仏教再生を探る
互井 観章 たがい・かんしょう  2015年9月18日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
いま死者は成仏しているか
慈悲の心が人を救う

 お寺の御朱印集めが静かなブームになっている。大黒天を祀まつっている私のお寺にも、平日にもかかわらず御朱印を受けにくる方がいる。わざわざ北海道や九州から御朱印を求めに来る人もいる。また近年、仏像がブームになり、その人気はいまだ衰えることがない。仏像ブームとまでいわれるこの時代。それなのに、なぜ寺離れや葬儀無用論が話題になるのだろうか。
 この世に生まれたからには、誰もが老い、病気になり、死んでいく。生きていく限り、この苦に誰もが向き合わざるを得ない。だから生きるのは苦しいのである。
 本来、仏教はこの生老病死の苦しみを克服し乗り越えて生きていく智慧ちえを説いた教えである。苦しくてつらい人生をどうやって生きていけばいいのかという問いに対し、仏教は怒りを捨て、戒律を守り、心静かに生きていけと答える。苦しみ悩む人に寄り添い、生老病死を説き、その苦しみを乗り越える方法を説いてきたのが僧侶である。中でも死の苦しみに対して、葬儀を行い、死者に読経して救済(成仏)することが、生者に対してのグリーフケアにもなった。僧侶がそうやって葬儀をし、教えを説き、人々を救ってきたから仏教は生き残ったのである。


 しかし、今、僧侶に対しての批判の声が上がっている。私は15年以上、仏教情報センターでテレフォン相談を受けてきた。相談の中には、僧侶への苦情も多い。特に、僧侶の堕落とお布施の苦情は後を絶たない。外車に乗って、夜には街に繰り出し酒を飲む僧侶。葬儀の時に法話もせず、人を感動させる読経もない。それでいながら多額の布施を要求する。大切な家族の死を、こんな僧侶に委ねられない。檀那だんな寺の住職だからしょうがない、と諦めている人も多い。僧侶への不信感が、寺離れ・葬儀離れにつながっている。
 いつから僧侶は信頼を失ってしまったのだろうか。現在、生老病死の現場には、医療や福祉の方たちといった専門家がいる。専門的な知識と経験がないとなかなか踏み込めない。そんな理由から私たち僧侶は、次第に現場から遠ざかってしまった。確かに身体的な苦しみを取り除くことは、精神的な苦痛の緩和になる。医者や介護関係の方々の役割は大きい。
 しかし、それでもどうにもならない精神的な苦しみがある。そのようなスピリチュアルペインを取り除くのが僧侶の役目である。今、その現場にいる僧侶はほんのわずかである。僧侶が登場するのは亡くなった後の葬儀からで、亡き人がどのような人生を生き、どのような最期を迎えたのかも知らずに葬儀を行っていることが多い。しかも、その葬儀に多額の金銭を払わなければならないことが葬儀離れに拍車をかけた。
 しかし、本当に葬儀は必要でなくなったのだろうか。東日本大震災の時に、僧侶たちによる被災者の葬儀や読経供養に救われたと話す人は多かった。決して僧侶や仏教そのものが無用になったわけではない。反省すべきは、死を悼み、死者に向き合い、遺族に寄り添う気持ちを失った僧侶である。大震災の時、目の前に苦しむ人たちがたくさんいて、苦しみを抱えたまま亡くなった多くの死者がいた。まさにこの時、僧侶は自分たちに何ができるのかを考え行動した。それが被災者への読経だった。仏教が説く慈悲とは、他者の幸福を願う慈心と、他者を不幸から救い出す悲心である。大震災は、僧侶に慈悲の心が人を救うことを教えてくれた。その同じ気持ちで檀信徒に向き合うことが、葬儀離れの解決につながるに違いない。


 行くべきところがわからない死者と、送るべきところがわからない生者に、道しるべを示すのは、僧侶の役目である。死者には、静寂と安穏な世界への懸け橋を示し、生者には死者とともに明日を生きる喜びを与える。死者、生者ともに大きな安心あんじんに包まれる。それが葬儀である。私たち僧侶が仏教を再生する要は、慈悲の心から行う葬儀にある。葬儀すらできない僧侶と言われないためにもである。

ご先祖様の行方
死者供養も次世代へ 

 私のお寺では、以前、毎月のように本堂で音楽ライブや芝居、ドキュメンタリー映画の上映会や写真の展覧会などを行っていた。
 その発端は、仏教情報センターでのテレフォン相談だった。相談員になって間もないころ、最近の若い僧侶は遊んでばかりいて何もしない。あんたのお寺は社会に門を開いているのかと、おしかりを受けたことがあった。当時、何もしていなかった私は、お寺の門を開く方法としてイベントを企画することにした。ある方から、お寺で音楽会があったら行ってみたいと言われ本堂でのライブを始めた。何か一つ始めると、新しい人との出会いがあり、その出会いが新しい道を開いていく。それは楽しいことだった。
 今、寺院の活性化をはかって各地のお寺でさまざまなイベントが行われている。社会の中に、高額な布施を必要とする葬儀や戒名・法名、僧侶の質の低下など、僧侶や寺院に対しての批判があり、寺離れの原因になっている。その批判を払拭し、併せて公共性をアピールしようとライブやカフェを行うお寺も多くなった。イベントには、普段お寺に来ない若い人も大勢参加する。人が集まると、お寺が活性化したような気になる。
 一方、イベントとは別な方法による日本仏教再生の模索もある。檀家制度の限界から、檀家という家単位ではなく、信徒会員という個人を対象にした構成メンバーで寺院を運営しようという考えも出てきた。タイやスリランカの仏教(いわゆるテーラワーダ)を学ぶ人や、仏教の瞑想を行う人も多くなった。それでも、仏教再生に向けて進むべき道は、まだ五里霧中で方向性が見えない状態である。そんな中、私はこの夏に一つのヒントをいただいた。


 参拝に来た外国人の方に盆踊りのことを聞かれ、死者を迎え入れる踊りだと説明したところ、質問攻めにあってしまった。なぜ死者が帰ってくるのか。死者はどこにいるのか。なぜ来たり帰ったりできるのか。そもそも死者が帰ってくるなんて考えられないし、恐ろしいことだ、とまで言われてしまった。いろいろ説明したが、やはり根本的には理解されず残念な思いをした。しかし、その時、私はあることに気が付いた。
 現在の日本仏教は死者供養を中心とした仏教である。儒教・道教と結びついた仏教が伝来し、日本の風土(神道やアニミズム)と融合し、大きな変革を幾度も経て現在に至った。それがインドにも中国にもない、死者供養を中心とした日本仏教である。
 日本人にとって、お盆に死者が帰ってくることも、お墓に亡き人の魂が眠っていることも、死者にお経をあげると成仏することも、何の抵抗もなく受け入れられている。その仏教的風習を大切にしてきたのは村などの共同体であり、家であった。今、共同体が機能を果たさなくなり、家単位の生活から単身の生活へと移行し、その結果、死者供養を中心とした日本仏教の継承が難しくなってきた。そこに日本仏教が疲弊した理由があるのかもしれない。


 そもそも仏教とは、生老病死の苦しみを乗り越えてどう生きるかという智慧を説いた教えである。最近人気のあるチベット仏教やテーラワーダの仏教は、国籍や時代を超えた個人に仏教の智慧が理解できるように説かれている。瞑想を通して智慧を学ぶそれらの仏教は、死者供養を中心とした仏教に慣れ親しんだ日本人には新鮮に映り、若者を中心にして修行体験を行う人も多くなった。仏教から生きる智慧を学ぶことへの期待が高まっている。その期待に応えるべく、私のお寺でも、音楽や芝居などのイベントを休止し、お経や仏像のことを学ぶワークショップや、写経や瞑想を行う修行会、そして生きるヒントを学ぶ法話会などを始めた。
 しかし、智慧の教えに特化した仏教が死者供養を中心とした仏教にとって変わるのかというと、そうは思えない。つまり、今まで通り、日本人だから理解できる死者供養を中心とした仏教と、瞑想などを通して智慧を学ぶ仏教の、二極化に進むのではないかと考えている。私は、お盆にご先祖が帰ってくる仏教も悪くないと思っている。ご先祖が迷わないためにも、できれば二極化ではなく、融合した仏教が提示できたらいいと思っている。

ねるけ むほう

たがみ・かんしょう 1960年、東京都生まれ。北里大獣医畜産学部卒業後、米国の牧場で酪農に従事。帰国後出家し僧侶に。現在、東京都新宿区の日蓮宗・経王寺住職。立正大非常勤講師。一般社団法人・仏教情報センター前事務局長。NHK「落語でブッダ」に昨年出演。著書に『色香「今昔物語」現代解釈』(パレード)。月刊「ナーム」(水書坊)に「仏像ふしぎ発見」を連載中。