生身の身体こそ物差し
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2016年11月16日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
正しい大きさの感覚

 「みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」という、詩人・長田弘の『アウシュビッツへの旅』(1973年)にあった言葉をふと思い出した。アメリカ合衆国の次期大統領選挙の結果を知らされて、である。
 「隠れトランプ」という言葉が、投票日近くになってどこからともなく喧伝けんでんされるようになった。報道メディアの世論調査や予測はほんとうに選挙民の動向を映しているのか、メディア自身が不安に思いはじめたのだろう。海のこちらからはうかがい知れないが、米国に住む人だって実のところ、sんこうする事態を掴めなかったらしい。知るべきことと知らされていたこととのこの大きな乖離かいりに、多くの人が耳を疑った。
 報道記者、政治評論家からその読者まで、「言葉の人」たちが見紛みまがっていたことに呆然とした。<語り>とは<騙り>でもあるという事実をあからさまに突きつけられて。


 見えていることと掴めていることとは違う。事態を掴むには言葉以上のものが要る。それこそ詩的想像力だと長田は言うのだが、それは何であり、またどこで養われるのか。
 一見遠いようだが、答えは、長田が最後にみずから編んだ随想集『幼年の色、人生の色』に収められた「チェロ・ソナタ、ニ短調」という文章にうかがうことができる。
 長田はそこで書いている。
 《ひとのもつ微妙な平衡感覚をつくっているのは、そのものがそのものとして正しい大きさをもっていると信じる、あるいは信じられるということだ。正しい大きさの感覚が、認識を正しくするのだ。》
 「正しい大きさの感覚」とは、身体のヴォリュームにもとづくそれだ。人間はみずからの大きさを物差しとしてしか世界を測れないのだから。
 じっさい、わたしたちは、みずからの身体を基にして世界を測定してきた。左右に大きく拡げた腕の幅、指先から肘までの長さ、拡げた手のひらの親指と小指の隔たり。これらを単位に、ものの長さを測ってきた。あるいは、歩数で距離を測ってきた。そしてそれらの物差しを道の対象にも適用することで、世界の認識を想像的に拡張してきた。
 その過程を、文化人類学者の川田順造はこう描く。《収穫して脱穀した米が山になって目の前にあるとき、「米がたくさんある」という漠とした認知が、ますで「量る」ことを「謀る」ことで、家族が何か月食べられるとか、売ればいくらになるなど、「はかる」以前には不明だった、米の山のもつ意味が認知され、米の山が新しい意味を帯びた対象として理解されるのだ》(『コトバ・言葉・ことば』)と。


 リアリティの岩盤は個々の身体に据えられる。このリアリティは、メディアを介してではなく、事故の身体と他者のそれとが生身でまみえ、交感するなかで、時間をかけて形成されるものだ。
 が、そのリアリティの尺度を、テレビやスマートフォンの映像は無効にしてしまう。ボタン一つでどうにでも拡大/縮小できるのだから。そのことで「想像されたものの正しい大きさの感覚」までもが傷つけられてしまうと、長田は憂えたのだった。
 複数の身体が、ぶつかり、きしみあい、相互に調整しあうなかで、リアリティは立ち上がる。それを岩盤に社会のリアリティも生成する。コンピュータのデータもここから切り離されれば架空のものとなる。そういう生身の身体による探りをなおざりにした結果が、このたび「言葉の人」たちを襲った衝撃だったとは言えまいか。一度こういう場所にまで立ち返って考える必要があるのでは。