日本仏教のこれから
橘 正信 たちばな・しょうしん  2015年12月15日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
自己中心主義
廃れる心 僧侶の出番

 「ひきこもり」に「不登校」、「いじめ」に「自死」や「子殺し、親殺し」といった社会の病理は、一向に収束する気配はありません。「環境問題」や「格差問題」も深まるばかりです。その要因の一つに自己中心主義の蔓延まんえんがあると、私は考えています。
 戦後の日本人は物のない貧しい時代を過ごし、そのエネルギーが高度経済成長をもたらしたのです。確かに貧困からの脱却は必要でした。しかし貧困からある程度抜け出た後も、経済成長ばかりを追い求めました。「もうかrことしかやらない」「役に立つことしか大事にしない」という経済至上主義の価値観が欲望を暴走させたのです。そして「消費こそ美徳」と、環境を破壊し、電力需要を増大させ、原発依存を招きました。経済優先の価値観は競争社会を生み、「落ちこぼれ」や「格差社会」という言葉をつくりだしました。


 戦後の宗教に目を向けましょう。戦前の「神道国強化政策」の反省から、宗教教育が忌避されることになったのです。現代の日本人には、「無宗教が知性的である」とか「宗教はあやしいものである」と考える人がいます。しかし、国際的には宗教のない人は信頼を受けないと聞きます。正しい宗教教育がなされないと正しい倫理観が育たないと思われているからでしょう。倫理観の欠如は自己の欲望のままに生きる社会をつくり、自己中心主義を蔓延させてゆきます。日本の宗教教育はこれまで家庭が、その一部を担ってきましたが、現代の核家族では、それが担えなくなったり、不要なものとされたりしています。
 寺院もこのような時代の流れに大きな影響を受けたのです。かつて寺院は地域社会のコミュニティーの中心的存在として機能し、地域の人々のよりどころでありました。各家庭では朝夕、仏前に合掌礼拝することが習慣づけられ、仏様を尊ぶ心が、先祖を敬い両親を大切にする心を育てたのです。お寺参りや仏事が人間形成の場となっていました。このような環境によって、宗教的倫理が自然と養われていったのです。日本の家族制度は、仏様を中心とした家庭生活で維持されてきたといっても過言ではありません。
 しかし地域社会は、重工業を中心にした経済優先の波を受け、大都市へ人口が流出、地域の過疎化が進んでゆきました。寺院は信者が減り住職は、家族の生活を維持できず、兼職をせざるを得なくなったのです。当然、宗教活動も減少してゆきました。
 とりわけ葬儀は急激に変わりました。「葬式仏教」と言われるように、過去も現在も寺院にとって重要な儀礼です。地域にとっても共同体を形成する大切な行事でした。僧侶の指導のもとに皆で仲間の最後の見送りをし、命のはかなさ、無常なる人生を知らされる大切な文化でもありました。「葬儀をして一人前になれる」「下がらぬ頭が下がるようになる」といわれ、人づくりの機会だったのです。
 今やこの葬儀も業者の主導で、便利さと価格透明を前面に出した家族葬や直葬の名のもとに行われています。宗教者のいない御別れ会で済ますこともあります。大切な葬儀からだんだん宗教色がなくなりつつあり、仏事も簡略化されています。宗教儀式の分野まで産業化が及ぶことで、人々の心はさらに経済中心となり、心の荒廃を生む減少が深まってゆくと思われます。


 寺院を取り巻く環境の変化は、遠くに過疎地では寺の存続も危ぶまれるほどで、これは教団の危機でもあります。廃寺、獣慾の代務寺院、寺院合併、後継者の不足など抱える問題は多難です。もちろん時代の変化ばかりでなく、問われるべきは経済成長とともに育った僧侶の資質であることも確かです。
 しかし、このような時代の乱れと寺院の危機は日本史上幾度もありました。その度ごとに僧侶は仏教の本意に帰り社会の危機を救ってきたのです。まさに鎌倉期の祖師たちは、時代を「濁世じょくせ」ととらえ、「末法到来」を自覚し、日本社会を立て直したのです。その意味からも、今、仏教や僧侶が果たす役割は大きいのであります。

自然との共生
命を尊ぶ心の豊かさ 

 東日本大震災が発生し、一瞬のうちに多くの命が失われました。いつ何時この生命が失われるかもしれないという、まさに諸行無常の世であることを思い知らされました。それ故に命の尊さ、命のつながりを自覚せずにはいられなくなったのです。
 私たちは、科学の進歩や経済成長によって物の豊かさ、便利さはかなえられましたが、人生の苦しみは解決できないことに気づき始めています。医学の進歩で世界一の長寿国になった物の老病死の苦は去らないのです。仏教はその人生苦を除く教えです。苦の原因は煩悩(欲望)にあり、煩悩によって争いがおこり、国は乱れます。さまざまな社会問題の解決に政治、経済、教育界が努めますが、人間の問題を抜きにして根本的な解決はできません。
 混迷の時代こそ、仏教の役割は大きいのです。東日本大震災のあと、「仏教」に期待される声が大きくなってきていると実感しております。便利さや物の豊かさよりも、本当の確かな支えや、よりどころを求める人々が増えてきたからでしょう。大震災で肉親を亡くし、避難生活をされた多くの方々が各宗本山の大遠忌法要に参拝され、仏様にぬかずかれたのは、確かなよりどころを求められた姿でありました。
 大震災は、混迷の時代に寺院や教団が果たす役割を教えてくれました。各教団のボランティア活動は現在も休止することなく続けられており、さまざまな改革にも乗り出しています。社会情勢の変化で引き起こされる問題に素早く対応する態勢づくりをして、苦しむ人々の声を受けとめ、解決へと導かねばなりません。
 浄土真宗本願寺派においてはすでに自死の問題、いじめ・ひきこもりなどの相談所を開設しています。医師と僧侶とが連携して患者やその家族をケアし、病老死の問題にも取り組んでいます。特にがんの末期患者の方々には、僧侶の存在とその役割は実に大きいのです。


 葬儀の問題や宗教離れについても、それぞれの教団で現在、調査や研究が進められています。葬儀は、僧侶と地域の人々や葬儀業者との共同作業によって、その地域にふさわしい葬送文化として構築されるべきです。皆が「いい葬儀だったね」と感動する儀式となるのが理想です。
 しかし一番重要なことは、僧侶自身の日常のあり方です。僧侶の役割は時代や環境が変わっても仏教の本意に基づき、その教えを伝えることで、親鸞聖人がいわれる「自信教人信じしんきょうにんしん」(阿弥陀仏の本願の救いを自ら信じ、他人にもその信を勧める)に尽きます。今も昔もなんら変わるところはありません。
 日本には7万余の寺院があり、それぞれ仏教行事が行われています。日本は仏教が世界で一番定着している国かもしれません。農業を主体としたわが国は豊かな自然の中に四季がありました。日本文化には仏教からできあがったものが数多く残されています。日本の歴史は仏教なくして語れないのです。
 ところが、現在大都市への人口流出によって国土の大半を占める農村は荒れ地に変わり、農業は片隅に追いやられてしまっています。一方、都市へ移り住んだ人々は競争者家の中で一生を終えてゆくのでありましょう。
 自然とともに暮らし、田畑を耕し、ものを育て土に生きる農村の生活は、ものの命と共存しているという実感を養ってくれます。経済優先の価値観の転換が図れれば、都市に集中する人口は農村へ戻り、農業の再生の道がみえてきます。農村復活は、日本の復活につながり、人の心の豊かさを取り戻すことになります。自然との共生を教える仏教は、人々の価値意識を変える大きな力を持っています。


 自然を征服することを目指してきた西洋の近代文明では、地球規模で深刻化する自然破壊を止めることはできないでしょう。仏教精神は、草木を含めたすべての生命を平等に尊いとみます。「一切衆生」を説く仏教の教えを日本から世界に向けて発信しなければなりません。
 心豊かな社会とは、自然とともに生き、全ての命を尊び、絶対平和を願う社会です。その実現のためには、私たちは仏教によって自他ともに心豊かな社会を構築する具体的な努力を一歩一歩積み重ねてゆかねばなりません。一人一人が、相手を敬い、助け合う心を育て、そして、相手に感謝することが、心豊かな社会への第一歩となるに違いありません。

ねるけ むほう

たちばな・しょうしん 1942年、岐阜県生まれ。龍谷大大学院博士課程(仏教学専攻)単位取得満期退学。現在、岐阜県本巣市・圓勝寺住職、全日本仏教会評議員、岐阜県仏教会長。2009年、浄土真宗本願寺派総長に就任。龍谷大理事長、全日本仏教会常任理事、真宗教団連合理事長などを歴任。著書に『CDブック古寺をめぐる こころの法話No.4』(朝日新聞出版)。