近代のどん詰まり
山下 良道 やました・りょうどう  2015年4月3日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
死んだら終わりか
日常に、仏教の不在

 宗教の評判がどうも悪い。とりわけ評判が悪いのは「葬式仏教」。映画などでお坊さんの描かれ方は、ほとんど揶揄やゆの対象になっている。身に高価な法衣をまとい、高級外車を乗り回し、とても欲深い。これが日本映画のお坊さんの一般像ではないだろうか。その一方で二回も制作された映画「ビルマの竪琴」では、真反対のお坊さん像が描かれている。粗末な衣をまとい、はだしで歩き、禁欲的な…。一体どういうことだろう。
 私自身、日本とミャンマー(ビルマ)の両方の仏教の伝統のなかに身を置いた。日本の禅宗の伝統のなかで18年過ごした後、ミャンマーに行き四年余り一緒に修行したお坊さんたち(比丘びくと呼ばれる)が、どれほど社会から尊敬され、大事にされているか、そして彼らがその尊敬に値する生活を実際にしていることを知った。日本から来た私は心底驚き、日本仏教の現状を思い出しては深く嘆き悲しんだのである。


 2006年夏、帰国したあと、私は現在も住む「鎌倉一法庵」を活動の本拠地にすえた。ミャンマーで学んだ「本当の仏教のありかた」を人々に伝えようと、瞑想を中心に教えてきた。この日本でもミャンマーのように、仏教が少しでも人々の日常生活に役立ち、生老病死の苦しみの中でも帰依の対象になるようにという願いからである。
 主宰する瞑想会では、お茶を飲みながら胸襟を開いて話す時間をたっぷりとっている。参加者からは、日本の仏教に対するさまざまな不満が聞こえてくる。その最大公約数は、日本のほとんどのお寺が、彼らの人生とかけ離れた存在だということ。つまり、彼らが人生の問題を抱えたときに、その解決のために日本のお寺を訪ねるという発想はないのだという。
 ミャンマーの人たちは、日常の中で始終お寺を訪ねる。何か悩みごとがあったら、まずお坊さんに相談し、解決方法を授けていただく。そのお礼にお布施をすることで、ミャンマーのお寺は経済的にも回っている。
 日本でその役を担っているのは、カウンセラーなどの心理職領域の人たちであって、お坊さんではない。もちろん、日本にも例外的なお寺やお坊さんたちはいて、坐禅やお念仏、法話の会が、人生問題の解決の機会を提供しているが、極めて少数である。
 仏教は日本の社会のなかで、生きるための力にならないのは、お寺やお坊さんの責任なのだろうか。私は長い間、日本仏教そのものに何か致命的な欠陥があるのではないか、だからその欠陥を補うためにミャンマー仏教のようにきちんと社会で機能しているものを導入すれば、日本の状況を変えられると思ってきた。そのために、まず自分自身が直接ミャンマーに行き、修行し、学んだものを、日本に直輸入しようと努めた。
 でも、どうやらその方法は的外れだと、少しずつ気づき始めた。日本で仏教がほとんど力を失い、ミャンマーではいまだに力強く生きているのは、「日本仏教」と「ミャンマー仏教」の違いではない。それは、「日本社会」と「ミャンマー社会」そのものの違いなのではないか。もっと言えば、その社会を成り立たせている根本的な原理の違いなのではないか。


 日本とミャンマーの両方で生活した人なら、二つの社会の表面的な違いはもちろん、その奥にある原理的な違い、いわば世界観そのものが全く違っているのにうすうす気づいているだろう。世界観の違いが端的に現れるのは、やはり「生と死」の問題、生の意味、そして死の意味である。
 「生と死」について、普段は意識的に考えたことはないから、あなたは「生と死」についてどう考えていますか?と、問われても、たぶんきちんと言語では表現できない。世間でも、この話題はいわばタブーだから、公に自分の意見を発表しなくても済む。
 では、本当に何も考えていないかというと、そうではなくて、現代の日本人のほとんどが、信じて疑わない共通の理解がある。それは何か?
 人間は死んだら終わり。死んだら灰になって、それでおしまい、ということである。

死んでも死なない命
再び意味持つ「お葬式」 

 人間は死んだら終わり。死んだら灰になって、それでおしまい。というのが、現代日本の原理である。身もふたもなさすぎると多くの人は言う一方で、これ以外の本音を持っている人などいやしない。そう現代の日本人の多くは考えるだろう。
 ところが「現代日本」という狭い枠組みを離れて、地球儀の上を地理的に移動し、時間軸に沿って過去にさかのぼってみると、そこで出会う多くの人たちは、現代日本人のようには考えていないことがわかる。日本人の本音は地理的、歴史的に限定された非常に特殊なものだと知ったときから、我々の当たり前の世界は揺らぎ始める。
 現代日本人の本音にしばらくつきあおう。平均寿命が約85歳だとすると、自分に与えられた85年間の人生設計はこうなるだろう。何歳であの学校へゆき、この会社に就職し、こういう人と結婚、子供を育て、マイホームを建て、老後に困らないようにしっかり貯蓄、定年後は年金暮らしを。きちんと計画をたて、努力すれば幸せな人生が待っている、はずだと。
 でもこの人生計画表には重大な欠陥があるのにお気づきだろうか。86年目以降の計画がまったくの白紙で、何も書き込まれていない。そのはずで、現代日本社会の原理に基づく限り、86年目以降は考えることも、想像することもできない、何にもない世界。死んだら終わりだからである。


 これに反し現代日本人とは別の原理で生きている人たちの人生設計表には、しっかりと86年目以降が書き込まれている。なぜか。彼らは死んだら終わりとは思っていないからである。86年目以降の計画がきちんとあるのと、なんの計画もなしに生きるのとでは、全く違ってくる。容易に想像できるはずだ。
 86年目以降の計画なしに、85年間を生きるのは苦しくないだろうか。若いうちはまだいい。86年目以降など遠い先のことで、目の前の勉強や仕事、恋愛に夢中だから、それで十分に人生が充実して幸せだ。でも、人生の後半戦にくると暗い影がさしてくる。先が見えてくるからだ。
 86年目以降を考えるとあまりにつらくなるから、何も考えないようにしよう。できたら85歳の寿命をなんとか延長することはできない。現代日本人の悲痛な願いの結果、この国の医療は高度に発達し、さらに平均寿命は延び、世界最高水準にまで達した。だが、もちろん解決をもたらしてはくれない。85年が86年になっても相変わらず87年目以降の計画は白紙だからである。
 ここで「葬式仏教」という不思議なものが登場してくる。遺族は、本音では死んだら終わりで、もうそこには何もないはずと思っているのに、何もしないで葬るのはあまりにもつらいと感じる。そこでお坊さんにお経を読んでもらう。しかしお経の中身には何の興味もない。それらしきパフォーマンスをしてもらえば十分で、お布施もする。形式的なお葬式も無事にすんで、ほっとするけれど、でも何かどうしようもなくむなしい。そのむなしくつらい気持ちが、今度はお坊さんたちに、お寺に向かう批判の言葉となるのではないか。日本仏教は「葬式仏教」にすぎない!と。


 「葬式仏教」という言葉にすべての鍵があるのはもうおわかりだろう。この言葉が、仏教と現代日本の原理との最も不幸な出会いを象徴する。仏教はもちろん、死んだら終わりとは絶対に考えない。そのことがお経のなかで書かれていることのすべてだ。現代日本の原理が絶対だと思い込んでいる限り、死んだら終わりではないという仏教の教えは全く理解できないし、意味を持たない。それでも形式的にそのお経を読んでもらうという転倒した状態が、まさに「葬式仏教」の本質なのだ。
 この不幸な出会いをどうしたらいいのだろう。お葬式など空虚な形式だけのものは、さっさとやめてしまえばいいのだろうか。現にその方向に向かっている人も多い。「葬送の自由」というスローガンで。でもせっかく「死んだら終わりではない」という仏教に出会ったのだから、「死んだら終わり」という自分に染み付いている原理をいったん棚に上げて、少し学んでみたらどうだろう。
 その一つは、最近広がり始めた「マインドフルネス瞑想」である。呼吸などに気づくことで「死んでも死なない命」にタッチできる。その時、もう迷わない。

ねるけ むほう

やました・りょうどう 1956年、東京都生まれ。鎌倉一法庵住職。東京外国語大卒業後、曹洞宗僧侶に。88年、米国で坐禅指導、2001年、ミャンマーで上座仏教の比丘に。日本人初のパオ瞑想メソッドの修了者。日本各地、インド、台湾などで瞑想指導。著書『青空としてのわたし』(幻冬社)『アップデートする仏教』(共著、同)『ティク・ナット・ハンとマインドフルネス』(共著、サンガジャパン第19巻)。