないだけでなく、湿ったもので喉を潤すこともできない。唾を飲み込むこともできない。そして、涎よだれが止めどなく流れる。舌を動かすことができないから話すことさえもできない。こういうことは『寡黙なる巨人』に詳しく書いてある。
 しかし、多田が本書の最後に書いているのは、「絶望」ではなく、「希望」なのである。「それでいいのだ。わたしはわたあしの中に生まれたこの巨人と、今後一生付き合い続け、対話し、互いに育て合うほかはない。わたしは自分の中の他者に、こうつぶやく。何をやっても思い通りに動かない鈍重な巨人、言葉もしゃべれないでいつも片隅に孤独にいる寡黙な巨人、さあ君と一緒に生きてゆこう」


 最後に、このエッセーのまとめとして、あくまでもわたしの仮説であるが、以上の四人を図式化してみよう。ここに取り上げた四人は各人に応じて「本当の病気の話をしよう」としているのである。しかし、以上の四人だけでなく、「病気とともに生きたひとの記録」のどれを取り上げても、この図のうちのどこかに位置づけられるようにわたしには思えるのである。

ねるけ むほう

たにもと・みつお 1951年広島県生まれ。龍谷大大学院文学研究科博士課程単位取得退学。龍谷大文学部教授。哲学・倫理学専攻。『半身の死を生きる』(共著、自照社出版)、『環境倫理のラディカリズム』(世界思想社)、『公共性の哲学を学ぶ人のために』(共編、世界思想社)など。