「諸行無常」から学ぶこと
田上 太秀 たがみ・たいしゅう 2014年8月29日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
全ての事象は過ぎ去る
今、怠けず己を磨け [上]

 諸行無常といえば、この世ははかないという意味の言葉として理解している人が多いのではないだろうか。このような解釈を定着させたのは、もとはわが国では平家物語の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な文句にあったと考えられる。
 祇園精舎は釈迦と弟子たちの修行道場で、これは古代インドの都シラバースティーにあった。釈迦はここで数多く説法したといわれる。また、この精舎には病んだり、老いて遊行ができなくなった修行僧が住んでいたので、ここは医療施設であり、介護施設でもあった。
 平家物語の作者はこの祇園精舎の事情を教わっていたこともあって、諸行無常の言葉に命のはかなさ、人生の空しさを読み込んだのであろう。蛇足であるが、実は祇園精舎には吊り鐘はなかったが、作者はわが国の寺院にある吊り鐘のようなものがあったと想像したと考えられる。
 季節の変化で暑さ寒さを感じる。若さがなくなる、顔や手の甲にしわが増える、もの忘れする、体力が衰えるなどで人はからだの無常を感覚的に実感する。
 花が散る、木が枯れる、光景は一瞬に消える、病や事故で死ぬなどでもいのちの無常を感じる。
 このように物はみな千変万化していることを、有為うい転変、人生朝露のごとし、人生夢のごとし、栄枯盛衰などと人は日常的に感覚するものは無常であることを知っている。


 かつてわが国の宗祖たちにも無常観を詠んだ歌があった。
 道元禅師は「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪きえですずしかりけり」と四季の移り変わりを詠んだ。日蓮上人も「春は花咲き、秋は菓このみなる、夏は暖かに、冬は冷たし。時のしからしむるに有らずや」と詠んでいる。
 末法時代といわれた鎌倉時代に生きた宗祖たちは四季の移り変わりを感覚的に捉え、世相と人生の無常を詠んだが、そこには厭世えんせい的無常観が読み取れる。


 わが国の仏教や文学では共通して世の中ははかない、人の命は空しいと捉えていたが、釈迦が説いた諸行無常の意味は決して厭世観を述べたのではなく、生きることの意義を教えようとしたのである。
 釈迦が死ぬ間際に数人の弟子に残した遺言は「お前たちに告げよう、すべての事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」であった。
 事象は光陰のように過ぎ去るので、いま君たちが為し終えていないことを怠けず努めて達成しなければならないと告げている。ここには厭世的な意味は微塵みじんもない。
 我々が口にする諸行無常の原意は「すべての事象は過ぎ去るもの」であった。この漢訳語が「諸行無常」である。事象はつねに変化し消え去るという道理をよく観察し、熟知することを教えている。
 釈迦は己の身体はもろく、すぐに老いる。病で伏すことがある、死が突然に訪れる。この老病死の苦しみで心を煩わされ、悩まされて、世をはかなんでいてはならないという。
 時の移り変わりをはかなんだり、物の色かたちが変わるのを嘆いたのではなかった。諸行無常は世間の道理であることを教えている。
 したがって彼の遺言は、事象は無常であるから、時を惜しんで目的を達成するために一時も怠けてはならない、精進せよと、生きる意義を教えている。その精進の目標は己を磨くことである。
 繰り返すが、釈迦が弟子たちに告げた諸行無常の趣旨は厭世的な無常観ではなく、すべての事象は無常であるから怠けず「今」を進取的に生きることであった。

世間は衆縁和合している
思い通りにはならず [下]

 諸行無常(作られたものは変化する)の思想は仏教独自のものではない。
 すでに古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(紀元前535〜475年)は「我々は同じ川に浴し、また浴しない。我々は有り、かつ有らず」という不可解な言葉を残している。
 これは「たえず同じように流れる川になにも変わらぬ己が沐浴もくよくしているのを観察すると、川の流れは絶えず新たな水が流れ来て、流れ去っていて、一時も同じ川の流れはない。といっても、見ようでは同じようにも見える。また、沐浴する己の体の内外はたえず変わり続けているではないか。しかしちょっと見る限りではなにも変わっているようには見えない。要するにものの在り方をよく観察すると、みなたえず変化している」ことを述べたのである。
 また、ピタゴラスの徒であるエピカルモスは「感覚するものはたえず変化している」と述べている。
 古代インドのウパニシャッド哲学者の間でも諸行無常が説かれていた。ウパニシャッド思想では、唯一絶対のブラフマン(創造神)が世界のあらゆる物を創造し、その創造物にアートマン(ブラフマンの分身)となって内在し、個々の物を支配すると説いている。
 このブラフマンだけが永遠不滅で常住であるが、彼が創造した物はみな無常であるという。
 上に紹介した諸行無常の考えは神が創造した物、あるいは世界は無常という点で共通する。つまり神が創造した物はみな千変万化し、壊れ、衰え、滅びるという考えである。
 神を立てて信仰するキリスト教やイスラム教でも神だけが絶対不滅であり、神が創造した物は無常と教えている。


 ここで意地悪な質問を読者に呈し、一緒に考えていただきたい。「全知全能の神、唯一絶対の神はどうして無常な物ばかり造ったのだろうか?」「最初に世界を創造した時から現在までに、神はなにか不滅で常住な物を造っただろうか? もし造っていたとしたら、それはどんな物で、どこにあるのか?」
 考えてみると、絶対なる神が不滅で常住なものを造れないことはないはずだ。なぜ造れないのだろうか。


 これらの宗教や哲学で説いている諸行無常と根本から異なる説を唱えたのが釈迦である。彼は神とか霊魂の存在を否認した異色の思想家である。
 彼はあらゆる物は種々の原因と条件によって作り出されたさまざまな要素が寄り集まり、互いに依存して出来上がった物ばかりであると説いた。この在り方を仏教用語では縁起えんぎといい、因縁所生いんねんしょしょうともいい、衆縁和合ともいう。なかでも筆者は衆縁和合の用語を常用している。
 もろもろ(衆)の原因と条件(縁)が調和(和合)して物は作られ、そして滅びるというのがこの用語の意味である。
 釈迦は衆縁和合しているから、諸行無常であると説く。だからすべて己の思うように、願うように、欲するようにならない。諸行無常であり、己の思うようにならないのだから、私とか私のものは何一つないと知らなくてはならない、と。
 私とか私のものがあれば、ものごとは己の思うように、願うように、欲するようになるはずである。だがそのようにはならない。己の思うようにならないのは諸行無常であるからだ。
 では世間が諸行無常なのはなぜなのか。答えは世間は衆縁和合しているからである。
 世間はあらゆる物が寄り集まり、依存して作られているので、個々の物が独自に自立して存在することはできない。そして物は諸要素の集まりであるから、いずれ壊れる。滅びる。だから無常なのである。これが世間にある物の真相である。


 人は世間にはなにか不滅な物があると思い込んでいるが、そんな物はなにもない。その思いこみが煩悩を生むのである。世間は衆縁和合しているから無常であり、己の思うようにならず、私の物もないことを「すべては空である」と釈迦は言った。物はすべて造られたもの、いずれ無に帰す。この道理に目覚めるのがさとりである。

ねるけ むほう たがみ・たいしゅう 1935年、ペルー・リマ市生まれ。東京大大学院博士過程終了。インド仏教・禅思想。駒澤大教授、駒澤大禅研究所所長などを歴任。駒澤大名誉教授、文学博士。主な著書は『仏教と女性』『ブッダが語る人間関係の智慧』(東京書籍)、『仏陀のいいたかったこと』『仏典のことば』(講談社学術文庫)、『仏教の真実』(講談社現代新書)『ブッダ臨終の説法』全4巻(大蔵出版)など。