老いと宗教心
阿満 利麿 あま・としまろ  2015年7月24日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
「大きな物語」の道筋
先祖信仰の代わりに

 死ぬのは他人ひとであって、自分は絶対に死なない、あるいは、老人になるのは他人であって、自分は年を取ることはない、と公言していた友人がいる。しかし、寄る年波に勝てず、重篤な病気も経験して、「おれもやっぱり年を取るんだな」というようになった。そして、「人は死んだらどうなるのか」と尋ねる回数が増えた。
 その彼があるときから、「死んだらどうなるのか」を訪ねなくなった。私には、そのわけが思いあたる。彼は、十代で母親を亡くしたために、若いときから、毎月、日を決めて母親の墓参を欠かさず続けてきた。母親の墓は、京都にある。墓参だけのために新幹線で往復するのが、彼にとって心の安らぎをもたらす、いわば行ぎょうとなって久しい。
 そんな彼が、最近、墓参に息子を同道するようになった。息子も忙しいのだが、父のたっての願いに応じているらしい。しかも、息子は、彼が亡くなったのちも、毎月の墓参を続けると約束してくれたらしいのだ。


 日本人は、墓参が好きだ。墓参が、亡き肉親の「成仏」を約束するからだ。「成仏」といっても、その「ホトケ」は、仏教がいう「仏」(覚者)ではなく、「先祖」を意味している。「先祖」は、もとは、地域に住んでいたすべての死者のタマシイの集合体(ご先祖)であって、「成仏」とは、個別の死者のタマシイが、「ご先祖」に融合することを意味した。そして、「成仏」は、死者の救済が完了しただけではなく、これを機に、子孫たちの守護神へと転じることも意味した。
 墓参には、亡き肉親の「成仏」を達成するだけでなく、すでに「成仏」した先祖から、加護を受ける意味もあったのである。だからますます、人々は墓参に熱心になる。
 ただ、大事なことは、亡き肉親が個性を失って、「ご先祖」というタマシイの集合体に融合するためには、少なくとも33年間にわたって、その子や孫による祭祀さいしが不可欠とされたのである。その祭祀の方法として、仏教儀礼が用いられたので、年回法要や盆、彼岸といった年中行事も定着し、また死者を「ホトケ」と呼ぶようにもなった。
 このように、一昔前は、血肉を分けた子孫から供養が受けられるという信頼があったから、自分は死んでも、「ホトケ」(先祖)になるという見通しをもつことができたのだ。だから、さほどの動揺もなく、死を迎えることができたのであろう。「先祖になる物語」が生きていたのである。友人は、そうした「物語」によって、死んでゆける最後の世代なのであろう。だが、子孫に期待できないものは、どうすればよいのか。


 私が提案したいのは、安心して死んでゆくために、壊れかかった「先祖になる物語」にかわって、「大きな物語」を採用してみてはどうか、ということだ。「大きな物語」とは、仏典や聖書など、いわゆる宗教書に記された「物語」のことである。もちろん、こういったからといって、私は、特定の教団の信者になるように、すすめるわけではない。なにより、世は「無宗教」の風潮が蔓延しているから、ことは簡単ではない。だが、あえて提案したいのだ。
 そもそも「大きな物語」は、人が未完成な存在であることを前提にして生まれている。未完成だということは、智慧ちえが不十分だということだろう。人生の意味はどこになるのか、容易に答えは得られない。あるいは、悲惨な戦争を、いつになったらやめることができるのか。また、経済的な弱肉強食が生む悲劇を、いつになったら克服できるのか。また、智慧が足りないばかりに、人間関係の破綻に苦しむことも少なくない。
 老いは、こうした人間の未完成さによって生じる苦しみが、一挙に迫ってくることでもある。死が切迫しているのに、何も解決できていないことが明白になり、不眠が不眠を招く。
 私のいう「大きな物語」は、このような未完成の状態に、ひとまず納得できる道筋を示してくれるのだ。

あくまで「行」の実践
安心して生き切る道 

 「大きな物語」には、未完成な人間が、完全な存在になるための道筋が記されている。その道筋は、はるかな過去からやってきていて、はるか未来にまで続いている。その道筋を歩めば、未完成なるがゆえに生まれる不安や、苦しみが減少し、安心して、最後まで、人生を生き切ることができるようになる。私の死は、その道筋を歩いているなかでの、一つの出来事にしかすぎない。「大きな物語」は、その道筋を歩むための工夫を教えている。それが伝統的ないい方からすれば、「行ぎょう」になる。祈りとか、聖なる名を称するとか、瞑想とかである。


 問題は、私たちに「行」を実践する意志があるかどうか、である。多くの場合、「大きな物語」に共感しても、「行」の実践にまで進む人は、けっして多くはない。というのも、今の人間は、自分に自信があるのだ。人間が未完成だということも、一般的には認めても、わがこととしては許し難いのである。だからこそ、人生の究極的な拠りどころを求めるとしても、哲学や思想、人生論を選ぶ。そこには、「大きな物語」と違って、「行」はない。「行」がないだけ、自由に考えることができる、と思いがちだ。
 だが、ドイツの哲学者・カントの例をもちだすまでもなく、人は、経験に根差す理性の範囲内だけでは、生き切ることができない。どうしても、「大きな物語」の説く道理が必要となる。
 その道理は、けっして神秘的なものではない。ただ、私の不完全さが身に沁みて分かることが前提になっている。わが身のあり方を棚に上げて、その教えだけを表面的に見ると、神秘的で納得できないことも多いだろう。この点、老いるということは、わが身のあり方も、客観視できる。わが身の不完全さにも、うすうす気づいている。それは、「大きな物語」を理解する上で、有利な点となるはずだ。
 私の場合、「行」は念仏だが、念仏をしても、日常の暮らしに別段の変化はない。だが、どこかに安心が生まれている。もう少しいえば、私と世界は虚仮こけに満ちていても、念仏という「行」を通して、私は「真実」の世界につながっているのだ。それが、私に限りない安心感をもたらす。


 老いてくると、細かい議論が煩わしく、話もおおまかになる。そのせいか、浄土教系の老僧や哲学者が、究極の信心のあり方として、次のように述べることも珍しくない。いわく「すべてを阿弥陀仏におまかせする」、あるいは、「個人のはからいをすてて自然にまかせる」、「おまかせ、おまかせ」と。
 だが、私はこうした発言に違和感を覚える。たしかに、「行」の実践によって、今までとは違った心境が生まれるが、それは、人それぞれなのであり、一様に、特定の心境に達するわけではない。そうなると、特別の心境を手にしないと救われない、ということは、文字通り、人の「はからい」になるのではないか。大事なことは、「行」の実践の継続であり、心境の善しあしではないだろう。
 加えていえば、私の場合、念仏によって、人の見方が変わってきた。人はみな異なった過去を背負っているがゆえに、一人一人は違っているのであり、同時に、人はおしなべて愚かだ、という点では共通している、ということだ。
 こうなると、他者との関わりや、社会の問題にも、今までとは違ったアプローチが生まれてくる。人は愚かだからこそ、互いに、それぞれの主張に耳を傾けねばならない。しかし、人はそれぞれ異なった存在なのだから、権力的で画一的な解決策では実効がない。となれば、知恵を出し合うしかない。そのためには、長い議論も必要だ。私はどちらかというと、思い通りにならないと、席を立つ方であったが、今では、いささかの忍耐心も生まれている。
 横道にそれたが、「大いなるものにまかせる」という心境だけが、宗教心の極意として、強調されるのは、多分、老いが言わしめる、自己満足でしかないのだろう。「大きな物語」にとって肝要な点は、あくまでも、「行」の実践なのである。
 人は、宗教心があろうがなかろうが、死んでゆく。だが、「大きな物語」に遭えば、人生の困難を解決しようという意欲と忍耐心が生まれる。問題が解決できなくとも、絶望することはない。死は、道を歩んでいるうちに、いつの間にか生じる出来事にしかすぎない。「大きな物語」の効用を説きすぎたであろうか。

ねるけ むほう

あま・としまろ 1939年、京都市生まれ。京都大教育学部卒。NHKチーフディレクターを経て明治学院大教授。現在、同大名誉教授。「連続無窮の会」同人。著書は『行動する仏教』『宗教の深層』(ちくま学芸文庫)『親鸞』『法然入門』(ちくま新書)など多数。