水上勉の仏教回帰と作風の変化
張 競  ちょう・きょう  2016年10月18日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
苛烈な人生
少年期、宗教に失望

 水上勉が仏教関連の作品を多く書いたことはよく知られている。それは本人の人生経験とも深いかかわりを持っており、作家としてたどりついた必然の結果ともいえる。本人の言葉によると、9歳で京都の相国寺塔頭たっちゅう(本寺の境内にある小寺院)の瑞春院ずいしゅんいんに入り、11歳で得度したという。この年齢の出家は本人の意思や深い信仰心というより、経済的な原因による父母の決断か、宗教に対しまだ深い理解のない年少者の早とちりによるもののどちらかであろう。じっさい、水上少年も事実上、「口べらし」のために寺に送り込まれていた。
 もともと僧院内部は外部の者が想像するような、一点の曇りもない、聖なる精神空間ではない。本人がのちに言ったように、当時の禅寺はむしろ世俗のよごれにまみれていた。水上勉が19歳で意を決して寺を飛び出したのは、世俗生活に対する未練のさることながら、宗教の権力による腐敗に対する失望もあった。ただ、一方では、少年期に仏門に入ったのだから、仏教はいや応なしにその精神形成に濃密な陰影を落としたのも否めない。還俗げんぞくしてから、長いあいだ仏教にそっぽを向いていたが、精神の水位に変化が見え始めたのは、50歳を過ぎた頃だ。むろん、それまでにも宗教を題材とする小説を書いたり、古寺巡礼についての随筆を発表したりしたことはある。しかし、前者は世俗化した寺院内部の腐敗を描いたもので、後者は旅の経験を物語化する試みであった。そもそも、水上勉は初期の『霧と影』で注目を集め、社会は推理作家と目されていた。『雁がんの寺』以降、若干作風の変化が見られたが、私小説的な書き方とどのように精神的な教理を取るかは作家の主要な関心事であった。しかし、1970年代の中頃から、宗教的な関心はその文学的営為に影を指す兆候があらわれた。


 1974年、水上勉は取りつかれたように何人もの禅僧の評伝を書きはじめた。文芸誌「海」四月号から『一休』の連載を開始し、「歴史と旅」の五月号から江戸初期の禅僧を描いた『鈴木正三しょうざん』、同誌の十月号から『白隠』が相次いで発表された。その間、水呑みずのみ与三郎の目から見た良寛という設定で書かれた『蓑笠さりゅうの人』を上梓じょうしし、「歴史と旅」では良寛についての連載をした。七月に『「禅の道」紀行』が「太陽」に掲載され、『阿弥陀の前』『「ぽろんか騒動」の多吉』などの仏教小説もその前後に発表された。多作の作家とはいえ、驚異的な執筆量であった。
 禅にこだわったのは、禅寺の小僧になった体験はいうにおよばず、その生い立ちとも深い関係がある。水上勉は幼年期から苛烈な人生の道を歩んできた。大工職人の父親は道楽者で、藁わらぶきの小屋には風呂はなく、戸口のすぐ軒下に桶おけを一つ置いたのが便所だ。一家を養うために、母は朝から晩までせっせと働いた。幼い頃は盲目の祖母に育てられ、毎日のように「大きくなったら、おっ母んを助けてやれやァ」と諭されていた。祖母も身を粉にして働き、家事はもちろんのこと、なんとか小銭を稼ごうと、孫を背負いながら、村中を歩いていた。その祖母も過労のためか、少年が4歳のときにこの世を去った。苦しい海で漂流していた少年は小学校四年を終えた時、寺に送り込まれた。 


 しかし、少年を待っていたのは予想もしなかった多難な道であった。出家した瑞春院では新米の小僧が使用人のようにこき使われていた。朝、5時に起床し、おむつを洗ってから、朝食を作る。学校にいる間と寝る時間を除いて、働きに働いた。瑞春院から逃げ出し、等持院に弟子入りしたものの、そこで目にした僧院生活の現実にも幻滅した。
 通常、ここまで宗教に失望した人間は再び信仰の道に戻るのは珍しい。50代に入ってから、水上勉がのめり込むように禅のことに興味を持ちはじめたのには理由があった。

 転換点「一休」
「風狂」を独自に解釈 

 生きることは地獄のようで、人生は終わりのない苦しみの連続だ。水上勉の作品のなかに、そのような印象を与えるものは少なくない。細部まで精緻に描かれた生活の苦しみは血と涙の滲むもので、悲嘆にくれる人々の姿は胸を打つものがある。
 作家デビューしてからしばらくのあいだ、水上勉の作品にそうした人生の苦しみと、貧困にあえぐ人々の悩みや恨みを描写する場面がよく出ていた。ところが、作家人生の半ばを過ぎた頃から、作品の傾向が変わった。迷いや悩みから解放され、精神の自由の境地に到達するためには、仏教の精神から何が汲みだせるかについて、真剣に考えるようになった。
 『一休』の執筆は水上勉にとって作家生活における重要な転換点である。この作品は高く評価され、1975年、第11回谷崎潤一郎賞を受賞した。一休宗純に関心を寄せる理由として、作家は「時代と障害のかかわりにある」ことを挙げている。では、なぜ一休なのか。


 一休宗純が生きたのは乱世の時代で、社会の低層にいる人たちは想像を絶するような困窮の生活を送っていた。水上勉は幼少時代や終戦直後の一時期にも、似たような暮らしを経験した。そのような時代を生き抜くにはどうすればよいか。水上勉がたどりついたのは地獄のような生活の中でもなお精神の高みを保つことだ。その場合、彼にとって仏教の思想が魂の救済になった。
 中年を過ぎた頃から、水上勉は少年時代に見た「鷹ヶ峰のおばさん」のことをよく語っていた。鷹ヶ峰は京都市帰宅南西方面にある長坂口あたりの地域名であり、その近くにある丘陵の名称でもある。京都の室町通あたりの店は、朝早く女たちが下駄を店舗の外に並べていた。鷹ヶ峰から来た主婦たちは背中に鼻をたらした赤ちゃんを負んぶし、破れうば車を引きずって、「直し、直し」と歩いていた。出された下駄があると、その場で洗い、壊れたのを直す。それで一銭とか二銭のお金をもらう。母親の面影と重なったからか、水上少年は彼女らにひと方ならぬ親しみを覚えていた。
 作家になってから振り返ると、ひょっとしたら彼女たちの営みは禅僧そのものの在り方だったのではないか、と思えるようになった。苦しさに直面したとき、悲しみや恨みの情に溺れるのではなく、その苦しみを無心に受け入れることで苦しみを超越することができる。そうすれば、禅の思想への通路が切り開かれる。水上勉はそう考えるようになった。
 水上勉が着目したもうひとつのことは、一休の「風狂」である。酒を飲み、肉を食べる。女に淫し、隠し子もいるらしい。むろん、この高僧の武勇伝をめぐって真贋しんがんの両説がある。水上勉は一休が戒律を破ったことに疑いを持たない。この伝説的な禅僧の不埒ふらちな行為の動機について施策をめぐらした結果、水上はその突飛な振る舞いに宗教的な意味を見いだした。禅寺の腐敗を目の当たりにし、それに対する抵抗ないし批判として、一休は「風狂」の挙に出たのではないか、というのが水上勉の解釈である。
 二十歳前後に寺院から飛び出したとき、水上勉は精神的な開放感を覚えたのかもしれない。と同時に、仏道を背いたことに後ろめたさのような思いもあったに違いない。仏門を離れてから、経済的な不自由に苦しみながらも、放埓ほうらつな日々を送っていた。その点でも一休宗純と似ている。
 老境に入りかけたとき、忘却のかなたにあった禅の教えはよみがえってきた。仏道に帰依するとはどのようなことなのか。修行の究極な姿とは何か。水上勉が共鳴したのは異端の禅僧たちの思想であった。


 職人は、のみならのみをもって削っておれ、それが仏業である。たとえ出家をしなくても、それぞれの立ち位置において最高のものを作り上げることが仏弟子となる瞬間である。江戸初期の禅僧鈴木正三しょうざんはそのような意味のことを言ったことがある。水上はその言葉に大いに共感し、自らの信仰心の方向を見いたした。その意味では、禅の瞑想たちの列伝は水上勉にとって、心の自伝であり、懺悔録であり、究極的な自己救済の書でもあった。
 仏教の真髄を吟味し、本当の信仰心とは何かについて試作しているうちに、作家の心は安静さを取り戻し、かつての作品にあった怨嗟えんさも引いてゆく浪なみのように姿を消した。彼にとって、良い作品を書くことこそ仏教に対する信心なのだ。


ちょう・きょう 1953年、中国・上海生まれ。華東師範大卒、東京大博士課程終了。国学院大助教授、米ハーバード大客員研究員などを経て現在、明治大教授(比較文化学)。『恋の中国文明史』(筑摩書房)で読売文学賞、博士論文『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。近著に『日中の120年 文芸・評論作品選』(全5巻、経堂へ週、岩波書店)。