棚から庵主さま
宮田 隋麗 みやた・ずいれい  2015年12月1日(火曜日)中日新聞「人生のページ」より
旅行ライターが尼僧に
仏と生きる旅に導かれ

 「棚からぼた餅」と言ったら叱られるだろうけれど、「庵主あんじゅさま」と呼び掛けられるたびに、高い棚から突然何かが私を直撃してきたような日のことを思い出す。落ちてきた者は、とても重く、なかなか手ごわい。しかし、時に私を笑わせ、慌てさせ、心も身体もまあるく膨らませてくれつつある。
 「どっちもやったらええのや。世界中を飛び回って〝空飛ぶ尼さん〟になったらどうや?」
 尼僧としての暮らしを歩み始めた時、ある程度実績を積んだ旅行ライターとしての大きな仕事のオファーもほぼ同時にやって来た。どちらかを諦めなくてはならないと、深刻な面持ちで師僧に会いに行ったところ、師の口から出たのは、昔読んだ童話に出てきた〝空飛ぶ修道女〟を思わせる言葉だった。
 西山せいざん浄土宗の宗門一の名説教師といわれ、15人以上の弟子を次々と育てた師、橋本随暢ずいちょうの口癖は「阿弥陀さんに任せといたらいいのや。ええようにお手配してくれる」だった。それを聞くたびに、私は「いくらなんでも無責任だろう…」と少し反発する気持ちがあったのだが、このときばかりは大喜びで師の言葉に従うことにした。以来カナダを拠点に、旅行ガイド本や雑誌の取材で世界中を走り回り、日本に戻ったときは頭をツルツルに剃って、和歌山県南部町(現・みなべ町)の師僧の寺やで暮らす生活が始まった。


 日本では、僧侶が結婚して家庭を持つのが〝普通〟になってから久しい。住職となった僧侶は弟子を育てるのが大事な勤めの一つだが、息子や近親者以外の者を弟子とする人は少ない。このいう状況だと、寺の関係者に産まれない限り、僧侶になる道を探すのは難しくなる。ましてや、女性が出家しようと発心しても、尼寺は年々少なくなるばかりだし、男性僧侶の弟子にしてもらえる道は狭いのが現実だ。私も、この少々風変わりというか、万事阿弥陀様まかせの師僧に、「あんた尼さんに向いてるなぁ。どうや?」と唐突に声をかけられなければ、出家もできなかったろう。
 橋本師と出会ったのは25年前。カナダ・バンクーバー市近郊に西山浄土宗唯一の海外寺院、東漸寺が建立され、当時現地の新聞記者をしていた私は創建願主の橋本師をインタビューに訪れたのだ。
 寺を造るまでの苦労をいかにも楽しそうに語り始めた師は、私が大学院で比較宗教額を学んだと聞いたとたん、いきなり熱心に出家を勧めはじめた。実は出家を勧められたのはそのときが初めてではなかった。禅宗の僧侶の通訳をしたときにも、同じようなことを二回も言われたのだ。友達には「世を儚はかなんでいるような風情だったのか?」と笑われ、自分もただの冗談だろうと思った。しかし、三度目には少し気持ちが違った。いったい三人の僧侶は私のどこが出家者に向いていると思ったのだろうか。正直言うと宗教的な発心というより、好奇心を猛烈に刺激されたのだ。この時私は、阿弥陀仏と生きる」という旅に誘われたのかもしれない。


 尼僧は誰にでも向いているというわけではないが、ライフスタイルの選択肢の一つとして、もっと知られてよいと思う。自分の選んだ信仰を暮らしの中心におき、肩肘はらずに自立した生活が送れるし、体さえ元気なら何歳になっても役割があるのもいい。貧しいのもかえって清々すがすがしいし、年を取るほど宗教者として深みを増す可能性さえもあるのだ。もちろん、私のように幾つになっても未熟な者もいるが、それでも「あそこの尼さんは、いつも笑ってて楽しそうだなぁ」と思ってもらえれば、それなりの役に立つのではないか?
 一年間の本山での修行を終え、それまでは本の中だけに広がっていた仏教が、私の「生き方」になった。本来なら、師僧のもとで研鑽を積むべきなのだろうが、私はカナダへ戻り、旅行ライターの仕事が来るたびに勝手に飛び回っていた。オーロラの取材で凍傷になったとか、ハイウエーに出現した大きなワニと衝突しそうになったと話す私に、師僧は会うたびに「それも修行だよ」と笑ってくれた。

海外経験を仏の教えに
今を生きる人に寄り添う 

 「三分間の間に『清潔なトイレが不可欠』って、6回も言いましたね」
 演壇を降りてからも均等で指先がまだ少し震えている私に、ネパールから来たという新聞記者は近づいてきた。
 2012年9月、お釈迦様がお悟りを開かれた聖地ブッダガヤで、ある国際会議が開かれた。テーマは「インドの仏跡にもっと多くの人を呼ぶには、どうすべきか」。約二百人の参加者の半分は世界各地から来た僧侶、残りは旅行関係者だった。僧侶は仏跡を巡礼することの功徳を語り、旅行業者は具体的な旅行プランを話し合った。
 「日本では〝仏像ガール〟と呼ばれる女性たちが寺を訪れることがブームとなりつつある。巡礼に出る若者も少なくない。伝統的な信仰からの行動ばかりではないだろうけれど、それをきっかけに仏教み目覚める人もいるかもしれない。そうした人びとを呼ぶには、まず清潔なトイレだ!」
 可愛らしいイラストで仏像を紹介した雑誌や、カジュアルな服装で巡礼する女性たちの写真を見せながら、私は日本の寺院参拝事情を紹介したつもりだったが、どうやら聴衆の耳に残ったのは別のことだったらしい。


 旅行ライターの仕事と焦慮としての暮らしとを両立させることができるのか。出家してから20年を超えた私は、一つの壁に直面していた。このインドでの会議では、観光と巡礼などの宗教的な行動をどう結びつけていくかを考えさせられ、ライターとしての自分の経験を僧侶としての役目に生かしていけるという自信につながった。これこそ橋本随暢ずいちょう師のいう「阿弥陀様のお手配」だったのかもしれない。
 それから二年たった2014年の春、私は様々な方が結んでくださったご縁で、名古屋の桶狭間にある慈雲寺という尼僧寺院の住職に着任した。先代の光田凖眞尼は地元の人びとに愛され、信仰心の篤あつい僧侶だったという。私はインドから戻った後、弟子にしていただいたが、教えを直接受けることはできなかった。「しばらくは好きにしていなさい」という言葉を自分に都合よく解釈して世界を飛び回るのをやめなかったからだ。
 14年3月、凖眞尼が遷化せんげされたという連絡を受けたとき、私はカナダ先住民の神話の取材中だった。その瞬間は何か大きなものが突然私の上に音を立てて覆いかぶさってきたような気がしたが、嫌だとか困ったという気持ちにはならなかった。困ったのはむしろ慈雲寺の檀信徒やご近所の方々だったろう。〝棚から転げ落ちてきた新庵主さま〟は色々な意味で僧侶として出来がよくなかったからだ。しかし、多くの方が手を差し伸べてくれるので、少しずつ住職の暮らしにも慣れてきつつある。
 住職になってから、葬儀や法事は人の「命」や「生き方」について考えるとても良い機会だとあらためて思うようになった。先祖供養も僧侶の大切な役割だろう。しかし、仏教は何よりもまず、穏やかに生きるための教えだ。
 今、寺院の維持は難しい時代に入っている。後継者が激減している尼寺はなおのことだ。しかし、尼僧寺院だからこそできることはまだたくさんあるはずだ。今を生きる人びとの心に寄り添うのは「気軽に話を聞いてくれる庵主さん」なればこその役割ではないか。
 日本に戻ってきて、多くの人がスマホに熱心な一方で、直接人と会って会話を楽しむ人が少ないのが印象的だった。短い文章の槍土地が何百回続いても、かえって孤独は深まるのではないだろうか。パワースポットや仏像への興味も、漠然とした不安の表れのように感じられてならない。


 スマトラ沖地震直後のプーケット島や緊張するウクライナとロシアの国境付近、カナダの亜北極圏の鉱山の町、贅沢なホテルの裏に広がる南アフリカのスラム街、肌が危険を感じてチリチリとしてくるほど治安の悪いエクアドルの街角など世界のあちこちで、さまざまな状況下で苦しみ悩み、時には笑顔で生きる人びとの姿に接してきた。その経験をどうやって仏の教えに結びつけて伝えられるかが、これからの私の課題だ。慈雲寺のブログ(おろおろ日記)を書き続けることや、毎月の「尼僧と学ぶ優しい仏教講座」をその第一歩にできればと思っている。
 毎朝、門と本堂の扉を開けて温かいお茶を用意する。いつも誰かが本堂でお茶を飲みながら話をしていたり、隅の机で写経をしていたりする寺になるとうれしい。あ、まずは境内のトイレをきれいに掃除しておかなければ!

ねるけ むほう

みやた・ずいれい 1951年、東京都生まれ。75年から2014年までカナダ在住。州立ブリティッシュコロンビア大大学院修士課程修了(比較宗教越学専攻)。名古屋市の西山浄土宗相羽山慈雲寺住職、旅行ライター(筆名・宮田麻未)、通訳、翻訳家。共著書に『證空辞典』(東京堂出版)、著書にガイド本『カナダーメープルの風薫る森と湖の国』(昭文社)、共訳書にハワード・ラインゴールド著『バーチャル・リアリティ』(SOFTBANK BOOKS)。