死線を彷徨う
高橋 卓志 たかはし・たくし 2016年11月29日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
スイスの自殺ほう助、オランダの安楽死
緩和ケアの延長上で
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小さい頃のことだ。近所の五十代の男性が、がん末期を迎えていた。緩和ケアなどなかった時代、しかも在宅での闘病だった。その家の前を通ると断末魔の叫び声が聞こえた。「痛い〜!」、「殺してくれぇ〜!」と。
絶叫が止んだとき、死が訪れたことが誰にもわかった。痛みからの解放は死しかない、ということを私はそのとき初めて知った。
2014年3月、スイス・チューリヒの閑静な住宅街にある「EXIT(エグジット=出口・脱出口という意味)」を訪ねた。ここはがん末期などの人々が耐え難い痛みや苦しみから脱出するための「自殺」を致死薬物と死ぬ場所の提供などによって「ほう助」する非営利組織である。
私はいままで多くの死に出あってきた。だがそれらはあくまでも他人事でしかなかった。しかし、私自身に死の足音が迫るのを感じ始めたいま、幼い頃に聞いた断末魔の叫び声が自分自身の叫び声と同化してきた。その声が私を英国の緩和ケア、スイスの自殺ほう助、オランダの安楽死の現状を視みる旅に向かわせた。
エグジットでは医師とのインフォームドコンセントを経たうえで、自らの最期における意思を事前指示書に記した人々が会員となる。会員のほとんどは、耐え難い苦痛を伴う末期を迎えた場合、あるいは尊厳を失うような事態に陥ったとき、自らのいのちを絶つための手助けをして欲しいと願う人々である。エグジットのCEO(最高経営責任者)・ハンスは「年間およそ800人が自差てょうじょをエグジットに依頼し、そのうちの約半数が自殺を遂げている」という。安楽死が容認されていない日本からして見れば驚くべきことだ。しかし、チューリヒ州の自殺ほう助に関する住民投票では70%以上の人々が賛成票を投じている。死は生き方の一部であり自己決定すべき権利であるという意識のもとに、自殺ほう助は合法化されているのだ。
ハンスは「自殺ほう助は耐え難い苦痛を緩和する方法のひとつ、つまり『緩和ケア』の延長上にある行為として位置付けられている」と。そして「会員になることを、末期の苦しみから逃れるための『保険』と考えている人は多い」と語った。
ロブは言葉に詰まった。泣いていた。17年前に安楽死を選択した日本人妻・靖子さんの最期を語りはじめたときのことだ。オランダ、アムステルフェーンにある自宅の居間からは日本庭園が見えた。ここは靖子さんが旅立った部屋だった。
甲状腺濾胞ろほうがんの末期症状による痛みの責め苦は全身におよび、症状改善のための手術が何度も行われた。靖子さんにとってはすさまじい生への闘いだった。しかし、症状に改善は見られなかった。
死の二日前、より激しい痛みの中で靖子さんは「恐れることなく、深く心落ち着いた状態で、感謝しつつ、幸福の中で逝かせてください。躊躇することなく、笑顔で送ってください」とロブに伝えている。夫婦のあいだに「安楽死」選択による確実な死が見えた瞬間だ。
旅立つ夜、二人の子供や駆けつけた友人との別れのパーティーを終え、ロブは靖子さんと居間に二人だけになった。事前に記していた「安楽死の要請書」に基づき、意思によって致死薬がうたれた。靖子さんを見送ったロブは隣のキッチンにいた子どもたちにそのことを伝えた。子どもたちが居間に飛び込んだ。「ママー、起きてー!」。絶叫が聞こえた。
絶対的な信頼と深い愛、そして尊厳を守りきろうとする二人が決めたいのちの決着点がそこにはあった。涙を手で拭いながら、ロブは靖子さんの日記を見せてくれた。最後のページには「あと十分で逝きます。本当にありがとう」という走り書きがあった。
すでに数千人がいのちを絶ったエグジットの「死の部屋」のベッドを見ながら、ロブの涙に安楽死の光景をリアルに感じながら、ずっと耳奥に響いていた「殺してくれぇ〜!」という断末魔の叫び声が遠のいていくのを感じた。
「四苦」に覆われた人々
寺こそ「抜苦ばつく」の中心に
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いままで数多くの死を視てきた。
南太平洋で戦死した人々の遺骨を拾い、チェルノブイリ事故の晩発障害に苦しむ子どもたちのベッドサイドで涙を流し、エイズの末期患者を収容するタイの寺で、なすすべなく立ちすくんだ。南相馬の海岸では、がれきに埋もれた被災者の遺体を洗い、女川では、津波に抗しきれず、幼い子どもの手を離してしまった母親の限りない悔恨と絶望に付き添った。
それらはすべて生々しい生と死の現場だった。そこでは、苦しみや悲しみのきわみに在る人々のまなざしに射ぬかれ、問い詰められるような思いを味わった。そこは私の限界が視える場所であるとともに、坊さんとして絶対に逃げてはならない場所だと思った。だから自らを追い込み、現場に立った。
仏教は「四門出遊しもんしゅつゆう」という逸話から、生・老・病・死にからみつく「苦=四苦」に対する釈尊の「目覚め」を語り、そこが教えの起点となっている。その起点から、膨大な教義に基づく修行、生きる意味を施行し追求する哲学、そして「四苦」を解消・緩和(=抜苦)する実践が一体となり仏教は機能してきた。それに対して人々は信頼を寄せた。しかし近年の伝統仏教はほぼ、その機能と連携を失っている。
日々の生活の中で明日への希望を持てず、生きる意味を失う「生苦」。強い喪失感や不自由に苛さいなまれ、心身の痛みに耐えねばならない「労苦」や「病苦」。それらの先にある死をつねに意識しながら生きねばならない「死苦」。四苦に覆われた人々はいかにも多い。しかし、そのような具体的な苦に直接かカクァリ、「抜苦」への筋道をつけることにも仏教界の意識は向いていない。
「苦」は生・老・病・死という生命のプロセスに通底し、その中で複合化し増幅する。だから「抜苦」には包括的かつ多様な専門性が必要となる。
かつての寺は地域の中心としてあった。課題を見極め、それを解決する能力と行動力を持っていた。その行動の核となるものは、人々が最も「辛い」「苦しい」と感じている部分に積極的に入り込む意識と、課題解決のための知的および実践的行動だった。そこには「苦」を引き受ける坊さんたちの覚悟があった。いま、その覚悟は見えない。坊さんの仕事とは何か?と問えば「葬儀・法事」との答えが返ってくる。しかし、最近の葬儀のほとんどは葬儀社が主導するから、坊さんの出番は多くない。
故人が老・病の段階で死にむけていかに壮絶な戦いをしたか、遺族がどれだけの悔や苦痛や悲観を持って看取りに臨んだかなど知らなくても葬儀はできる。死化粧され、一言も発しない「遺体」に向かって州は伝来の葬法を繰り返すだけでコトは済むのである。
一見、「死の専門家」と思われている私たち坊さんは、じつは近年、死の本質から遠く切り離され、死の周辺に発生する膨大な問題に触れる構造の中に置かれてはいない。明らかに有用感は減衰しているのである。
厚生労働省は2012年を「地域包括ケア元年」と位置付けている。地域包括ケアとは「住み慣れた自宅や地域で、最期まで過ごせるように、医療・介護・予防・生活支援・看取りまで一体的に提供するシステム」のことを言う。これは「四苦」をワンストップ(一括)で「抜苦」する行政的なシステムであるのだが、私の寺では既に20年ほど前から「四苦抜苦」型包括ケアとしてこのシステムを動かしてきた。
たとえば、行き詰まった人々への居場所の提供。寺のネットワークを使った地域活性。平和や脱原発への情報提供や意識喚起。小規模・多機能・地域密着型寺院の再興。介護保険や成年後見など異分野との積極的協働。在宅死の可能性を探りながらの看取り。その人らしい別れのための葬儀改革。死別ケアと立ち直りの支援などなど。
厚労省が目指す地域包括ケアの範囲は住民1万人程度の中学校区としている。全国に中学校区は1万余。寺の数は7万を越えるから対象範囲に約7つの寺があることになる。寺が四苦抜苦に動けば、地域に7箇所の包括ケアセンターが生まれる。これは地域にとっても寺にとっても未来への希望の光となる。一方、現代社会を覆う四苦の現場に入り込む意欲、そして四苦を引き受け抜苦しようという覚悟がなければ、伝統仏教の有用感の消滅はそれほど遠い先のことではなくなる。
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