お布施とは何か
佐々木 閑 ささき・しずか  2015年5月29日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
在家が支える出家世界
誠実な生き方を称賛

 お坊さんにお経を読んでもらったり、お話をしてもらったりした時に渡すお金のことを「お布施」という。お金を和紙などで丁寧に包んで、しかも渡す側の方が頭を下げて、「本日はどうも、ありがとうございました」などとお礼を述べるのである。これはどうみても、普通の商売とはかたちが違う。もしこれが商売なら、
 お坊さん…「お経一本読みましたので3万8千円です」
 在家の人…「あっそう、じゃはい、4万円。おつりちょうだいね」
 お坊さん…「はい、2千円のおつり。まいどありがとうございました」
 となるはずだが、そんな場面は見たことがない。お布施というのは、金で何かを買うという行為ではない。そこには単なるお金の受け渡しとは別の、特別な意味が含まれているのである。「お布施の意味なんか分かったって仕方がない」と思われるかもしれないが、それは意外と私たちの人生にも関わってくるのである。


 このお布施という慣習の起源は、仏教の開祖である釈迦にまで遡さかのぼる。釈迦は、一国の王子という恵まれた身分に生まれたが、若くして「生きることは苦しみだ」という事実に気づき、たった一人で出家し、修行者となった。言い換えれば、一般社会の常識的価値観を捨てて、独自の生き方を探し始めたのである。
 長い修行生活の末、ついに釈迦は菩提樹の下で悟りを開く。生きる苦しみを消すための自己鍛錬の道を完成したのである。その後、釈迦は自分が見つけた悟りの道を、自分と同じように、生きる苦しみでもだえる人たちの役に立てたいと考えて、布教活動を始めた。そんな釈迦を慕って、「お釈迦様と同じ修行の道を歩みたい」と考える人たちが集まって修行者集団を作った。その人たちを「お坊さん」と言うのである。
 しかしこれは考えてみると、大変虫のいい生き方である。仕事をせず、自分たちのやりたいことだけやって生きていこうというのだから、普通なら世間からひんしゅくをかう。「みんな汗水たらして働いているのに、好きなことだけやって生きていこうとはけしからん。働かざるもの食うべからず。さっさと働け」ということになる。
 しかしそうならなかったところに釈迦の偉さがある。釈迦は弟子たちに、こう言ったのである。
 「私たちは、世間の皆さんが苦労して働いている横で、仏道修行などという世間離れしたことに人生を賭ける横着者である。しかし人にどう言われようと、この道を進むしか我々の生きる道はない。なぜならそれが、我々の唯一の生きがいだからである。だから我々は、ののしられようが石を投げられようが、ひたすら世間の皆さんに頭を下げて、ご飯をもらって歩く。世間の人たちの厚意にすがって生きるのである」
 実際、お坊さんたちは、食べ物を入れてもらうための鉢をかかえて、毎日、近くの村や町を歩き回った。托鉢たくはつである。


 本当に石を投げられたり、冷たく追い返されたりすることもある。それでもお坊さんたちはじっと耐えながら家々をまわった。それしか生きがいを実現する方法がないからである。しかしその誠実でうそ偽りのない姿が、多くの人の胸を打ち、「こんな立派な心持ちの方なら、ぜひお食事や着物を差し上げて、生活を支えてあげたい」と思う人も大勢現れた。誠実に生きる僧侶の姿そのものが、人々に「お布施したい」と思わせる原動力になるのである。
 したがって、お布施は、立派な姿で修行に打ち込んでいるお坊さんへの称賛の証しであり、そして「修行して素晴らしい道を私たちに教えてください」という期待の証しでもあるのだ。

現代社会の出家者たち
皆で支え、文化創造 

 なぜ私たちは、お経を読んでくれたお坊さんにお布施を差しあげるのか。お経一本分の代金を払っているわけではない。僧侶としての立派な在り方、僧侶ならではの深い言葉、そういった姿の全体に対して「ありがたいことです」と感謝し、「これからもしっかり仏道を進んでください」と激励する気持ちで渡すのがお布施なのである。
 裏返してみるなら、僧侶としてのあるべき生き方をしていない人が、いくらお経を読んでも法話をしても、布施をもらう価値はないということになる。「ああ、このお坊さんは、お布施を上げるにふさわしいすぐれた人だ」と評価してもらえない人に、お布施をいただく権利はないのである。
 ここまでは仏教の話だから、お坊さんでない人にはあまり興味がないかもしれない。しかし大切なのは、この世にはお坊さんと同じ生き方をしている人がいくらでもいる、という事実である。宗教の世界を離れて考えてもらいたい。お坊さんが仏道修行という、自分で決めた生きがいにひたすら打ち込んでいるのと同じように、社会の常識的価値観から離れたところに生きがいを見いだし、その道を脇目もふらずに進んでいる人が、この世には大勢いるのである。


 私の知人に瑪瑙めのう工芸の達人がいる。彼は、家族も持たず定食にもつかず、ポツポツとアルバイトしながらひたすら瑪瑙の美しさを掘り出すことに人生をかけてきた。外から見れば、きつくてひどい人生である。しかし訥々とつとつと語る彼の言葉には、瑪瑙と共に生きてきた歓びがあふれている。彼が生み出す作品は、まるで宇宙の深淵しんえんをのぞき込むかのようなめくるめく妖美に包まれている。最近になって海外での評価が高まり、なんとか生活も安定してきたが、それまでにかかった人生の修行時間は実に60年である。
 自分で決めた独自の生きがいに人生を全て投入することにより、一般社会から遊離して暮らさねばならない人を「出家者」と呼ぶなら、出家者はこの世にいくらでもいる。その大半は、見かけ上、社会的に何の働きもしていないようにみえる。単なる無職無収入のブラブラ人間である。しかし、その「なんの働きもしていないようにみえる生活」が、実は真の文化を創造する強烈な生産活動になっている場合がある。
 木の下に一日中坐すわっていただけの釈迦は、絶望感で苦しむ人間を確実に救いあげるための道を見いだし、ひいてはそれが、仏教という巨大な文化世界を生み出したし、60年間アルバイトで食いつないでいた私の知人は、瑪瑙芸術の名品をいくつも生み出してくれた。
 他にも例はいくらでもある。生前にたった一枚しか絵が売れなかったゴッホが、絵画芸術にどれほどのものを残したか。名もなき特許局員として生計を立てながら、仕事の空き時間を利用して物理研究に没入していたアインシュタインが何を我々にもたらしたか。こういった事例を見ていくと、真の文化を生み出しのは、社会の一般構造から遊離して暮らす出家者たちだということが分かってくる。


 出家者は、この世のいたるところにおり、人知れず次の文化を生みだし続けている。運良く生計を立てる道があれば、その出家生活はやがて実を結ぶかもしれない。しかし運が悪ければそのまま立ち枯れていく。その分かれ目で大切なのが、お布施である。社会がなんらかのかたちで出家者の修行生活をサポートするなら、それはいずれ遠い将来、大きな果報をもたらしてくれるかもしれない。この事実を認識している社会からは、新たな文化が生まれる可能性が高くなり、認識しない社会は朽ち果てていく。
 出家者を「社会不適合」として排除することなく、逆に「お布施で支えよう」と考えることが、回りまわって社会全体に活力を与えることになる。「自分たちが良いと思う生き方だけが正しい生き方ではない。この世にはさまざまな正しい生き方がある」という姿勢で、他者を支えていくことが大切なのだ。
 お坊さんにあげるお金だけがお布施ではない。価値あるお布施を求めている真の出家者が周りにたくさんいるということを理解し、そんな出家者を応援していく。それが本当のお布施の意義である。日本に正しいお布施文化が根付いて、多様な価値観が豊かに花開くことを願っている。

ねるけ むほう

ささき・しずか 1956年、福井県生まれ。京都大工学部工業化学科、文学部哲学科卒。同大学院博士課程満期退学。米国カリフォルニア大バークリー校を経て、現在花園大教授。著書は『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫)『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人)『100分de名著 ブッダ 最期のことば』(NHK出版)など。