山を掃く
和田 重良 わだ・しげよし  2016年1月26日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
人生に「宿題」あり
平和な心で生きたい

 そもそも31年前、ここ神奈川・丹沢の標高450メートルの山に移り住んだのには訳があります。どうしても自分の甘えが収まらなかったからです。「誰かがぼくに何かを教えてくれるだろう」ということに甘えていました。
 「ノドの渇きに耐えながら山の尾根道を何人かが歩いていると、はるか下の方から沢の水音が聞こえてきます。誰か一人が沢の水をくみに行って他の人は尾根道で待つ。ノドの渇きを癒すのは、くみに行った人も尾根道で待つ人も同じだろうか?」
 この話を聞いた時、それなら自分で沢に下って水をくんで飲んでみようと思ったのです。それが、沢に下るどころか、この山に家族を連れて登ってきてしまいました。日常生活がにっちもさっちも行かなくなった揚げ句なのです。
 本業は不登校や非行の子たちとの「今日どうせ一括」です。目的は「人生の宿題」を解くということです。自分の生来の頭の悪さもあって、そう簡単に偉そうなことは言えないのです。この子たちと「自分が自分である意味を解くまでは」と考え一切の教育的カリキュラムのようなものを排して、ひたすら「共同生活」の中で「同行」(共に歩み精進する)を実践したいと考えたのです。


 「共同生活」というのは学校のような「集団生活」ではありません。一人一人が自立した個を確立する上に成り立つものです。ですから規則で縛ることはありません。それにはリーダーである自分がよほどしっかりと「よい生活」をする必要があるのです。「よい生活」とは何かを求め続けるより他に道はありません。
 そのうち「自分」に向き合い、「自分」に出会うことがこの生活であると確信しました。実はその確信は生来の頭の悪さに後々ものすごく感謝することになりました。何より「自分に出会う三点セット」に気がついたからです。「朝の三点セット」は「起きる」「掃除する」「坐すわる」です。どれも子どもたちには意識してやったことのない不得手なことです。大人であるぼくにとっても「ねむいから今日はいいや」「寒いからイヤだ」「こんなガマン大会みたいなことをして何になる」なんていう言い訳が次々と頭の中に浮かんでくるのです。
 それでも毎朝、エーイッと「思いを切って」布団から出て、拭いたそばから凍りついてしまう渡り廊下を雑巾がけし、窓から冷気が首筋に入ってくる「全真堂」で坐るのです。
 ある時、一人の高校生が言いに来ました。「先生、あそこは毎日掃除しなくてもいいんじゃありませんか。誰も見ていないし」と。あそことは、山の敷地内にある大ケヤキの下のことです。「掃いても掃いても上から葉っぱが落ちてきます。それにあの道はめったに人は通りませんよ。なんのために掃除するのか考えたら、ムダだと思うんですが…」「ウ〜ム」。ぼくの答えはそれでも「山を掃く」なのですが、それがナゼなのかすぐには答えられませんでした。
 五、六年経った頃、ふと一つの答えが浮かびました。「人生の宿題」が一つ溶けたように思いました。誰も認めてくれない、誰もホメてくれない、誰も点数をつけてくれない、ひたすら「山を掃く」ことこそ、「自分に向き合い」「自分を知る」ということだと確信できたのです。規則やルールや時間割はない「共同生活」の本筋こそ「平和」の真髄であると同時に、「差別を生み出す教育」が見落としているところでもあるのです。


 今、ぼくは、ぼく自身の究極の「宿題」に取り組んでします。それは「平和仙人」になることです。このデキの悪いぼくが仙人になるのにはボロをまとい、ヒゲでも伸ばせばいいのでしょうか?いえいえそうではありません。ぼく自身がとことん平和な心で生きることです。
 そんなムチャな願望はとうてい実現しません。でも目指さなければ道はついてきません。1メートルも平らな道のないこの山の中の道は、気がつけば「仏道ほとけみち」なのです。いつか、ぼくは人から「平和仙人」と呼ばれたい。

「小満足」と「大満足」
自然の中で気づく「自分」 

 今朝も若者二人が神奈川・丹沢の山中から獲物を引きずって出てきました。山の中の自然と共に暮らすのは大変なことです。反面とても心安らぐ場でもあります。大変さと心の安らぎが相まって「心地よさ」を生み出すのです。
 実はこの二人の若者は、つい最近まで家から一歩も出られずにいた人と学校へ行けなくなっていた人です。日本中にこの手のむなしい日々を送っている若者がゴマンといるらしいのです。中にはパソコンの前に座りっぱなしで心と体を壊している人さえいます。
 ここの生活の基本は「山を掃く」ことです。成績が上がるわけでもない、お金がもうかるわけでもない、褒められることもなく、なんの資格も得られないので、「何の役に立つのか?」という疑問が起きてきて当然です。しかし「勉強したら成績が上がる」「いいことをしたらほめられる」、果ては「働けばお金がかせげる」ことが、人生の仕組みだとしたら人生は何の「味わい」もないことになります。
 ぼくは、自然の中で味わい深い「自分」を取り戻してくれたらうれしいのです。というのも、他でもないぼく自身が「山を掃く」のは人生の味わいだと思い、お経は「自分」に言い聞かせているのだと思うようになったからです。


 大抵は、「こんな生活して何になるのか?」と疑いを持つでしょうから、この山まで来てみる人はほとんどいませんが、たまに人生に行き詰まってやって来る人がいるのです。何人かは「これをやって何になるのでしょうか?」と問いかけてきます。疑うこと問うことはとても大切ではありますが、何事もやってみないことには「味わう」ことはできないのです。
 春にタネをまき秋にはそれを収穫する、夏に薪を割って冬にはそれをストーブで焚く、そんな単純な暮らしのくり返しです。朝が来たら起き、掃除をしたりニワトリの世話をしたり、天気のよい日は田畑に出て、雨の日には家の中のことをする。極めて単純です。人間はとても不思議な動物です。そういう暮らしの中でもいろいろなことを考えます。自然の変化をよく見て暮らすようになります。暑いときは暑いように、寒いときには寒いように、ときには大雪で一歩も進めなくなってハタと考えます。せっかく作った作物が嵐で全滅してガッカリしたり、思い通りにはいかないことばかりです。
 重い薪を背負って山道を歩いたり、炎天下の田んぼで草取りしたりするうちにたいていの人は「オレは今、何でこんなことをしているのだろう」とまた疑問が起きてくるのです。家にいればゲームでもしていればいいのですから。ぼくは若者のこの疑問に出会うと「しめた」と思うのです。「自分」に出会う第一歩だと思うからです。ごまかしのきかない「自分」がここにはいます。誰かに上手に教えてもらえる人生も大切なことはたくさんあります。しかし、ごまかしのきかない「自分」に出会うことは何よりも大切な出発点となるのです。
 人類の築いてきた文明は次第に人の心をダメにしてきています。刺激を求め、それに反応するだけの満足を「小満足」と言います。この満足は持続せず、すぐにまた次々と欲しくなります。文明はウッカリすると「小満足」の落とし穴に人を陥れてしまいイライラさせます。人間の心に必要なものは「大満足」です。満足が持続し心地よいものが「大満足」です。自然は人の心に「大満足」を提供してくれます。
 そこで、ぼくは若い人たちに「人間の正常な心を取り戻してほしい」と願っているのです。これは、究極の「平和創造活動」であると思っています。世界中の人が武力で自分の願いをかなえようとイライラしていたり全体主義に陥ったりするのは、「自分とは何か」という根本的な問いかけがないからです。人類はずっとその間違いを修正できないままきてしまいました。


 文明は能率、効率を重んじてきました。「速さ、便利さ、快適さ」が得られることを安全だとか安心だとかとしてきたのです。それは不安や焦りのもとになっていることさえあると知ったときに、「速さ、便利さ、快適さ」のうちのどれかを少しだけ削ってみます。または、その三要素をちょっとだけ抑えてみます。たったこれだけで、正常な心を取り戻すことができるのです。
 自然の厳しさや優しさは、ごまかしのきかない「自分」に気づかせてくれるのです。何の不安もありません。

ねるけ むほう

わだ・しげよし 1948年、神奈川県生まれ。東京教育大(現筑波大)卒。NPO法人・くだかけ会会長。くだかけ生活舎(神奈川県山北町)で85年から不登校の青少年らと共同生活。「月刊くだかけ」を刊行。正力松太郎賞(98年)、神奈川県民功労賞(2009年)を受賞。著書に『悩める14歳』『両手で生きる』『くだかけ生活つづり 人生の宿題』(いずれも、くだかけ社)など多数。