#4−2 炎

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 小田切が会社に戻ったのは終業時間の間際だった。
「おかえんなさい」
 案の定、福田が弾んだ声で彼を迎えた。
「どうでした?」
「何が?」
 小田切は努めて普段の声で聞き返した。
「行って来たんでしょ?」
 福田はにやけた顔でそう言った。午前中、彼にカナの学校の名前を確認したのでそれで感づいたらしい。
 小田切はシラを切り通すことに決めた。
「行って来たよ。内田さんとの打ち合わせにな」
 内田さんというのはぺるそなに登録している翻訳者の一人である。
「‥‥打ち合わせ、ですか?」
 福田は拍子抜けしたようだった。
 小田切はイスに腰かけてため息をついた。外の暑さから解放されたのがひとつ、わざわざ足を運んだのが全く無駄だったことがひとつ。
 小田切の考えは自然カナのことへ流れていった。
 聖水島学園中等部の中学生。自称カナ。
 彼女について分かっているのはそれだけだった。
 考えれば考えるほど疑問は次々と湧いてくる。
 どこで自分のことを知ったのか。それに加奈子のことも。プロポーズのことなど当事者以外は知りようがないはずである。
 あれは単なる偶然、だったのだろうか。
 ひょっとして、彼女は加奈子の親戚筋の子で、加奈子から話を聞かされたことがあるとか。いや、それにしても加奈子が亡くなった時、彼女は二、三歳にすぎなかったはずだ。話を覚えているには幼すぎる。
 写真を合成した手口から考えて、コンピューターへの違法アクセスの線も考えた。だが、小田切自身はコンピューターを持っていなかったし、そんな私的なデータを持っているバンクなど見当もつかなかった。
 ひっかかっているのはそれだけではなかった。
 あの透明な赤の百円ライター。
 入院中、加奈子はいら立ちをまぎらわせるかのようにライターをつけては消し、つけては消しを繰り返し、その小さな炎に見入っていた。その時、彼女が使っていたのが同じような赤い使い捨てライターだった。
 カナが煙草を吸っているところは見たことがない。あれは単に写真を燃やすための道具だったのだろうか。
 では、なぜ赤なのだ。なぜ、一人で炎を見つめていたのだ。なぜ?
 小田切は不機嫌に机を軽く叩いた。
 だから何だというのだ。
 大人をだまして楽しんでいるか、或いは恋愛ごっこのつもりなのだ。どちらにせよ、単なる中学生の気まぐれなのだ。最近の若いやつらはとんでもないことを平気でやるとマスコミがいつも声高に語っているではないか。
 小田切は自分にそう言い聞かせた。
 福田に留守中の電話を尋ねたが、小田切には例の翻訳者からあっただけだった。
 今日も電話で呼び出すつもりに違いないと思っていた小田切には意外でもあった。
 まだ帰り道の待ちぶせの線もある。
 まあ、しばらくはつき合ってやるさ。大の大人がうろたえても仕方がない。そのうち、全て分かるだろう。何と言っても、相手はまだ子供なのだから。
 終業時刻と同時に珍しく日置が奥の部屋から出てきた。元山も一緒である。
「どうだ、皆で飲みに行かんか?」
「行きます、行きます!」
 日置の誘いに福田が真っ先に賛同した。
「今日は小田切から例の女子中学生の話も聞かせてもらわんとな」
「どうして知ってるんですか?」
 素っ頓狂な声を上げて福田は驚いた。
「君の声は奥まで丸聞こえだよ」
 元山が無表情のまま指摘した。
 小田切は日置に頭を下げた。
「今日は、ちょっと用事が‥‥」
「あっ、きっとその娘と会うんですね」
 理恵に冗談混じりにそう言われ、小田切はどきりとした。だが、それよりも無関心を装う由美子の方が恐ろしかった。
 小田切は笑いながらそれを否定した。
「そんなんじゃないよ‥‥日置さん、僕はまた今度」
 日置は顔をしかめて、うなずいた。
 福田一人がブーイングを鳴らしていた。
 小田切は事務所の戸締まりを請け負って、皆を送り出した。
 一人になった社内で小田切は大きく深呼吸をした。
 秘密を持つというのは、やはり心苦しいものだった。会社で話題にしたのは失敗だったと、今になって痛切に後悔していた。
 重たい腰を上げて手早く戸締まりを済ませると、小田切も事務所を後にした。
 由美子が彼を呼び止めたのは、小田切がマンションの階段をちょうど下りたところだった。
「須藤さん、飲みに行ったんじゃ‥‥」
 周りを見回して小田切が尋ねると、彼女はそれには答えず、しばらくうつむいたままだった。そして
「この前は、ごめんなさい」
 いきなり彼女は頭を下げた。
「いや、悪いのは僕の方だし‥‥」
「本当に今日、時間あいてません?」
 真剣な眼差しで自分を見つめる彼女に、小田切は理由をこしらえないわけにはいかなくなった。
「‥‥子供が、風邪気味でね」
「‥‥そう、ですか」
 小田切は何気なく視線をそらし、鼻の頭を指でかいた。
「ごめん、埋め合わせは今度必ず」
 小田切はそう言って、逃げるように彼女の前から駆け出した。




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