死者をどう記憶するか
佐藤 啓介  さとう・けいすけ  2016年6月28日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
死者の声を聴く
都合よく代弁しない

 今年五月、オバマ米大統領が広島市を訪問し、平和祈念公園で、広島・長崎の原爆による死者を含む全ての戦没者に対する哀悼を示すスピーチをした。その内容について、核のない世界へ向かう姿勢を評価する一方、戦争責任や謝罪に対する言及がないなど、多くの論者が分析している。
 だが、私はこのスピーチで、あまり論評されない冒頭部分に注目してみたい。
 オバマ大統領は、「十万人を超える日本の男性、女性、そして子供、十数人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため」にここに来たと述べたうえで、私たちがこれから何をできるかについて「彼らの魂が私たちに語りかけている」と切り出した。
 私が思うに、このスピーチには非常に重要な意味がある。それは、たとえ言葉のうえでの表現だとしても、オバマ大統領が「死者の声を聴く」という姿勢を示した点である。彼のスピーチは、その地で、そして地球上で亡くなった戦争死者を忘れず、その声を聴きたいという謙虚さに満ちていた。超瀬人やアメリカ人の犠牲者に言及したのも、単なる政治的配慮ではなく、一人ひとりの死者を忘れまいとする姿勢の表れだとみなすのは、深読みだろうか。


 私たちが生きているこの世界は、同時に、数え切れない人々が「死んできた」世界でもある。いま生きている人の視点からだけでなく、死者たちの存在まで考えてみると、この世界のイメージは一変する。この世界には、死者たちの記憶や思いが、今もなお有形無形に残され、引き継がれている。さらに、死者たちの実現しなかった願いや、死者たちと私たちとの果たされなかった約束の名残が、ガレキのように堆積している。
 彼のスピーチは、哀悼の意の裏側で忘れてしまいがちな「死者たちの声」を拾おうとしていた。もちろん、核のない世界へ向けて前へ踏み出すことは大事なことである。だが、その一歩を、私たち生きている人だけでなく、死者たちとも共に歩もうとしたのである。
 だが、スピーチは終盤に向かうにつれ、徐々に変質していく。「すべての人類は平等である」というアメリカ独立宣言の引用のもと、人類が皆同じであることが強調され、「死者たちが私たちとまったく変わらない人々である」とされる。そして、死者たちと私たちの共通の願いとして、核と戦争のない世界への希望が語られ、磨ピーチは終わる。
 ここでオバマ大統領は、死者の声を聴く立場から、人類は皆同じであるという話を切り口に、死者の声を代弁し、むしろ死者の口を借りてジブ自身の主張を語る立場にこっそり変化しているのである。私は、この語り口の変化が残念に思われた。無論、多くの死者もおそらく平和を願っていたのだろう。だが、私たち生きている人々の感情が複雑であるのと同様、かつて生きていた死者たちもまた、多様で、複雑で、一言では言い表しがたい感情をもっていたはずである。平和を望むという前向きな思い以外にも、言葉にならない無念さや、苦しみに恨みを抱いたり、商社をねたんだり、決してその思いは一様ではなかったはずである。
 私たちは、生きているからという理由だけで、死者たちの思いを勝手に改変し、都合よく私たちと同じ思いだとしてよいのだろうか。それこそ、もはや語る口を持たない死者に対する冒涜ぼうとくであり、死者への裏切りなのではないだろうか。
 もちろん、死者たちがいま何を考えているかなど、知る方法などない。だが、死者たちが生前に残した様々な言葉や遺品などは、その想いを窺うかがい知るかすかな手がかりになるはずだ。 


 今回、オバマ大統領は広島平和祈念資料館を約十分しか見学しなかった。遺骨が眠る原爆供養塔を訪問することもなかった。時間の都合もあったのだろう。だが、私たち生きている人々だけでなく、死者たちとも歩んでいくためにも、死者たちの無数の声、時に暗くおぞましいことすらある声なき声に、より真摯に耳を傾けてほしかった。
 死者を都合よく代弁しないこと。それはおそらく、オバマ大統領にかぎらず、私たち皆が忘れてはならない課題であるはずだ。

死者の痕跡を生きる
倫理に不可欠な要素 

 近年、「墓石の不法投棄」が社会問題となっていることをご存知だろうか。日本各地で、墓の守り手がいなくなり、引き取り手のなくなった大量の無縁墓が、山中などに不法投棄されているというのである。
 ここには、墓を継承する従来型モデルの限界が表れていると同時に、ある深刻な変化の兆しが表れているように、私には感じられる。それは「この世界から死者の痕跡をなくしてしまうこと」に対して、私たちにためらいがなくなりつつある、という変化である。
 私たちは、生きていくなかで、目に見え、手で触れられる様々な痕跡を残していく。家の柱には、子ども時代に遊んで傷つけた跡があり、毎日履きつぶしている靴には、自分の足の形状が汚れとともに残されている。ネット上には、(時に消したい)SNS上の発言や、アップロードした写真が残されている。突きつめれば、この世界の事物は、私たち人間が、意識するしないにかかわらず、膨大な行為によって残した痕跡の積み重ねである。
 その痕跡とは、私たちだけのものではない。名前も知らない無数の、今はもう生きていない死者たちの痕跡も、膨大に残されている。私たちは日々、土地開発などで、そうした痕跡を壊しながら生活している。だが、時に、昔の名も知らぬ職人が柱に残した痕跡にふと目がとまり、そこに訳もなく「大切さ」を覚えることがある。見知らぬ誰かが後世に届けたかった記憶に、手で直接触れたかのように。


 私たちはしばしば、「死者にも尊厳がある」「死者に敬意を払うべきだ」などと、お題目のように口にする。だが、その尊厳や敬意の内容にまで立ち入って考えることは少ない。思うに、そうした尊厳や敬意の源泉にあるのは、かつてそこに誰かが存在し、そこで活動していたという事実を忘れてはいけないという、いたってシンプルな気持ちなのではないだろうか。
 こうした気持ちに即してこの世界を改めて眺めてみると、この世界は死者たちがかつて生きていた痕跡の堆積である。だからこそ、この世界の事物には、残す意義が感じられるのだ。
 もちろん、それを全て保存することなどできない。だが、例えば私たちは、知らない人が写った古い家族写真や、差出人も宛先もわからない古い手紙を、なんの価値もないといって捨てられるだろうか。おそらく、ためらうだろう。その理由は、「たたりに遭ったら怖い」という心霊めいた理由ではあるまい。私たちは、死者たちがその写真や手紙を残そうとした「思い」自体を抹消してしまうことにためらっているのだ。
 この意味で私たちは、死者たちの記憶を「断捨離」できず、ついついそれにこだわってしまう「めんどくさい」人間なのである。
 様々な宗教は、死者を弔い、死者を悼む儀礼を行ってきた。また、オカルト文化は、誇張した仕方であれ、死者の呪いやうらみというかたちで、死者のことを熱く語ってきた。それらの根底にあるのは、死者のことを安易に忘れてはいけないとこだわってしまう私たちの性質なのだろう。そして、いくつかの宗教は、教養や儀礼を整えることで死者にこだわってしまう感情に始まる「死者の痕跡であるこの世界において、死者とともに生きる」という認識が、人間の倫理にとって不可欠の要素だと思っている。
 墓石の大量不法投棄の話に戻ろう。おそらく、このニュースに感じる寒々しさは、墓石という「宗教的事物」が廃棄されている、という点にはない。そうではなく、墓石という、死者たちがかつて存在したことの明らかな痕跡を、無縁であるという理由だけで捨てることができることへの驚きが、このニュースを際立たせている。死者にこだわってしまう「めんどくささ」が、文字通り面倒なものになり、「死者の記憶を捨ててしまえ」とする風潮が登場しているのだ。


 私たち人類が、長らく死者に敬意を抱いてきたのは、伝統と因習がもたらした幻想だったのだろうか。それらは、生活を邪魔する重荷でしかないのだろうか。私はそうは思わない。死んだ人を忘れてはいけないという、ある意味では不合理な感情を無駄と切り捨てず、正当に評価することが、いま、私たちに突きつけられた課題であるように思う。そして、いま、日本社会において宗教の役割や存在意義が問われているとすれば、こうした問題と切り離しえないのではなかろうか。

ねるけ むほう

さとう・けいすけ 1976年、青森県生まれ。京都大大学院文学研究科博士後期課程学修認定退学。博士(文学)。南山大人文学部准教授。宗教哲学専攻。特に専門は死や不幸についての宗教思想の研究。『スピリチュアリティの宗教史(上)』(共著、リトン)、『愛・性・家族の哲学第1卷 愛』(共著、ナカニシヤ出版)など。