私を変えた患者さん
種村健二朗 たねむら・けんじろう  2015年3月6日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
医師の意識改革
死の淵でも向き合う

 がんの医療に関わって生きてきた。その人生で何度か、患者さんたちに大きく見方を変えられたことがある。予期しない体験だったが、その体験が今の私を支えている。
 1972年、がんの専門病院に赴任して、無我夢中で婦人科の治療に努めていた。当時は、手術、放射線、そして抗がん剤の治療などすべてを駆使し、再発しても亡くなられるまで治療を続けた。
 再発する患者さんは多く、がんが骨盤の中に浸潤して強い痛みに苦しんだ。鎮痛効果の強い医療用麻薬はまだなかった。治すあてのない治療が行われ、歩く機能も失い、衰弱して亡くなっていった。私は、一分でも一秒でもと、延命を願い、「頑張れ!」と励ました。誠実に治療する医師の姿をみて、患者さんは死ぬという不条理を受け入れてくれると信じていた。力及ばず治せなくとも医師は誠心誠意を尽くすべきだと教えられたし、患者さんも家族も、医療者たちもそう思っていた。
 治せないのだから、病気や病状、まして予後について、患者さん本人に説明しなかった。「死ぬことを告げるのは害があるだけだ」と、告知は禁止されていた。そんな時代に出会った患者さんがいる。


 M子さんは30歳代。子宮頸がんが進行し過ぎて手術ができなかった。やむなく放射線治療をしたが、そのがんは放射線治療で治すことの難しいタイプだった。再発してお尻から足へ向かう痛みが出た。何とかごまかして治療を続けていたときだ。
 「本当のことを話してほしい」とM子さんは言った。新米専門医の私はごまかし切れなかった。再発したこと、余命も三ヶ月ほどであることを話してしまった。告知したことに動揺し、禁止されていることを思い出して後悔した。聞いた患者さんの苦しむ顔を見るのが怖かった。
 ところが、外来にやってきたM子さんは満面に笑みを浮かべていた。熱心に自分のことを語り始めた。夫との出会いのこと、二人の息子との日常を話した。特に下の息子のことが気にかかっていた。小学校の入学式のときは「行ってらっしゃい」と言いたいから絶対にそれまで生きると熱く語った。私は、診療のなかで患者さんのプライベートな話をしたことなどなかった。死ぬことを話したことばかりが気になって落ち着かなかった。内心、早く帰ってほしかった。
 病状は進行した。彼女はなおも笑顔でいたが、痛みが強くなり、ついに歩けなくなった。近くの病院に紹介状を書いた。正直ホッとした。ある日、紹介した病院から死亡の知らせがきた。死ぬことを告知したことが問題にならなかったことに、心底安堵あんどした。


 突然、M子さんの夫から分厚い手紙が届いた。気持ちは暗転した。死ぬことを告げたことへのクレームだと思った。恐る恐る読んでみると、なんとお礼の手紙だった。亡くなるまでの彼女の日常と経過が丁寧に細かに書かれていた。下の息子の入学式のときは、意識がもうろうとしているのに「行ってらっしゃい」と言って送り出したという。そこまで読んで、「よかったな」と思い、ホッとした。
 最後に「妻は、死ぬことをまったく知りませんでしたので、最後まで不安も恐れもありませんでした」と書いてあった。この手紙は、死ぬことを伝えなかった私の配慮に夫が感謝したものだった。
 M子さんは夫にさえ死ぬことを話さなかったのだ。その事実に驚がくした。晴れ晴れとした気持ちは消えた。彼女は告知した私をかばってくれたのである。それなのに私は自分のことしか考えなかった。なぜもっと親身に彼女の話を聞かなかったのか。告知したことばかりにこだわったからだ。次から次へと、M子さんの話すシーンが浮かんで消えた。不意に自分の醜さが見えた。
 この経験があってから、がんという病気のこと、そして、死ぬという病状であっても、患者さんと普通に話し合うことができるようになっていった。M子さんは、病気であっても、たとえ死ぬような状態であったとしても、人は、何も欠けたところがない完全な人間なのだと気付かせてくれた。私はそう思っている。

予測を超える力
苦しみからの解放 

 がん治療医から終末期医療の担当医になるきっかけは、1987年に「がん患者・家族語らいの集い」の立ちあげに加わったことだった。がん患者さんや家族、遺族が東京・築地本願寺に集まり、その苦しみを話し合う会である。
 死ぬという終末期状態の告知は定まっていなかったが、すでに本当のことを話し合っていた私は、その会に喜んで参加した。ところが私が、がんの専門医と分かると、家族や遺族は怒った。治療で体験した医師の言葉や態度への不満や怒りがいっぱいだったからだ。一方、死ぬことを自覚した患者さんたちは、優しかった。彼らは、心置きのない死に場所を望んでいた。
 二十世紀の終わりに緩和ケア病棟の担当医となった。病棟に入院する要件を「本人が希望すれば、誰でも入棟できる」とし、うそのない病棟を目指した。「死ぬ状態で苦しんでいるうえに死ぬことなんか告げるな」「死ぬ病棟に自分から入る患者さんはいない」と反対されたが、患者さんへの信頼と敬意を大切にして趣旨を変えなかった。その病棟で出会った患者さんがいた。


 三十歳代のS子さんは、胃がんだった。治癒を目指す病棟の入院を断られ、やむなく緩和ケア病棟の入院を希望した。家には帰れない事情があった。「再発したこと」も「治らないこと」も説明された。治療手段も尽きたと伝えらえたが、治ることをあきらめなかった。
 「まだ死ねない。治りたい」と、怒ったきつい表情で一点を見据えた。病棟のスタッフたちともなじまなかった。彼女には、小学二年生の娘Aちゃんがいた。金曜日になると、夫がAちゃんを連れてくる。夫は観光地のラーメン店主で、多忙になる週末に娘を置くとすぐに帰った。Aちゃんは、病室の長椅子でおとなしく遊び眠った。彼女がくると、S子さんの表情が穏やかになった。少し笑顔もみえた。病棟のスタッフは、Aちゃんが好きだった。
 しかし娘さんが帰ると、苦悶の表情に戻った。病棟ではカンファレンス(会議)を繰り返し、苦しみから解放する手段を探して実践したが、効果はなく、病状は進行した。上半身を動かせるだけになった。
 「小さい子どものいる母親なら、どんな状態になっても治りたいと思うのは当然だ」。私たちはケアをあきらめた。その後、Aちゃんが「ママは、わたしを嫌いになった」と小さな声で言ったのを聞いたと、スタッフの一人が伝えてくれた。「ママは、抱いてもくれないし、お話ししてもくれない」と。驚いた。Aちゃんが苦しんでいると、考えたこともなかった。
 「S子さんに、自分の死ぬことをAちゃんに話してもらおう」。これが私たちの話し合いで導き出された結論だった。「生きたい」と切望する患者さんに「自分が死ぬこと」を娘さんに伝えてもらうことで何が起こるのか予想もできなかった。本当のことを話し合うなかで新しい展開を期待したのだが、不安だった。どんなに怒られようとお願いすると心に決めて話し始めた。が、その内容を聞いた瞬間、彼女は怒った。なおも真剣にお願いを続けた。やっと納得し、承知してくれた。
 「ママは、Aちゃんがだーい好き」と笑顔で話し始めたことを同席したスタッフが報告した。抱くことのできなくなった腕を回し、精いっぱいの力で抱いた。S子さんは自分の傷痕や膨らんだ腹部も娘に触らせて、死んでゆくことを伝えたという。


 Aちゃんは、再び子供らしい姿を取り戻した。もっと驚いたのは、その後だった。険しい顔つきで天井を見つめ続けていたS子さんの姿が消えた。家族も次々に訪れた。「ありがとう」と、誰にでも彼女は言った。あのS子さんが苦しみから解放されていた。亡くなったのは七夕の二日前だった。「ママ だいすき」と書かれたAちゃんの短冊がササに下がっていた。
 S子さんは、死ねないというこだわりを、あっという間に手放して苦しみからの解放を成し遂げていった。どんなに別れたくなくても別れなければならない現実を母娘が共有したとき、まったく予想しなかった親子の安心のある日常が目の前に展開した。
 思慮が尽きたとき、予測できない新しいケアの働きがうまれてくることを、私たちに彼女は気付かせてくれた。
 苦しみは成長する力であり、苦しみからの解放は予測できない展開である。

ねるけ むほう

たねむら・けんじろう 1940年、千葉県生まれ。北海道大医学部卒。東京大産科婦人科教室入局。国立がん研究センターの治療医を経て栃木県立がんセンター緩和ケア病棟担当。現在杏雲堂病院緩和ケア顧問、「仏教カウンセリングを語り合う会」(東京・築地本願寺)講師。著書は『大きい家族』(三五館)『がん体験』(共著、春秋社)『スピリチュアルケアの根底にあるもの』(同、遊戯社)など。