すべては心の問題
佐藤 洋二郎  さとう・ようじろう  2016年7月26日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
摩訶不思議
不安、焦燥 神仏に委ねて

 生きることはしんどい。幸福だと感じることも少ない。もしそう思うことがあったとしても、それは真夏の夜の流れ星のような一過性のものではないか。たまにあるからまたありますようにと祈る。
 生きていれば深い孤独に陥ることもあるし、挫折もある。孤独とは淋しいということだが、その淋しさを宥なだめて生きるのが、人生のような気もしている。自分は家族のために懸命に働いてきたのに、誰もわかってくれない。反対に妻は、夫や子のために頑張ってきたのに認めてもらえず、自分の存在はなんなのかと思い悩む時があるだろう。
 数多あまたの感情を持つ人間は複雑な生き物だ。ふいに不安が心の中を走り抜けるし、哀しいことも突然訪れる。自分の思い通りにならないことばかりだ。そんな摩訶不思議な感情の中心に、わたしたちは神仏の言葉を立てて、さもわかったふりをして生きている。「摩訶」とは古代梵語で、たくさんとか非常にという意味だ。「不思議」とは人間が懸命に考えても理解できないことを指す。つまりこの世はわからないことばかりで、その最たるものが人間の心ではないか。
 そういうわたしも不安と焦燥の中に生きている。いい年齢なのに心が落ち着かない。穏やかな日々を手に入れることは少ない。それを解消するには物事を前向きに考えるしかないのだが、わたしがこの数十年、神社めぐりをするのも、それらの処理できない感情の表れではないか。そんなことを思案することもある。


 つい近年までこの国は神仏習合で、神社を訪れれば近くには必ず寺院もある。おかげで多くの寺院を歩き、そのことが高じて、一遍上人の足跡もみな歩いたし、親鸞に関わりのある土地の大方も訪ねた。彼らも多くの人々も神仏の存在を信じていた。この国は「無宗教」の国ではなく、改めて信心深い人々の国だと知らされた。実際、律令りつりょう政治と明治の初期の一時期、政治を司る太政官制度とともに神祗じんぎ菅制度が置かれていた。神祗の「神」は天津あまつ神、「祗」は国津神を意味するが、それぞれの神たちによって、いい国にしようとする祈りがあったのだ。
 個人的には思想的背景はないが、神社を歩いていると、正史とは違う庶民の歴史が見え隠れしておもしろい。そのことが神社オタクの原因になったが、新しさは古さの中から生まれてくるということも教えられた。そして変わらないのがわたしたちの感情ではないか。普遍的といえるのはそのことだけで、それが変化・変質しようとする時に、神仏が、わたしたちの心の底から、戒める言葉を発してくれているような気がしている。
 神社の境内に入ると心が落ち着くし、巨木をながめているだけで、とても自然には勝てないという気持ちにもなる。古代の人々もそうだったはずだ。雷が鳴れば畏怖する。自信があれば神の怒りに触れたと恐れ慄おののく。人間は元々卑小なのだと気づかされる。すると傲慢に生きている我が身でも、多少は謙虚な気持ちにもなれる。たまには神様が見ているぞというおもいも走る。煩悩まみれで俗物な人間でも、畏怖する感情や自己を諌いさめる気持ちが芽生えてくる。
 それもすべては心の問題なのだが、その心こそが最も摩訶不思議なものであれば、自分でも処理できない感情を神仏に委ねるしかない。そして生きることに前向きになり、人生を諦めない修行をするしかないのではないか。わたしは弱い人間だから神はいたほうがいいと考えているが、日本の神々は実に人間らしい。哀しんだり、つらい目になったり、病気の快癒や受験の成功を祈ったり、それぞれの人々の人生の悲哀や祈願が詰まっていて、ほほえましい。笑う神も泣く神もいるのだ。 


 わたしたちの喜怒哀楽の感情にそくしていて、高飛車に諭さない。宗教の語源が、神と人間を再びつなげるという意味があるならば、神社に眠る神々ほど、今日でもわたしたちの心と、彼らの心を深く結びつけているものはないのではないか。


ねるけ むほう

さとう・ようじろう 1949年、福岡県生まれ。中央大卒。作家。日本大芸術学部教授。作品に『沈黙の神々』『親鸞 既往は咎めず』(松柏社)、『島の文学を歩く』(書肆侃侃房しょしかんかんぼう)、『グッバイマイラブ』(東京新聞=中日新聞東京本社=出版部)など著書多数。最新刊に7月発売の『妻籠め』(小学館)がある。