#4−3 死者の言葉

夕焼け

 後は、ここか。
 ここまで彼女の待ち伏せはなく、小田切はとうとう一昨日彼女と会った公園まで来てしまった。
 だが、そこに彼女がいないのは一目見て明らかだった。
 夕焼けに薄く染まった公園はひっそりと静まり返っており、例のブランコはさびついたように沈黙を守っていた。
 由美子に嘘をついてまで優先させた結果がこれだ。
 小田切は心はやらせて公園にやって来た自分がひどく間抜けに感じられた。
 その時、後ろに人の気配を感じて慌てて振り返った。
 そこには、小さな男の子がホコリまみれになって立っていた。
 小田切と視線が合うと、少年は小田切の脇をすり抜けて砂場に走り込んだ。そして、転がっているサッカーボールを両手で抱えると、逃げるように走り去っていった。
 忘れ物、か‥‥
 再び一人になった小田切は、ぼうっとして夕焼けを眺めた。
 もう少し待つか。まだ来ないと決まった訳じゃない。彼女にも都合があるのだろう。
 約束をしている訳でもないのに、小田切はそんな目茶苦茶な思考で公園のベンチで一人時間をつぶした。
 しかし、一時間待っても彼女はやって来なかった。
 辺りの闇は深まり、石像と化したような男とゆっくり同化しようとしているようだった。
 ふと、ブランコをこぐ彼女の姿が小田切の瞼に浮かんだ。
 目をこすると、それは瞬く間に薄闇に消え去った。
 ‥‥おかしいぞ、小田切恭助。
 得体の知れない少女に危うく深入りしそうになっていた自分を、小田切はそうなぐさめた。
 向こうが勝手に手を引いてくれるなら、それにこしたことはない。これで平穏な日々が再び戻ってくるのだ。
 それでも、家への足取りは重たかった。公園から歩いて五分の道のりがやけに長く感じられた。
 小田切はマンションの前でぴたりと足を止めた。
「遅かったのね」
 マンションのエントランスにカナの姿を認め、小田切は仰天した。
「ど、どうして、ここに?」
「この前、あとつけたから」
 少女は事もなげにそう言った。
 小田切は駐車場の陰に彼女を引っ張った。
 少しも悪びれない相手の態度に小田切はむっときていた。
「いい加減にしてくれないか! そっちの気まぐれにつき合うのも限度がある!」
「怒ってるの?」
「怒ってなんかいない!」
 彼女は小さく首をかしげ、腕時計をのぞいた。
「‥‥ひょっとして、公園で、待ってた?」
「‥‥」
 小田切は自分の心の中を見透かされたようで気恥ずかしくなった。
「話が、あるんだろ? どこか近くの喫茶店で‥‥」
「家、見せて」
 彼女の予期せぬ言葉に小田切は狼狽した。
「それは・・・・・・困る」
 家には圭太がいる。それに、姉の鮎子もいつ来るかもしれないのだ。
「どうして? 何が、困るの?」
「僕にも家庭というものがある」
「家庭?」
 カナは怪訝そうな顔つきで言った。
「奥さん、亡くなってるでしょ」
「子供がいる。二人でもれっきとした家族だ!」
 小田切は思わず声を荒らげていた。
 それに対するカナの表情はいつもとは少し違っていた。
「‥‥子供?」
「ああ、そうだ」
 カナの態度を小田切は不思議に思った。
「うそ‥‥」
 彼女は小田切の言葉を受け入れられないと体全体で語りながら、そう口にした。
「嘘じゃない。僕には子供がいる」
 カナはさらに激しく反論した。
「嘘よ。あなたの奥さん、子供、産めなかったって」
「うるさい!」
 小田切の怒声が駐車場の暗闇に響いた。
 明らかにカナは圭太の存在を知らない様子だった。会社の場所や電話番号、加奈子の存在を知っているのに、圭太のことだけは知らないのだ。
 小田切は嫌な予感がした。圭太の秘密まであと幾許もの距離もなかった。
「‥‥他の人の、子供?」
「君には関係ない」
「‥‥そう。でも、あなたの家が、見たいの。あなたの、子供がいる、家を」
「どうして僕がそんなことをしなきゃいけないんだ」
「‥‥明日の朝、マンションの郵便受け、全部、あの写真、入ってたら?」
 その言葉に、小田切は彼女のカバンをひったくろうと素早く手を延ばした。
「イタッ!」
 少女のか細い悲鳴に小田切は思わず手を離した。
 小田切は中学生に翻弄される自分が情けなかった。
「十分、だけだ。狭いところだ。それで充分だろ」
 彼女は手をさすりながらしばし考えた末、小さくうなずいた。
 小田切は人目を避けて、エレベーターではなく非常階段を上った。
 マイペースで後ろを上ってくる彼女に対し小田切はもう一度念を押した。
「本当に十分だけにしてくれ。それと、息子には余計なことは一切言わないでくれ」
「余計な、こと?」
 首をかしげる彼女に小田切は怒鳴った。
「余計なことは余計なことだ!」
 彼女の圭太への意外な興味が小田切の苛立ちを強めていた。
 五階についた時、小田切も彼女も肩で息をしていた。
 小田切は玄関の前でしばらくためらった後、チャイムを押した。
 玄関の向こうで圭太の元気の良い返事と足音が聞こえた。
「おとうさん?」
「そうだ」
 予想通り玄関のドアを開けた圭太は、父の後ろに立つ少女の姿を見て、不思議そうな顔をした。
 圭太が口を開く前に小田切は言った。
「お客さんだ。すぐに帰るから圭太は部屋に入ってなさい」
「おなかすいたよぉ」
 圭太は小田切にすりよって不満そうな声を上げた。
「言うことを聞きなさい」
「ゴハンー」
 バンッ、バンッ
 小田切は廊下の壁を二度強く叩いた。
 それを聞いて、圭太はしゅんとして奥の自分の部屋へ駆けていった。
「‥‥どうぞ」
 圭太が奥へ引っ込んだのを見て、小田切は不機嫌そうにカナを家へ上げた。
「ああいう風に、子供をしかるのね」
 くつを脱ぎながら彼女は言った。
「君が来なけりゃ怒る必要もなかった」
「そう? まるで、ロボットみたい」
「‥‥」
 小田切は2DKのマンションを早口で彼女に説明した。
 加奈子が生きていた頃から賃貸で借り続けているマンションは年季ははいっているが、造りがいいため何の不自由も感じていなかった。
 だが、カナは小田切の言葉を聞いてもいないようで、ただふらふらと歩きながら部屋の中に視線をさまよわせていた。
 小田切は台所のイスに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。
「気がすんだか?」
「ながいのね」
「え?」
 彼女はテーブルの向かいにやって来て小田切と向き合った。
「奥さん、いた頃から、でしょ?」
「ああ」
「どうして、引っ越さないの?」
「気に入っている」
「ローンでも、あるの?」
「まさか。賃貸さ」
「‥‥想い出が、あるのね」
 カナの瞳に宿る光の色を読み取れず、小田切は自分が一層不機嫌になっていくのを実感した。
「期末試験、来週からだそうじゃないか。いいのかい、こんな所で油売ってて」
「‥‥」
 彼女は無関心な視線で小田切の言葉を振り払った。
 それにもめげず、小田切は言った。
「君の言わんとすることが分からないんだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。こんなの、時間のムダだろ」
 すると、カナはすっくと立ち上がり、居間のガラス戸のところへ歩いていった。
 彼女はサッシに顔をくっつけるようにして外を眺めた。
 なぜか小田切には、彼女の後ろ姿がその部屋にしっくりなじんでいるように見えた。
「花火、ここから見えるんでしょ」
 確かに、神宮の花火がベランダからはかろうじて見ることができた。
 だが、なぜ彼女がそんなことを知っているのか。
 彼女との会話が何か恐ろしいことを引き出すような予感を小田切は覚えた。
 平静を装い、小田切は彼女に答えた。
「もうすぐ、かな。それも理由の一つだ。日当たりも交通の便もいい。息子と二人で住むにはちょうどいい広さだ。引っ越す理由なんて、どこにもない」
「赤ちゃんが、ほしいの」
 彼女は窓の外を見ながら無感情に言葉を続けた。
「‥‥子供ができないなんて、イヤ。何とか、ならないの? お医者さんの友達、たくさんいるじゃない。だてに医大出てるわけじゃ、ないでしょ」
「‥‥」
「ねえ、何とか、言ってよ、キョウスケ」
「‥‥」
「いいじゃないの、子供をつくるくらいの贅沢、させてくれたって‥‥」
 彼女はその言葉を言い終えることなく、床に崩れ落ちた。
 小田切は床にうずくまったその少女を、ありえべからざるものとして見つめていた。
「‥‥おい?」
 ようやくイスから腰を浮かせた小田切は、そんな言葉をかけるのが精一杯だった。
「‥‥平気」
 彼女はかすれた声でそう答えた。そして、ゆっくり立ち上がると、ガラスの向こうを見すえたまま小田切に尋ねた。
「あたし、何か、言った?」
「‥‥」
「そう」
「‥‥君は、一体何者なんだ?」
 小田切の声は震えていた。
 彼女の口からもれた言葉、それはかつて彼の妻の口から出たものと寸分違わず同じものだった。
「‥‥どうして、子供がいるの? あの子、何者?」
「君には関係ない!」
「彼女の子じゃ、ないの?」
「帰ってくれ!」
「十二才には、見えないもの」
 目の前の少女が加奈子とだぶって見える自分と、意味の分からぬ少女の言葉。その両方に、小田切は言いようもなく怯えていた。
「体外受精、失敗、したんでしょ?」
「いい加減にしろ! 警察を呼ばれたくなかったらすぐに帰ってくれ!」
「‥‥」
 彼女の無言の瞳に小田切は圭太の秘密を知られたことを悟った。
「黙れ!」
 叫ぶと同時に小田切は、彼女の頬を思いっきりひっぱたいていた。
 カナの細い身体は驚くほど勢いよく壁に叩きつけられた。
 部屋の空気がまるで固体になったかのように小田切には感じられた。
 動くことも、息を吐き出すこともできず、ただ視線だけは彼女に固定されていた。
 ピンポーン
 玄関のチャイムがその固体に小さなヒビを入れた。
 今にも壊れそうな彫像が息を吹き返すようにスローモーションで動き始める。
 ピンポーン
 二度目のそれで体を押えつけていた固体がぼろぼろと音もなく崩れ落ちた。
 小田切は目の前の現実から逃げるように大股で玄関に向かった。
「どなた、ですか?」
 かれた喉からは、かすれた声しか出てこなかった。
「す、須田です。夜分すみません」
 小田切の心臓が跳ね上がった。由美子が家に来たことは一度もなかったし、今日は駄目だときっぱり言ったはずではなかったか。
「ど、どうしたんだ、急に?」
「む、息子さんが、調子悪いっておっしゃってたから、その、お困りじゃないかと、思って‥‥」
 由美子の言葉はどこが歯切れが悪かった。
「いや‥‥風邪がうつると、悪いから」
 小田切の言葉も彼女のそれ以上に良くはなかった。
「小田切さん、開けて。すぐ、帰るから」
 弱々しい声で彼女は言った。
「‥‥今日は、帰ってくれないか」
「どうして、どうして駄目なの? 誰かいるの、ねえ」
 小田切が後ろを振り返ると、小さな硬い瞳がじっと自分の方を見つめていた。
 扉越しに由美子の声が聞こえた。
「日置さんが言ったの。小田切が鼻をこすってモノを言う時は、十中八九嘘をついてるって」
 小田切は声を失った。
 後ろでカナがぼそりとつぶやいた。
「あたし、帰る」
 小田切は声に出そうとしたが、出てきたのは情けないあえぎ声だけだった。
 カナは扉の前で立ちつくす小田切に、どいてくれと目で訴えた。
 それでも、小田切が判断に困っていると
「もう、十分、たったから」
 腕時計を見て、彼女はそう言った。
 自分の言った言葉がこれ程うらめしく思えたことはなかった。
 小田切は大きく息を吐いて、そして、ついに観念した。
「分かった」
 小田切は自分の手でドアを開けた。
 そこには、顔をこわばらせて由美子が立っていた。
「小田切さ‥‥」
 そう言いかけて、由美子の視線は、小田切の後ろから出てきた少女に貼りついた。
「一体、どういうこと?」
 責めるように由美子は言った。
「子供が、病気じゃなかったんですか?」
「親戚の子だ」
 思わずそんな言葉が口をついて出た。
 由美子が目の前の少女に視線を戻すと、二人の間に挟まれ身動きがとれなくなっていたカナは無言でそれに応えた。
 由美子は自分よりも小柄な少女を見下ろして言った。
「彼と、寝たの?」
 今度は小田切が声を荒らげる番だった。
「何てこと言うんだ! 相手は中学生だぞ!」
「だって!」
「君は一体僕をどんな目で‥‥」
 会話の途中で、独り言のようなカナの声が二人の耳に入った。
「‥‥彼が、どう女を抱くかなら、よく知ってるわ」
 由美子の頬がさっと赤く染まった。
「バカッ!」
 怒声と共に平手が小田切の顔を打った。




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