2030年 お寺が消える日
松本 紹圭 まつもと・しょうけい 2016年3月22日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
ロボット僧侶の誕生?
地縁・血縁の基盤 崩れる
|
英オックスフォード大学の研究者が発表した論文が、話題になっている。テーマは「今後10〜20年で消える職業」だ。人工知能(AI)やロボットなど、科学技術が目覚ましい発展を遂げた結果、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がAIロボットに奪われようとしている。
消える職業は、運転手、農作業、レジ係、配達員、コールセンター、経理、窓口担当、外回り営業など、私たちに身近なものが少なくない。例えば、農作業。すでに農業の現場では無人で農作業をするロボット農機が試験的に導入され、生産効率の飛躍的な向上が期待されている。近い将来、みかん畑では空中を飛び回る無数の無人ドローンが農薬の散布から収穫まで行うようになるだろう。
伝統仏教の僧侶も安閑としてはいられない。もしAIロボット僧侶が誕生したら、どうなるか。あらゆる経文を暗唱し、読経や儀礼を間違えることはない。正座だって何日でも座り続けていられるし、境内の掃除も休むことなく猛スピードでこなす。戒名・法名や命日どころか、個人のすべてのデータを記憶しており、遺族がリクエストすれば個人の写真や動画も瞬時に探して映し出してくれる。読経マシンとしての勝負になれば、生身の僧侶にはとても勝ち目がなさそうにも思える。
影響を受けるのは僧侶だけではない。AIは人の死の意味も変える。いずれ、死者の脳の構造とメモリーがAIに移植できるようになれば、まるでその故人が生きているかのように成長し続けるAIと遺族が対話を重ねるようになるかもしれない。「そのとき「生死しょうじ」という概念は、もはや今と同じ意味ではあり得ないだろう。
もし僧侶の仕事が法要儀式を間違いなく執行し、いい声で御経を読むだけのことならば、まっさきにAIロボットに取って代わられてもおかしくはない。しかし、人の死の意味すら変わっていくこれからの時代において、私たちが直面する出あろう「私とは何か」「生死とは何か」という人類の最も根源的な問いに真正面から向き合うなら、僧侶は人間にとってAIロボットで変えのきかない数少ない仕事になりうると、私は思う。
さて、AIロボット僧侶の登場を待たずとも、すでに日本のお寺の多くが今、消滅の危機に瀕ひんしている。これまで一般的なお寺の存在基盤となっていた「檀家制度」が急速に崩れつつあるからだ。その原因としては、単身世帯の増加、経済の停滞、少子高齢か、家族の紐帯ちゅうたいの弱まりなどの社会環境変化が考えられる。
高度経済成長期の一億総中流時代には守ることが当然とされた先祖代々の墓は、永代供養墓という名の故人墓・夫婦墓に取って代わられつつある。2030年、超高齢社会の日本では、高齢者が人口の3割を超え、現役世代1.8人で一人の高齢者を支えることになる。国内の経済格差も拡大するばかりで、中流以下の一般家庭にはもはや先祖を顧みる余裕などないだろう。
今、葬儀の携帯は、家族や親しい友人などに限った小規模葬や、自宅か病院から火葬場へ直行する直葬が増えている。法事も三回忌や一周忌で終わりというふうに、どんどん簡略化が進んでいる。葬儀や法事で僧侶が読経する機会は、今後間違いなく減る。地域コミュニティーを支えていた地縁・血縁の基盤が崩壊し、先祖への畏敬の念は薄れている。かつて法事の慣習を保った「親戚や近所の手前」「やらないと具合が悪い」などの理由も成り立たなくなる。葬儀や法事は「ならねばならないもの」から、「やったほうがいいもの」へ、そして「やりたい人がやるもの」へと変わりつつある。
2030年、果たして日本の風景にお寺や神社の姿は残っているのだろうか。これは決して僧侶だけの問題ではない。日本人、人類の共通課題だ。お寺も神社も消滅した日本に、何が残るというのか?いや、それでもたくさんのものは残るのだろう。しかし、私が最も残ってほしいと思っているものたちは、丸ごと失われるに違いない。
二階建て構造の崩壊
問われる僧侶のあり方
|
「神社は神道。では、お寺は?」という質問に「先祖教と仏教」と、京都・法然院の梶田真章住職は答える。今日はほとんどの日本のお寺は「二階建て構造」だ。葬儀や墓など亡き方のための先祖教を担う一階でお寺の経済を回し、今を生きる人のための仏教を担う二階では法話や座禅会などの教化活動が行われている。これまでのお寺は、死者のための一階が圧倒的に忙しく、生きている人のための二階まで手が回っていない場合が多かった。
しかし今、日本社会では地縁・血縁という先祖教の基盤が崩れ、葬儀屋仏事の簡略化が進む一方、自己自身の救い、安心、探求のために仏教を求める気持ち(菩提心ぼだいしん)が高まっている。「モノよりココロ」の現代は、実はお寺にとって先祖教から仏教へと活動の軸を立て直す好機なのだが、それを捉えて変革へと一歩踏み出すお寺は、残念ながらまだほんの一握りだ。
変革は待ってはくれない。長い伝統があるからといって、お寺が諸行無常のことわりから除外されることはない。専業で生計を立てられる僧侶の数はこれから激減する。新時代の宗教者として専門的な研鑽けんさんを積んだ一部の僧侶は活躍の場を得るが、変化に対応できなかった読経専門の僧侶は祝勝するパイを奪い合うことになる。ほんの一握りの観光寺院を除き、日本のお寺のほとんどを占める檀家寺は、一階の先祖教の基盤である檀家制度が崩壊すれば、経済的に維持することが難しくなっていくことは間違いない。
経済とともに、お寺の世襲制も崩れる。「僧侶になりたいわけではないが、たまたま寺に生まれたので、家業として継がざるをえない」という消極的理由で僧侶になる人は大幅に減るだろう。良くも悪くも、日本仏教が世襲僧侶の占有物である時代は終わりつつある。国内でもタイヤスリランカの上座部仏教が存在感を高めているし、欧米のマインドフルネス(仏教瞑想)など在家の立場から仏教を説く優れた書籍も増えている。特定の教団や組織に属さずインターネットで自由に発信・交流する優れた在家仏教者が増えてくる中で、僧侶は伝統的権威に頼ることなく一個人として宗教的価値を提供できるかが問われ始めている。
公益法人としての宗教法人に対して求められるマネジメントの水準は上がる一方だ。お寺の運営形態はかつての家族経営から、地域の複数の寺を舞台に高度なサービスを提供するチーム経営へと転換を促されている。社会貢献活動への期待も高まる。例えば「おてらおやつクラブ」。お寺のお供え物を、仏様からの「おさがり」として頂戴し、全国のひとり親家庭を支援する団体と協力、経済的に困難な家庭へ「おすそわけ」する活動が、全国のお寺で広がっている。家庭と支援団体との関係性の深まりに寄与し、貧困問題の解決への貢献を目指す「おてらおやつクラブ」のように、NPOなどさまざまな組織と協力しながらチキ記者会の課題に取り組む役割は、今後ますますお寺に期待されるに違いない。
死者と生者を媒介する「先祖教」の役割を果たしてきた日本のお寺。しかし、さまざまな技術の進歩によって、亡き人を偲ぶ手段・装置も大きく多様化。高度化を遂げるだろう。脳とインターネットが直接つながる世界で、お骨が唯一の記憶のメディアではあり得ない。死とは何か。人間とは何か。僧侶の深さが根本から問われる時代である。
私が仲間と共に主宰する「未来の住職塾」は、現代社会におけるお寺の雲煙と住職の役割を学ぶ超宗派の人材養成プログラムだ。2012年度に第1期を開講してから、これまで総勢で350人を超える住職・副住職らお寺関係者が、全国各都市のクラスに宗派を超えて集い、卒業した。日本社会におけるお寺の存在意義とは何か。今、人々に本当に求められている僧侶のあり方とはどのようなものか。檀家や地域住民の生の声を取り入れながら、真剣な議論が活発になされている。
この世に変化しないものなど何もない。一切は移ろう。諸行無常を得仏教の僧侶が、ほうっておけば消えゆくお寺を次世代に残そうだなんて、懐古主義に過ぎるだろうか。そうかもしれない。しかし、一度失われれば二度と取り返すことはできないのも確かだ。人類の資産であるお寺を負の遺産としてではなく、良いかたちで次世代に渡してゆきたい。その思いに共感してくれる方が一人でも増えることを願っている。
|