大学生の君へ
山田 史生 やまだ・ふみお  2016年2月9日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
言葉に貫かれた生
読書は人生と一体

 君が大学に入るために上京して、十ヶ月が立った。ずいぶん楽しくやっているようだね。わが家に君のいない寂しさにも、ようやく慣れてきた。
 上京する前の晩、君に話したっけ。覚えてる? 大学の教員は、教育者であると同時に研究者でもある。研究とは、与えられた問いを解くことではない。問いそのものを自分で見つけ、その簡単には答えられそうもない問いを考え続けることだ。そういう研究の楽しさや苦しさが、大学の授業にはきっと滲み出ているはずだ。それを堪能したまえ、と。
 ある学生に「もうちょっと本を読んだらどうだ」と教師づらをして忠告したことがある。すると「ぼくは他人から影響を受けたくないので、なるべく本は読まないようにしているのです」と堂々と反論され、すぐには言葉が返せなかった。「自分の為すべきことは自分の力で見つける」というのは立派だ(そんなことが可能ならばだが)。そういう自力路線は、負けず嫌いで住んでいるうちはいいけど、ヘンに自尊心が募ってくると厄介だ。自分が相手よりも優れていることを確認しないと気が済まなくなり、やがて他人に対して自分の優位をひけらかすようになりかねない。


 2014年の秋、全国の国公私立大学の学部学生を対象におこなわれた「学生生活実態調査」によれば、学生の1日の平均読書時間は約30分だそうだ。驚くのはまだ早い。読書時間が「ゼロ」というツワモノが、実に4割強だというじゃないか。学生はつくづく本を読まないようだね。それにひきかえ1日のスマートフォン使用時間は、3時間にもなるらしい。
 かつて大学は国家有為の人材を育成する場だった。今の大学は大衆社会への通過点でしかない。だから「昔の学生に比べて今の学生はダメになった」などと言うつもりはない。社会が変わったんだから仕方ない。世の中における書物の位置づけも、テレビやネットのはるか下位にある。学生ばかりを責めるのは酷だろう。
 社会が変わったんだから、学生だって変わろうよ。人間の「生」は、根深いところまで「言葉」によって貫かれている。だから本を読むということは、自らの生と切り離された営みにはなりえない。本を読むことは、言葉に貫かれた自らの生を、根っこから変えることだ。ちょっと背伸びをして難しい本に食らいついてごらん。ものの見方が変わってくる。柔軟に変われるというのが若者の特権なんだから。
 孔子も言うように、「知っていること」と「知らないこと」を区別できること、それを知っているということだ(『論語』為政第二)。知らないことについて、知っているふりをしちゃいけない。「知らない」ということを自覚するからこそ、今度は「知りたい」と欲するようになる。人生のいかなる時期にあっても、知っていることよりも知らないことの方が多い。だから知ることに「もう遅い」ということはないんだよ。
 本を読む能力のかなりの部分は、分からないことを「分からない」まま抱え込みながら読み進めてゆく能力なんだ。それは「分からない出来事を分からないまま抱え込みながら生きてゆくのが人生だ」という事実と、どこかしら似通っている。分からないことに拘泥していると歩けない。かといって無頓着でありすぎても転んでしまう。そのあたりのサジ加減を机上で実感できるというのが、本を読むことの効用の一つだ。


 古人は「年年歳歳、花相似たり。歳歳年年、人同じからず」と歌った(劉廷芝)。甘ったるい無常観と笑うなかれ。花は、咲いては散り、散っては咲く。それにひきかえ人間の老い先は短い。「芸術は長い」んだから、お手軽に分かろうとしちゃいけない。憾うらむらくは「人生は短い」けど、焦ることはない。「分からない」という嘆きを持つことは、知を愛する人間の光栄なのだから。

現実を超える為の読書
見えぬもの信じて 

 本を読むことは、旅をすることに似ている。旅先で息を呑むような風景に出合ったとき、旅人は「この景色の意味はなんだろう?」なんて問うたりしない。本を読むのもいっしょじゃないかな。言葉が紡ぐものは、目もくらむような大海原だったり、足がすくむような大都市だったりする。それに出合って息をのめばいいのさ。
 言葉では表せないものもあるって? うん。それも事実だ。しかし言葉で表される世界は、言葉では表せないくらい広く、深い。言葉でしか味わえない美味があり、言葉でしか知られない知識があり、言葉でしか蘇よみがえらない記憶がある。
 偉大なものに子どものように心を震わせ、面白いものに子どものように目を輝かせること、それをできるのが「教養」だ。ただし子どもに教養をもとめるのは無理だ。バッハの音楽に心を震わせるためには、カントの哲学に目を輝かせるためには、ディテールを見つめる目やニュアンスを味わう舌を、ゆっくり時間をかけて鍛えなきゃならない。それには本を読むのがうってつけだ。


 分かりにくい本を読むとき、私は赤鉛筆で線を引きながら読む。本に線を引くのには勇気が要る。そこに線を引くということは、「そこに線を引くような自分である」ということだからね。「ここぞ」という急所に線を引いたつもりで、後で読み返してみると、さっぱり要領を得ないことがある。それは自分の頭でちゃんと読めていない証拠だ。
 分かりにくいからといって読むのをやめてしまうのは、もったいない。はじめに出てきた「分かりにくい」伏線的な場面が、あとになって「分かってくる」ってことは、しょっちゅうだから。ただし「お呼びでない」と感じたら、栞しおりを挟み、机の上に放っておこう。その本は「もう」あるいは「まだ」君に合わないのだ。本を読むのにはタイミングがあるんだよ。手も足もでない本を無理して読むことはない。君が再び手にとるまで、本はいつまでも待っていてくれる。何年かたって、ふと手にとってみると、スラスラと頭に入ってきたりする。
 大学の授業で教えられるのは、「分からない」本を「分かる」ようにする読み方じゃない。簡単に読めそうな本のなかに、いかに多くの問題点が潜んでいるかに気づかせ、読めると思っていた本が読めなくなってしまう、そういう読み方を教えているんだ。
 人間の本性は「欠けている」ということにある。だから人間は、欠けているものを絶えず充たそうとする。存在が満たされるとき、人は楽しみを覚える。本を読んで「分からない」ことを味わうというのは、存在を充すための、たぶん最も有力な手段だ。
 本を読むと存在が充たされるのは、外から知識をインプットされるからじゃない。本の言葉に触発され、自分でも思いがけないような仕方で、自分のなかから新たな言葉が生まれてくるからだ。優れた本は、深く読めば読むほど、新たな問いが生まれてくるように書かれている。深く読むに値する本を読んで、すぐに「分かった」というようなら、その発言自体がその本に対する読みの浅さを示している。
 生きるとは、現実を踏まえながら、現実を越えてゆくことだ。現実を超えるとは、目に見えないものを信じることだ。目に見えないものを恐れていると、その未来は安全かもしれないが、貧乏くさくなる。ところが現実を越えてゆく力を、悲しいかな、現実は与えてくれないんだよ。本を読むことによって、目に見えないものを信じることを練習してほしい。


 本を読むというのは、目的を定めて「買い物」をすることじゃない。心地よい風に顔をなぶられながら、ぶらぶら散歩することだ。とはいえ散歩にも、全く目的がないわけじゃない(それだと徘徊になっちゃう)。散歩とは歩くこと自体を楽しむことだ。歩くことを楽しむには、歩きながら見えたり、聞こえたりすることを楽しまなきゃなんない。だから散歩するときは、いつも偶然の出合に心を開いていよう。
 君は本を読むことが好きだよね。そういう君を、父親として頼もしく思う。われわれの将来は、問題をサクサクと解くことができる即戦力のエリートよりも、目に見えないものをグズグズと考え続ける愚直な落ちこぼれのほうに、よほど多くのものを期待しなきゃならないのだからね。娘よ、君にはそういう若者であってほしい。

ねるけ むほう

やまだ・ふみお 1959年、福井県生まれ。東北大文学部卒。同大大学院修了。博士(文学)。現在、弘前大教育学部教授。著書に『日曜日に読む「荘子」』(ちくま新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『全訳 論語』(東京堂出版)など。大学1年生の娘がいる。