#3−2 密 会

カラオケ

 階段を駆け降りてマンションの外へ出ると、いきなり後ろから声をかけられた。
「ここよ」
 そこには、昨日と同じ制服姿のカナが立っていた。
 小田切は息を整えて言った。
「僕は仕事中。君は学校に行ってるはずだろ。ちょっとは常識ってモンを‥‥」
 カナは相変わらずの無表情な顔でそれに答えた。
「今、期末試験、だから」
 そう言われて、小田切は中学生と社会人のタイムスケジュールの違いに思い至った。
「そ、それよりあの写真だ」
「‥‥」
「合成だろ」
「でも‥‥あるわ」
 小田切はカナの神経に舌を巻いた。偽物だとバレても一向に動じず、変わらず脅迫のネタに使うつもりなのだ。
 苦々しいことに小田切にとってはそういう写真があること自体が問題だった。
「‥‥用件は?」
「昨日、言ったと思うけど」
 小田切はため息をついた。
 小田切は自分のことに関してはそれほど外聞にこだわる方ではない。由美子のことを入れても、こんなニセの写真に神経質になったりする方ではなかった。
 だが、圭太のことを考えると話はまた別である。自分のミスがいつ息子の秘密にまで及んでいくかという怖れは常に抱いていた。
 今回もそれを考えると、彼女の望みを断ることはできそうになかった。
「喫茶店で、いい?」
 冗談ではない。
「いや、もっとどこか‥‥」
 そう言いながら、適当な場所を考えたけれどどこも思い浮かばなかった。まさかホテルに入るわけにもいかない。この都会の中で中年の男性が人目を気にせず女子中学生と会える場所など、そういう場所を除けば全く存在しないようにも小田切には思えた。
「じゃあ、来て」
 カナはそう言って一人先に歩き出した。
 真っ昼間の人ごみの中、行きかう人々の視線を気にしながら小田切が連れていかれたのは駅前のカラオケボックスだった。
 会社の連中と何度か入ったことはあったが、それでも小田切にとって日常的な場所とは言い難かった。
 なるほどと小田切は思った。ここならまあ妥協できなくもない。
 彼女がチャージした部屋は、狭くて最初息がつまりそうだった。いきなり夜のスナックにでも来た雰囲気だった。
 効きすぎた冷房も気になったが、彼女は気にする様子もなかった。
「何か、飲む?」
 カナはカバンをイスの上に放り投げると、テーブルの上のメニューを指して言った。
 すぐさま注文のために壁の電話を手にしているのを見て、小田切はつき合いでアイスコーヒーを頼んだ。
 彼女にエスコートされているようで小田切としてはあまりいい気はしなかった。
 注文を済ませると、彼女は曲がったソファーの小田切の左隣に腰を下ろした。
 人工的な暗がりで見る彼女は、どこか色気のようなものが感じられた。
 小田切は顔を赤くし、慌てて視線をはずした。
「昨日より、ずっとマシでしょ?」
 確かにその通りだったが、それは逆に小田切にとって逃げ道がなくなったことをも意味していた。これでとことん彼女の相手をしなければならないのだ。
 それでも小田切は徐々に落ち着きを取り戻すと、しかめっ面で隣の少女を見た。
 何にせよ、この娘をうまくあしらわなければならないのだ。そして、彼女の真意を聞き出す必要がある。うろたえてばかりはいられないのだ。
「分かった。だが、その前に一つだけ教えてくれ。どうやって僕のことを知ったんだ?」
 少女は身動き一つせずに言った。
「質問してるのは、あたし」
 先手を取ったつもりだったが、軽くあしらわれたのは小田切の方だった。
 そこに彼女の第一の質問が放たれた。
「あたし、若いでしょ?」
 質問の意味が分からないまま、小田切は曖昧な相づちを打った。
「ああ」
「奥さんより?」
「当たり前だ。彼女は中学生じゃなかったからね」
「奥さんのこと、愛してた?」
 彼女はそれを過去形で言った。
 彼女は妻が死んでいるのを知っているのだろうか。いや、知っているに違いない。だからこそ、妻の名に似せた偽名を使っているのだ。  どこまで自分のことを知られているのだろう。小田切が肌寒いものを感じたのは冷房のせいだけではなかった。
「‥‥なぜそんなことを聞くんだい?」
 無駄とは思いながらも一応聞いてみる。
「答えて」
 思った通り、彼女は一方的に答えを要求するだけだった。
「もう、忘れたよ」
「‥‥」
 彼女は硬い瞳で小田切の顔をじっと見つめた。
「小田切、加奈子、でしょ」
 かつての妻の名を呼び捨てにされ、小田切は少なからず気分を害した。
「よく知ってるな。で、君は『カナ』ってわけか」
「‥‥文句があるなら、名前をつけた人に、言って」
 小田切の皮肉に彼女はしらじらしくそう切り返した。
「どんな人?」
 小田切はテーブルの上に置いてあった歌本を手に取り、無造作にページをめくった。
「気の強い、女だったな」
「そういう人が、好みなの?」
「君よりは美人だったからな」
「‥‥本当?」
 興味なさそうに髪を梳いていた彼女の手が止まった。
「‥‥写真、ある?」
「君が知りたいのは、僕のことじゃなかったのか?」
 苛立ちまぎれに言ったその言葉に、彼女の表情が一瞬だけ固まったように小田切には見えた。
 しかし、すぐに彼女は質問を再開した。
「どっちでも、同じでしょ。夫婦、だったんだから」
 なぜかそれは皮肉のように聞こえた。
「彼女、どうして死んだの? まだ、若かったんでしょ?」
 そして、その質問は再び小田切に第一級の警戒心を呼び起こした。
 その時、突然ドアがノックされ、音の洪水と共にトレイを持った店員が入ってきた。
 若い男の店員は視線を合わせようともしなかったが、そのせいで小田切は余計弁解したい気持ちにかられた。
 店員は愛想のない態度でアイスコーヒーとミネラルウォーターをテーブルの上に置くと振り返りもせず部屋から出ていった。
 辺りに漂う音の微粒子はかすかにざわめき残していたが、それも沈黙を隠すには至らなかった。
 小田切から答えが戻ってこないと知ると、彼女は質問を変えた。
「観覧車での、プロポーズって、どう?」
 小田切は心臓が飛び出しそうになった。
 彼自身、そうして加奈子に求婚したのだった。
「別に‥‥いいんじゃないか」
「そうね‥‥夜景を見ながらなら、悪くないかも」
 彼女は似合わず少女らしい感想を述べたが、その言葉にも小田切は咳き込みそうになった。彼が加奈子にプロポーズしたのは真っ昼間だったのだ。
 そこまで彼女が知っているとは思えなかったが、嫌な偶然ではあった。
「プロポーズって、二度目は、うれしく、ない?」
 意味不明なことを彼女は言った。
「やっぱり、うれしいんじゃないのか。まさか、もうされたことがあるのかい?」
 やけになって小田切はそうからかったが、彼女は眉ひとつ動かさなかった。
「彼女、あなたが、初めて?」
 小田切は一瞬、質問の意味を考えた。プロポーズの話なのか、それとも別の意味なのか。男女の関係を持つということでなら、そのはずだった。少なくとも、彼女からはそう聞いたことがあった。
 どちらにせよ、相手の意図は一向に見えてこなかった。
 彼女はテーブルの上のミネラルウォーターのグラスを両手で大事そうにあたためながら言った。
「初めての時って、よく覚えてる、ものでしょ」
「君もそうかい?」
 小田切は嫌みを込めてそう言った。
 ホテル街で売春じみたことをやっている中学生だ。イエスと答えても不思議はない。
「そうね、だから、後は何をやっても、駄目。初めてじゃないと、駄目なの」
 これには、彼女ではなく、聞いた小田切の方が赤面していた。
 彼女はグラスを重たそうに持ち上げると、それにそっと口をつけた。
 小刻みな彼女の喉の動きに小田切は訳もなく魅きつけられた。
 冗談じゃ、ない。
 小田切が頭を振っていると、いつの間にかテーブルの上に例の写真がのせられていた。
「‥‥いいのか?」
 気のはやる小田切を前に彼女は餌をとりあげるようにそれをひょいとつまみ上げた。
 彼女の片手にはライターが握られていた。
 透明な赤の百円ライター。
 細い親指の動きをきっかけに、ボッと吹き出した炎は、ゆっくりと写真に渡り、めらめらと大きくなっていった。
 小田切はなぜかその炎に見入っていた。
 赤く、青く、オレンジで、そして、赤い。
 何だ、この赤は?
 そのゆらめきは、内臓の奥から小田切の嘔吐感をかき立てた。
 彼女は炎が自分の指を包む前に、つまんでいた写真を、ぽとりと灰皿に落とした。
 炎にまかれたその写真は、ガラスの灰皿の中でもだえまわり、あっという間に黒ずみと化してしまった。
 小田切の頭の中には、赤い炎だけが残像となって残っていた。
 彼女の言葉で小田切は我に返った。
「もう、帰っていいわ。あたし、少し歌っていくから」
 小田切は口もつけていないアイスコーヒーに多少の未練を感じながらも無言で立ち上がった。
 ドアノブをつかんだ時、彼女は言った。
「仕事中、ごめんなさい」
 意外な言葉だった。彼女がこんな素直な言葉を吐くとは小田切の予想外だった。
 結局、小田切は納得しえぬまま、彼女を残して一人で部屋を出た。
 これで終わったのだろうか。
 小田切はしびれた頭で考えた。
 終わったからこそ、脅迫のネタを焼き捨てたのではないのか。
 では、今ので彼女は一体何を納得したというのだ?
 肯定すべきものは何もみつからなかった。
 あの写真が合成である以上、いくらでも複製は可能なはずである。つまり、そんな写真をわざわざ焼き捨てたのは、単に信頼関係ができたという表明だったのではないだろうか。少なくとも、一方的にそう思い込まれた可能性は充分にあった。
 要するに、彼女はまだあきらめていないということだ。
 小田切は受付の前で足をとめた。いくらなんでも中学生に支払いをまかせて出ていく大人を演じるつもりはなかった。
 料金の安さに驚きながら支払いをすませると、小田切の頭にある考えがひらめいた。彼女の歌うところをこっそりのぞいてやろうという気になったのだ。
 店員に忘れ物をしたと告げ、先程の部屋へそっと引き返した。
 扉の窓から中をのぞくと、彼女はイスに座ったままだった。
 モニターには何も映っておらず、歌を唄っている様子はない。
 目を凝らすと、彼女の手にはマイクではなく、別のものが握られていた。
 小田切は自分の目を疑った。
 彼女が握っていたのは、あのライターだった。
 薄暗がりの中、彼女はライターの炎を一人静かに見つめていたのだった。

 月 日
 二度目の受精も失敗を確認。子供を欲しがる彼女の努力は今のところ無に帰している。これも小田切の奴が翻訳家などと訳の分からぬ仕事などを選ぶからだ。
 それでいて奴は週に二度ほどしか顔を出さない。仕事が忙しいだと? いい気なものだ。彼女は必死だというのに。
 そんな彼女を見ながら、俺の中にある着想がひらめいている。
 目の前の彼女が小田切のために不幸になるのなら、俺はもう一人の彼女を幸せにすればいいのではないだろうか。
 もう一人の彼女。
 それが実現するなら、俺は悪魔に魂を売り渡しても後悔すまい。
 やってみるべきか‥‥彼女を手に入れるにために‥‥




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