煩悩と除夜の鐘
三明 智彰 みはる・としあき 2016年12月13日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
「百八回」について考える
心乱す種々の汚れ
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師走、事件や災害が続発した今年も間もなく終わろうとしている。年末まであわただしく走り回り、大掃除をして、大みそかを迎えるのである。
大みそかの夜には、日本独特の情景がある。全国各地の寺々で、梵鐘ぼんしょう(釣り鐘)が撞つかれる。除夜の鐘だ。鐘は、百八回撞かれるのが一般的である。そもそも、なぜ鐘を撞くのか、しかも百八回とはどのような意味があるのだろうか。
除夜の鐘を撞くのは、煩悩を除去し、清らかな心になって新しい年を迎えるためであるという説明が多い。煩悩とは、欲であり怒りであり恨みである。戦争までも引き起こす心の働きだ。仏教一般には、心身を乱し悩まし、さとりの智慧を得ることを妨げる心の汚れ、働きをいう。その煩悩の数が百八だからその数だけ鐘を撞くのであるといわれる。
百八の煩悩をどのように数えるのかということについては、いくつかの説明がある。
例えば、一年中、四苦八苦の苦しみばかりだったから、四苦(四かける九)三十六に、八苦(八かける九)七十二を足して百八であるという説がある。これは駄洒落だじゃれ的な感じがする。
今日では、四苦八苦とは大変な苦しみの意味で用いられるが、元は仏教の用語であった。四苦とは、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことという四つの苦しみであり、これを生老病死の四苦という。その四苦に、愛別離苦あいべつりく(愛するものと別れる苦しみ)、怨憎会苦おんぞうえく(恨み憎しむものに会わなければならない苦しみ)、求不得苦ぐふとくく(求めても得られない苦しみ)、五蘊盛苦ごうんじょうく(体と心の五つの要素を持って生きる苦しみ)という四苦を加えて八苦というのである。それなのに、苦を九として、掛け算と足し算で合計百八であるとは、語呂合わせ的な説明で、あまりあてにならないのではないかと思う。
また、人間の感覚器官について眼げん・耳に・鼻・舌・身・意の六根を数え上げ、六根に好(良い)と悪と平(どちらでもない)という三つの場合を数え上げて十八とし、また、六根の対象である色(眼の対象)・声(耳の対象)・味(舌の対象)・触(身の対象)・法(意の対象)の六根にも、苦と楽と捨(どちらでもない)の三つの場合を数え上げて十八として、両者を足し算して三十六。それが過去・現在・未来の三丗にわたるものであるから三十六かける三で百八となるという説明がある。数の上ではわかりやすい説明であるが、これでは、むさぼりや恨み、怒り、嫉妬という、個別の煩悩が明らかでない難がある。
そこで、百八を順に数え上げる説明がある。まずは、三毒である。これは貪欲(むさぼり)と瞋恚しんい(いかり)と愚痴(真の道理がわからないこと)の三つである。これは、毒と言われるように劇薬だ。自分だけでなく他人にも害を及ぼす。唐代の玄奘三蔵のインド求法の旅は、物語『西遊記』になった。それに登場する猿の孫悟空は怒り、豚の猪八戒は貪欲、河童の沙悟浄は愚痴の象徴である。これに、慢(おごりたかぶり)と疑(判断猶予)と悪見(間違った見解)を加えて六大煩悩と言い、これに随伴しておこる煩悩を随煩悩という。興福寺などの唯識法相宗では、忿(いかり)・恨(うらみ)・覆(心が覆われること)など二十の煩悩を挙げる。『倶舎論』では、さらに細かく煩悩を数え上げて軽百八とするのであるが、子細に見ようとすると若干の重複があるようである。
さらには、百八とは限定された数ではなくたくさんのという意味であるという説もある。これによれば、主な煩悩以外は一つ一つ子細に数え上げることは必要なくなってしまう。実際、煩悩の種類をどれほど覚えられたとしても煩悩は無くならない。これこそは学問の陥穽かんせいである。
親鸞は、煩悩について「煩は身をわずわらす。悩は心をなやます」と言い切っている。現に感ずる働きにおいて煩悩を実際的に表しているのである。この態度が重要であろう。
とすれば、鐘を撞いただけでは煩悩は消去するものであろうかという疑問も生ずるに違いない。
親鸞が説く「凡夫の救済」
真の道理に思い致す
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除夜の鐘はなぜ撞かれるのか。
この1年間になした罪を懺悔ざんげ(悔い改め)して、煩悩を消去するためと説明されている。
しかし、年越しの晩酌をして、一杯機嫌で寺に行って鐘を撞いた後、盛り場へ赴けば、消されたはずの煩悩はまた盛んに湧き出るのではないか。
後悔しても、反省を繰り返しても、同じ過ちを繰り返す我われである。なんと愚かなことだろう。大切なのは、賢いふり、善いふりをしないということではないだろうか。
煩悩を消し去ることはできない。しかし、救いはあると親鸞は言う。
『歎異抄』には、親鸞とその教え子唯円との注目すべき対話がある。「念仏しても天に踊り地に踊るような喜びの心がまばらです。また、早く浄土に参りたい心がございません。一体どうしたらいいでしょうか」と、唯円は親鸞に尋ねた。二人の年の差はおよそ五十歳。若手の唯円の質問に、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房は同じ心にてありけり」と答えて、さらに「よくよく案じみれば、念仏しても喜べず浄土に行きたい心がないからこそ、浄土に生まれることは決定的であると思うべきである」と言う。何故か。「喜ぶべき心をおさえて喜ばないのは煩悩の仕業である。しかも、阿弥陀仏は前もってご存じで、われらを煩悩具足の凡夫よと仰せられたのであるから、阿弥陀仏の本願は、このようなわれらのためだったのだと知られて、ますますたのもしく感じられるのだ」と(『歎異抄』)。
親鸞は、煩悩具足の凡夫であるわれらのためにこそ本願ましますというのだ。
「煩悩具足」とは、煩悩が欠けることなくすべて完璧に具わっているということである。また、「凡夫」とは、親鸞によれば、「凡夫というのは、無明煩悩がわれらの身に満ち満ちて、欲も多く、怒り腹立ち、そねみねたむ心多く、間断なくして、臨終の最後の最後の瞬間まで、止まらず消えず絶えず」と言われている。このような「あさましきわれらが、阿弥陀仏の願いにしたがって少しずつ歩みゆけば、阿弥陀仏の光におさめ取られて必ず浄土に至り、大涅槃の覚さとりを開くのである」というのである。
親鸞は、源信僧都の『住生要集』の教えを受けて、
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
と歌っている。煩悩に眼をさまたげられて、阿弥陀仏の摂おさめ取って捨てない光を見なくても、阿弥陀仏の慈悲は飽くことなく常にわが身を照らしているのだと。
これは、煩悩があっても、というよりも、梵網だらけの身だからこそ摂取不捨のはたらきを受けているということだ。煩悩を断じてから救いを得るのではない。見ることができなくても、阿弥陀仏の大悲はつねに照らしたもう。故に煩悩を断ぜずして涅槃を得るのであると言うのである。
さらに親鸞は、「煩悩具足の凡夫が生み出す火宅無常のこの世界は、皆すべてそらごととたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことなり」と言う(『歎異抄』後序)。自分には真がなくても、仏の真実に従って生きていくのだ。
「善人でさえ往生をとげる。まして悪人はなおさらである」(『歎異抄』第三条)とは、よく知られている言葉である。ここに言われる悪人とは、ただ単に、悪いことをしたやつというのではない。「煩悩具足のわれら」である。親鸞は言う。「煩悩具足のわれらはどんな修行によっても、迷いを離れることができないのを阿弥陀仏はあわれんで、大慈悲の心から本願を立てて下さった。それは悪人が仏になるためであるから、その本願に信託することこそが最も往生の正き因である」と。
煩悩を無くそうとして、どれほど鐘を撞いても、煩悩は決してなくなりはしない。それは皆知っていることだ。「共に是れ凡夫ならくのみ」(『十七条憲法』第十条)という聖徳太子の言葉が思い出される。
共に凡夫であること、なくならない煩悩をかかえて生きているという事実に改めて気づき、善を偽らず、謙虚に、教えの道理に頭がさがるというだけでも、ただそれだけでも、除夜の鐘は意味があるのかもしれない。
鐘の音を聞いて、真の道理に思いを致すとは、『平家物語』以来のゆかしい信条である。
遠くから聞こえる除夜の鐘の声を、心静かに聞こうではないか。
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