無頼僧の断腸亭日乗
佐山 哲郎 さやま・てつろう  2016年2月23日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
ステテコの上人
師からもらった至福の時

 1902(明治35)年9月、正岡子規はその35年の短い生涯を閉じた。東京・上根岸82番地の子規庵から出発した長い葬列は金杉から日暮里へと向かった。その道は、知ってか知らずか、彰義隊の敗走路でもあった。もちろん知っていたに決まっている。誰かが言い出し、誰かがうなずく様子さえ私には見えてくる。
 先導は内藤鳴雪。続いて高浜虚子、河東碧梧桐かわひがしへきごとう、佐藤紅緑、寒川鼠骨そこつ等々。この3年後「本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」の打電で有名になる海軍参謀秋山真之さねゆきは、葬列には加わらず路傍に立ってこれを見送った。残暑の厳しい日であった。
 などと見てきたようなことを書いたが、私は1948(昭和23)年生まれ、すなわち今度の戦争の戦後生まれ。間に合うわけもない。確かな記憶が基になってはいるが、すべて幻想の景である。幻想の中で私はいつも七、八歳の子供であった。子供の私はその幻想の葬列に連なり、どういうわけか途中で一人右に折れて「御行おぎょうの松」を目指す。中根岸82番地の自坊、西念寺さいねんじに戻るのである。


 寺に生まれ育ったが、どうにも継ぐ気になれなかった。学校給食費も払うに滞るといった下町の貧乏寺生活にうんざり、ということもあったが、とにかく仏教というもの、抹香臭い、辛気しんき臭いの印象が拭えなかった。
 1967(昭和42)年、仏教系の大学に行くなどとは露ほども考えず、とある東京ローカルの公立大学を選んだが、その当時の学生といえば、よくいえば「疾風怒濤」。悪くいえばただの「無謀無法」といった体で、お調子者の私は否も応もなく街頭を走り回った。結果、暗いところにも入れられたりもしたが、大学に帰ってみると雰囲気がまるで変わっていた。目を血走らせて学生同士が衝突し、罵ののしり合っていた。かつての学友たちの目つきを見て、あ、これはもう駄目だな、と直感した。生来の江戸っ子、逃げ足だけは速い。すたこさ前線から離脱し、さっさと無頼派高等遊民気取りの評論家に成り下がった。
 同人を募って詩を書いたり、短歌を作ったり、夜の巷ちまたに出没するうちに、さまざまな分野の知己を得た。やがて雑誌や書籍の編集制作に携わり、執筆原稿などの収入を合わせて、生活ができるようになった頃、父僧の体の具合が悪いという連絡があった。寺に帰ってみると、気息奄々きそくえんえん、僧侶の資格だけは取っておいてくれ、とのことで、3年ほどかけて伝宗伝戒の行を受け、とりあえず一宗お教師いっちょあがりということになる。しかし戻ってみると父僧はまったくの壮健ぶりで、こいつは一杯食わされたな、の気分ではあった。
 というわけで、仏教における恩師というものはいないといっていいが、真夏の養成講座受講中に、たまたま講師として来ていらっしゃった藤井實應上人には感謝している。いまにも下山しそうな、というか、教本を蹴っ飛ばして脱出逃亡しそうな、そんな様子に見えたのだろう。毎晩のように別室に呼び出してくれて、法衣など着用線でよろしいステテコで、とか、まあ麦酒というわけにはいかないが麦茶で、などと笑いながら、いろいろな会話を楽しませてくれたのであった。
 当時、藤井上人は三河岡崎の大樹寺だいじゅじのご住職であったが、のちに東京・芝の大本山増上寺の御法主ほっすになられ、ついで浄土宗の最高位京都総本山知恩院門跡もんぜきにまで上られた方である。その上人がまたステテコ姿で、フランクそのもの。ずいぶんたくさん語り合ったし、そのおかげで短気を起こさず勤めあげたのだから、今思えば至福のときを過ごした、ということになろうか。 

しわくちゃの千円札
「ドヤ街」で酒と涙の通夜 

 父僧の健康問題という以前にも、仏教への契機となるべき事件はあった。三島由紀夫の葬儀の際、わが浄土宗の大先達、作家武田泰淳は、その弔辞の最後に「文武両道軒」と三島に軒号を贈り、自らは「諸行無常屋」と屋号を名乗ったのだった。弔辞の内容そのものは友愛の情も敬意も入り交じる切々たるものであったが、鼬いたちの最後っ屁のような文豪の機知に私は心から感服し、密かに喝采を送ったものであった。
 三島の自決はさまざまな波紋を各界に残したが、その一つ、詩人高橋睦郎の小説『善の遍歴』にも大きな衝撃を受けた。中央公論社の文芸誌『海』に連載されたこの一種ビルドゥングスロマン(教養小説)は主人公「ゼン」と「モンジュボサツ」の邂逅かいこうなどある種深遠にして荒唐無稽、抱腹絶倒の物語。このように変則的に仏教を書いた人を私は寡聞かぶんにして知らない。目から鱗うろことはこのことかと思った。
 この二つの事件は、仏教が抹香臭いとか辛気臭いとか思う気持ちを私からすっかり消し去ってくれた。したがって私の恩師はこのお二人ということになる。つまり寺を継いでもいいかな、と少しは思うようにもなったのである。


 爾来じらい40年以上、僧侶として暮らしてきたが、なかでも印象に残る幾つかの場面がある。私の住む東京都台東区には通称「ドヤ街」と呼ばれる場所があって簡易宿泊所が立ち並んでいる。その経営者の一人に知己があって相談された。長期滞在者の一人が死んだという。身寄りが不明で、自治体に預けることになるが、同質の者とか隣室の者たちがどうしてもお通夜がしたいと言ってきかないのだという。
 到着すると小さな部屋に遺体があり、通夜の回向をした。焼香は三人。読経後、それぞれが、しわくちゃの千円札を一枚ずつ差し出し、「これしかないので」と申し訳なさそうにしている。私が「そのお金で一升瓶でも買っておいでよ、一緒に呑みましょう」と言うと顔を輝かせて一人が飛び出した。茶わん酒に乾き物で酌み交わし、それぞれが語る故人の思い出を聞いた。帰り際に私が「とってもいいお通夜になったね」と言うと、酒に弱いのか、もともと泣き上戸なのか一人が大声でワアワア泣きだした。
 こういう話はたくさんあるが、このような話ばかりすると、各宗の諸大徳から、そんなことで寺院の経営が成り立つのか、とお叱りを受けるかもしれない。それも理解はできる。しかし、布施とは金品のみを指すものではない。様々な形の布施について書かれた経典もある。例えば、他者ににっこりと笑顔を見せる、これだけで布施になるとも書かれているのである。


 というわけで貧乏寺である。檀家も少ないし収入になる土地もない。檀信徒とはまるで家族親族のようで、困ったときは相身互の関係である。そんな私にも、近年、朗報があった。降ってわいた、という形容があるが、「スタジオジブリ」(アニメ映画製作会社)からの連絡は、30年以上前に書いた少女漫画の原作が映画になるというのである。2011年の「コクリコ坂から」。ジブリにしては地味な作品ともいえるが私の貧弱な原作によくぞ花実をつけてくれたものだと感心した。
 現在、私は囲碁と俳句といった趣味に明け暮れている。一切経費がかからない遊びであるところがいい。月に数回、寺を訪れる友人たちと遊ぶほか、日常的にはインターネットで遊ぶ。特に連句が面白い。京都、石垣島、ニューヨーク、ニースなど遠く離れた人々と一夜にして何句ものやりとりがある。巻いた歌仙は50を超すほどである。
 正岡子規の時代にネットがあったら、と想像してみる。おそらく膨大な発信を行うだろうな。病床にパソコンを置いてものすごい速さでキーボードを叩きまくるだろうな。地方在住の文人たちと日夜繋がっているだろうな、と。歌人長塚節たかしは子規の「歌よみに与ふる書」に感動して子規庵を訪れた。子規は線香をともし、燃え尽きるあいだに歌を詠めと命じた、という。ネットでの即興詠のようなものである。
 子規庵と中村不折書道博物館の間の路地を抜けると根岸小学校へ出る。わが母校の校舎壁には庚申こうしん塔が言問こととい、尾久橋、尾竹橋などの大きな通りのない時代を夢想してみる。馬車が通り俥くるま屋が通る。子規の妹が兄のための茶果や果実の買い物に出てくる。不思議なことだが、私には見える。

ねるけ むほう

さやま・てつろう 1948年東京都生まれ。東京都立大(現・首都大学東京)人文学部中退。エディターとして多くの雑誌、単行本、漫画原作の執筆・編集に携わる。1980年書き下ろしの『コクリコ坂から』が、2011年宮崎駿・企画脚本、宮崎吾朗・監督のジブリ映画に。現在東京・根岸、浄土宗西念寺住職。廃人。句誌「月天」同人代表。著書に『童謡・唱歌がなくなる日』(主婦の友新書)など。句集に『じたん』『娑婆娑婆(しゃばしゃば)』(西田書店)。