嘘と方便
定方 晟 さだかた・あきら  2014年10月24日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
ひとに教えを説くとき
よき道へ巧く導く [上]

 仏教の重要な語彙ごいに「方便」がある。「嘘うそも方便」という成句があるために、「方便」は否定的なニュアンスで捉えられることが多い。
 明治のキリスト思想家・内村鑑三は正直を至高の徳とし、モーセ、イエス、パウロ等の説くところには方便や策略は塵ちりほどもなかったとし、つぎのように続ける。「日本の国学者が全体に仏教を嫌ひし理由はその説く所が率直を欠き、人を覚悟に導く為に多くの如何いかがはしき方法即すなわち方便に由ったからであります。然しかし乍ながら基督キリスト教には之これがありません」(聖書之研究、339号)。(内村はヤコブが兄を出し抜き父を騙だまして相続権を取得したのを神が是認したことを忘れている)


 そもそも方便は「よき道」を意味する。善巧ぜんぎょう方便という言葉もある。「方」には「正しい」の意と「手段」の意があるから、この一字で「よき道」を表しうる。「便」は「巧うまい」を意味し、「便宜」は「好い都合」、「便通」は「通りが良い」を意味する。「方便」はなかなかよく考えられた言葉といえる。しかし、その方便が、内村によれば、「如何はしき方法」なのである。わたしは仏教学者として方便について考えてみた。
 人に教えを説くとき、直接的な表現を用いる場合と、間接的な表現を用いる場合がある。たとえば「人は死すべきものなり」は前者である。これに対し次のような教え方がある。ある男が死んだ親の墓前で供え物をしては泣いていた。それを見た息子が一計を案じ、死んだ牛に草を差し出しては「食べよ、起きよ」と呼びかけた。それを見た父は「死んだものが生き返るはずがない」といって嗤わらった。息子は「お父さんも同じことをしているではありませんか」といった。男はそれを聞いて悟り、嘆くのをやめた(ジャータカ、No.352)。
 ある女が死んだ子の蘇生を仏に求めてきた。仏は「よろしい。いまだ死者の出たことのない家から辛子からし種を集めてきなさい。それを用いて蘇生させてあげよう」。女は喜んで、そのような辛子種を求めて家々を訪ねまわった。しばらくして女は悄然しょうぜんとして戻ってきた。「死者の出たことのない家は一軒もありませんでした」。こうして彼女は死は普遍的なものであることを身をもって明らめ、嘆くのをやめた。


 同様の話は西洋にもある。ルキアノスによると、犬儒けんじゅ派デモナクス(西暦2世紀)は、ある男が息子の死を嘆いて暗がりに籠こもっているのを見ていった。「わたしは魔術師だ、これまで死者を出したことのない家の名を三つあげたら、息子を蘇生させることができる」。男はしばらく考えていたが、そのような名はひとつも思いつかなかった。デモナクスはいった。「愚かな男よ、死者を出したことのない家などないのに、お前は自分だけが不幸に陥って苦しんでいると思っている」
 『偽アレクサンドロス伝』(西暦3世紀)によると、アジアに遠征したアレクサンドロス大王は自分がいつ死ぬかわからぬと考えて、故国の母が悲しまぬようにこんな手紙を送った。「わたしが凱旋するときには喜びいっぱいの宴会を催したいので、その準備をしておいてください。喜びの宴会なので、これまで悲しみごとに遭ったことのない人だけを選んで招くように」。これはそんな人はいないことをあらかじめ母に悟らせて、母の悲嘆に備えたものであった。
 逸話を用いたこうした教え方は具体的で分かりやすく、「人は死すべきものなり」という抽象的なそれより効果的と思われる。以上の例には、嘘ではないが、それに近い策略が含まれている。これが方便の一つであるが、とくに非難されるいわれはないだろう。

右へ左へ揺れる説法
修行者救済の一心 [下]

 法華経の「三車火宅の比喩」によると、ある陋屋ろうおくが火事になった。父は直ちに屋外に避難したが、三人の子供は危険を知らずに屋内で遊戯に耽ふけっている。そこで父は呼びかける。「お前たちの好きな玩具(羊車、鹿車、牛車)が外にあるから出ておいで」。子供たちは呼びかけに応じて外に出て難を逃れたという。ところが屋外に羊車等はなく、代わりに立派な大白牛舎があり、父はこれを子供たちに授けた。
 ここで陋屋とは穢けがれたこの世、父は仏、子供たちは弟子、羊車等は仏がこれまでに衆生の能力に応じて説いた種々のレベルの教え、大白牛舎は仏の最終的な教えを意味する。仏は衆生を救うために種々の教えを説いてきたが、それは最後に最高の教えを授けるための方便であったという。


 羊車等はなかったのだから、父は嘘をついたことになる。しかし、この場合、正直を貫こうとして子供を死なせてしまったら、その正直にどれだけの価値があるといえるだろう。嘘は悪とされるが、それは嘘が一般に他人を陥れるために使われるからである。嘘には他人の利益を図るためのものもある。医者から「あなたのお母様の余命は三ヶ月です」といわれても、母には「元気になったらまた旅行しようね」という。母に希望をもたせようという心から出た嘘である。
 お世辞は善意から出た嘘である。友人が赤ちゃんを見せたら、かわいくなくても「あらかわいいわね」という。友人から招待状が来たが、興味がないから行きたくないのに、「よんどころない用事があって」と断る。このような嘘は誰もがついた経験をもつだろう。
 嘘のなかには感動を呼ぶものさえある。浜田廣介の童話「泣いた赤鬼」によると、山に棲む赤鬼が村人と親しく交際することを夢見ていた。しかし村人は赤鬼に近づかず、赤鬼は寂しい思いをしていた。それを知った青鬼は赤鬼のために一計を案じた。ある日、青鬼は村里で思い切り乱暴を働き、赤鬼にそれを必死に制止させた。それを見た村人は赤鬼のこよなき友人となった。赤鬼は青鬼に感謝すべく青鬼のもとを訪れると、かれの姿はなく、手紙が置いてあった。「ぼくがきみと一緒にいると嘘がばれるから、ぼくは旅に出ます」。赤鬼は青鬼の友情に涙を流した。


 方便のサンスクリット原語「ウパーヤ」は道、手段を意味する。富士山の頂上に達するためにいくつかの登山道があるように、仏教の真理である無我に達するためにいくつかの道がある。禅は空くうの道によって、浄土教は念仏の道によって無我の境地に達する。空の道とは言葉の呪縛から自由になって「私」への執着を断つことである。念仏の道とは称名に専念することによって自我を忘れることである。
 内村鑑三の批判の対象には空の論書の説き方が含まれよう(上記<上>を参照)。この論書は「空である」といったかと思うと、「不空である」といったり、「空にあらず、不空にあらず」といったりする。これは問答法(ディアレクティケ)の一種なのである。言葉というものは、元来、生活の便宜のためにつくられたものであり、真理を伝えるためのものではない。だが、真理を伝えるためには言葉を用いざるをえない。そのとき相手が特定の言葉にとどまったり拘泥したりしないようにするために問答形式を用いる。言葉が交わされるうちに、相手の心に、いわば「行間」から湧くように、存在の真実に対する了解が生じることを期待するのである。
 謎の禅師、EO師の著書『廃墟のブッダたち/外伝』(絶版)という本に面白いことがかいてある。
 導師はよく、修行者の道を「綱渡り」に例えてきた。弟子が右に傾けば、導師は左に押す。弟子が左に傾けば、右に押す。弟子はいう。「さっきは左に押したのに、どうして右に押すんですか。左右の一体どっちが正法なのですか」
 弟子はいつもこうした質問をする。導師がなぜ毎日百八十度も論点の違う説法をするのか分からず、「どれが正しいのかの選択と確定」に夢中になる。左を押したり、右を押したり、この導師は一体なんなのだ、と不満を抱く。だが、導師にしてみれば、言い分はたったひとつだ。「バカたれめ。あんたが落っこちないために言っているんだろうが。このボケ」
 この物語の中に方便の意義が鮮やかに浮き出ている。

ねるけ むほう

さだかた・あきら 1936年、東京生まれ。東京大教養学部卒、同大学院印度哲学博士課程終了。文学博士。東海大専任教員などを経て現在、東海大名誉教授。著書に『須弥山と極楽』『空と無我』(講談社現代新書)『インド宇宙論大全』(春秋社)など。