「忙し屋」今昔
山田 史生 やまだ・ふみお  2014年11月21日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
それどころじゃない
「どれ」ならやるのか [上]

 「それどころじゃない」というのが口グセの同僚がいる。「一杯、どう?」「それどころじゃないんだ」。確かにその同僚は、私と違って忙しい。だから「それどころじゃない」のは分かるけど、それにしても、年がら年中、それどころじゃないのである。
 「それ」じゃないとしたら「どれ」をやるのだろう? 「それ」を押しのけてくる「どれ」が、どうして品切れにならないのだろう?
 「それどころじゃない」が口グセの同僚は、いつだって「それどころじゃない」のである。観察していると、しょっちゅう「やることが山積みなんだよ」とボヤいている。口では言わなくても、顔や態度が「それどころじゃない」と言っている。
 そういう同僚を見ていたら、イヤなことを思い出してしまった。高校生のころ、テストの勉強をしていて、数学をやっているときには「それどころじゃない、英語はどうなる」と思い、英語をやっているときには「それどころじゃない、数学はどうなる」と思うというふうに、のべつ焦りまくっていた(ああ、もう二度と戻りたくない)。
 食堂でいっしょに昼を食べても、忙しい同僚はなんとなく気ぜわしなく食べる。どんなに急いで食べたって、せいぜい5、6分の節約になるだけなのに、「それどころじゃない」とコワイ顔をして食べている。その5、6分が、きっと大変なんだろうなあ。ヒマな私は、これ見よがしに、ゆっくり食べたりする。
 「なんでそんなにバタバタしてるの?」と尋ねてみる。いそいろと忙しい理由を言ってくれる。が、いまひとつ要領を得ない。「妙なことを訊くやつだ」という顔をする。どうやら、なんで緊急状態なのか自分でも分からないくせに、のべつ「それどころじゃない」モードで生きているらしい。


 「それどころじゃない」という言葉は、往々にして「やったほうがよいこと」「やりたいこと」をやらないときの理由として使われるような気がする。飲みの誘いをふられた者のヒガミかもしれないが、どうもそんな気がする。
 徒然なるままに『徒然草』をひもといていたら、「それどころじゃない」論が見つかった。(第49段)

 「昔有りける聖ひじりは、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事有りて、既に朝夕ちょうせきに迫れり』とて、耳を塞ふさぎて念仏して、遂に往生を遂げけり」と、禅林の『十因』に侍はべり。

 むかしの偉いお坊さんは、他人ひとが話しかけてきたとき、「急ぎの用事が目のまえに迫っておる」と耳をふさいで念仏し、とうとう往生を遂げたらしい。高僧のいう「火急の事」とは、つまり往生することなのだろうか? どうもそうらしい。なんのことはない、死ぬのに忙しくて、閑人の相手をしている場合じゃないみたいなのである。
 この「聖」は、死ぬことばかり考えて、生きることがおろそかになっている。寸陰を惜しんで修行し、ようやく往生したっていうけど、ホントに往生できたのかどうか怪しいもんである。
 いったい死ぬことが「火急の事」でありうるだろうか。人間の致死率は100%である。急がなくたって、かならず死ぬのにねえ。この坊さん、生きているうちにしなかったことをするために、きっと化けて出てくるんじゃないかなあ。


 忙し屋の同僚に「いつ見ても、きみはヒマそうだなあ」と言われる。1日の大半、私は本を読んでいる。今すぐ読まなくてもよいし、そもそも読まなくてもよいのだが、とりあえずヒマなもんで読むのである。
 本を読むのには時間がかかる。わたしは精神年齢が低いので、成熟した人間の書いたものはなかなか理解できない。「フェスティーナー・レンテー(ゆっくり、いそげ)」とつぶやきながら、のたりのたりと読むのである。

「生きてる」が大事
誰かの大切な存在に [下]

 「それどころじゃない」論を支えているのは、煎じ詰めれば、『徒然草』の第百八段に見える、つぎのような発想じゃないだろうか。

 もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日の中に、飲食おんじき・便利・睡眠・言語ごんご・行歩ぎょうぶ、止む事を得ずして、多くの時を失なふ。その余りの暇いとま、幾何いくばくならぬ中に、無益の事を成し、無益の事を言い、無益の事を思惟しゆいして、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて、一生を送る、最も愚かなり。

 もし「お前の命は今日限りだ」と言われたら、日が暮れるまでのあいだ、なにをすればよいだろう。兼好法師は「今日という日も、そういうギリギリの日と同じはずだ」という。いやあ、実に厳しい。
 飲んだり、食べたり、眠ったりと「無益の事」をやりながら、うかうかと時を浪費して、ふと気づけば残りの時は少なくなってきている。わたしの「その日暮らし」ぶりを見たら、兼好法師は「最も愚かなり」と言うんだろうなあ。


 いつも「明日死ぬかもしれないんだから、こんなことしてる場合じゃない」と屈託しながら生きていると、なにか大切なものを見失いかねない。『徒然草』の第三十一段にはこんな話が見える。


 雪の面白う降りたりし朝あした、人の許り、言ふべき事有りて、文を遣るとて、雪の事、何とも言はざりし返事かえりごとに、「この雪、いかが見ると、一筆ひとふで、宣のたまはせぬ程の、僻々ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞き入るべきかは。返す返す、口惜しき御心みこころなり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。

 雪の朝、手紙を書いた。たぶん恋文だろう。その返事に「雪の風情について一言も書いてこないような情けない人の用件に、わたしは聞く耳をもたない」とあった。ささいな出来事だが忘れられない、と兼好法師はいう。
 「言ふべきことありて、文をやる」というのだから、なにか用件があって手紙を書いたのであって、雪どころではなかったのかもしれない。だが、その女性は、雪の朝、雪について一言もないような人の用件に応える気はないと書いて寄越よこした。せっかく雪が降ったのに、それを愛でられないような人はつまらない、と。
 雪が降ったからといって、いちいち気に留めるなんて、それどころじゃない、と忙し屋は言うだろう。今晩死ぬかもしれないのに、と。でも、それじゃあモテないよ。
 ある学生に「ボクはなんのために生きているのでしょうか?」と藪やぶから棒に問われたことがある。「分からない」と答えることを許さないような顔つきだった。茶化ちゃかすことはできないと覚悟して、私は答えた。「その問いに答えはないんじゃないかな。問いそのものが、すでに答えだから。そんなふうに問うことができるってことが、生きているということなんだよ」。学生はいまひとつ腑に落ちないという顔で去っていった。
 学生の後ろ姿を見ながら、私は考えた。自分はなんのために生きているのかと問うことはよい。けれども、人生から逃げちゃいけない。逃げていると、人生の意味がいよいよ深刻な問題になってくる。
 「生きているだけで丸儲もうけ」という人生観がある。現にこうして生きているということが、当たり前のことではなく、「ありがたい」ことだってことを、頭で分かったつもりになるのは簡単だが、こころから実感するのは容易でない。


 気恥ずかしいが、わたしの持論を書かせていただく。「生きている意味とはなにか」という問いには、「自分はどういう特定の他人にとってのかけがえのない他人として存在しえているだろうか」という自問の形でしか答えられない。だれかにとっての「かけがえのない他人」として生きているとき、私は生きていることを実感する。
 妻とくだらないことをダベっているとき、娘に学校でのグチを聴かされているとき、わたしは生きていると感じる。忙しい人は「それどころじゃない」というだろう。しかし、これ以上に「それ」なことを、私は見つけられそうもない。

ねるけ むほう

やまだ・ふみお 1959年、福井県生まれ。東北大文学部卒。弘前大教育学部教授。専攻は中国哲学。博士(文学)。著書に『孔子はこう考えた』(ちくまプリマー新書)『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)『はじめての「禅問答」—自分を打ち破るために読め!』(光文社新書)など。最新刊は『全訳 論語』(東京堂出版)。