#1−1 交差点
夏の日も既に傾き、街の明りはけばけばしいネオンのそれに取って代わられていた。
駅からわずかしか離れていないホテル街にもちらほらとカップルの姿が目につき始めていた。
そして、その中に彼らの姿もあった。
片方は中年と言ってしまえばそれで事足りるような男。彼は白壁のホテルの入口の前で気難しそうな顔をしてつっ立っていた。
勿論、隣には女が一人。小さなハンドバッグを両手で強く握りながら、真剣な目つきで男を見上げていた。
小田切は吐き出すように言った。
「やっぱり、やめにしよう」
こんな所にまで来て言う言葉ではない。本人もそれが分かっているからこそ相手を正視することができなかった。
黙ってうつむいた由美子に小田切は言葉を重ねた。
「‥‥すまない」
その言葉に由美子は少しだけ視線を上げ、小田切の胸元を見つめた。
そこには彼女の贈ったネクタイが端正に締められている。
「この前のこと、後悔してるんですか?」
小田切は大げさに否定した。
「そうじゃない。そういうことじゃ‥‥」
小田切は会社の同僚である須田由美子と男女の仲になっていた。つい先週のことである。と言っても、不倫などではない。由美子は二十代後半の独身だったし、小田切も四十を目前に控えているとはいえ、立場は同じだった。そういう意味では何はばかる関係ではない。
「‥‥お先に、失礼します」
由美子は軽く頭を下げると、ヒールの音を響かせながら坂を駆け降りていった。
小田切は彼女の後ろ姿を見送り、目をつぶり、そしてため息をついた。
何をやっている、小田切恭助よ。
自分のことながら忌々しく思わずにはいられなかった。
彼女に言った言葉に嘘はない。それは確かだ。ただ、今夜は彼女を抱く気にはなれなかった。それだけだ。
彼女の長めの黒髪も、厚めの唇も、しっかりとくびれたウエストも小田切の好みだった。何より、彼は彼女の声が好きだった。声を聞けば、大体その人物の人となりが分かると小田切は思っていたので、彼女の芯の通った声は彼にはとても好ましく思われた。
だが、今年もまた特別な日が近づきつつあった。それによる気分の揺らぎはいかんともしがたかった。
由美子のことはそれが終わってからまたゆっくりと考えればいい。
小田切はそう考えることにした。
繁華街に隣接しているというのに、ホテル街は静かなものだった。ただ夜空のすそだけがそのあおりを受け、奇妙に白んでいる。
道路で区切られ、三角地帯をなすホテル街は、なだらかな斜面にあることもあって、めったに訪れない小田切には迷路のようなものだった。
駅までたどり着けるかどうか多少の不安を感じながら、小田切は由美子の走り去った後をゆっくりと歩き始めた。
一人でこんな場所をぶらつくのも奇妙な感じだった。
途中、坂を上ってくる若いアベックとすれちがった。それとはなしに視線が女性の方へいった。
あごの線が、似てるな。
若い女性を見ると、ある女性の面影と重ねて見てしまう癖がこの十二年間で身についてしまっていた。由美子とて例外ではない。
小田切は霞んだ夜空に今は亡き妻のことを思い浮かべた。彼の記憶の中の彼女は、十二年前の若く美しい姿のままであり、小田切は自分だけが現実の時の中で歳をとることにしばしば困惑を感じることがあった。
そして、その彼女はいつも何か言いたそうな顔をしている。
何か思い残したことがあるのか?
そう問いかけてみても、彼女が答えを返してくれることは一度もなかった。
生前、彼女と小田切の間にはどうしても子供ができなかった。彼女は彼と違って、異常なまでに子供を欲しがり、様々な不妊治療を試みたが、結局はうまくいかないままこの世を去っていった。
そこまで子供に執着する原因を作り出したのは自分にあるのではないかと小田切は思っていた。
二人は学生結婚だった。医大生だった小田切の求婚を受けた彼女は、医師の妻の座を当然のものとして予想していただろう。にもかかわらず、小田切は医者になることをあきらめた。それは彼女への裏切り行為ではなかったか。そして、それが彼女のベクトルを狂わせたのではないか。
小田切はそう考えずにはいられなかった。
彼女はもう決して戻ってこない。そんな幻にいくら頭を悩ませてみても仕方がないことは分かっているのだが。
小田切ははたと立ち止まった。電信柱の番地が見知らぬものに変わっているのに気づいたからだった。
小田切は辺りをきょろきょろと見回した。 明りの灯ったホテルの看板は見たことのないものばかりだった。
やっぱり、迷ったか。
小田切はそれを考えごとをしていたせいにした。
その時、少し離れた電柱の下に制服姿の少女が立っているのが目に入った。
小田切は彼女の視線が自分をじっと見つめているのを感じ取った。
最近の女子校生は、こんな時間に、こんな場所で一体何をしているのやら‥‥
そんなことを考えながら小田切は彼女の前をそしらぬ顔で通り過ぎようとした。
その時だった。
「これで、どう?」
ガラスのようにか細い声が響いた。
思わず振り向くと、彼女は人差し指を立てていた。
小田切は一瞬の硬直の後、慌てて周りを見回した。自分の他には誰もいない。必然、彼女の言葉は自分に向けられたものということになる。
売春?
パニックになりそうだった。高校生が春を売っていることに、ではない。そんな高校生に自分が声をかけられたことにであった。
「好みじゃ、ない?」
髪をかき分けながら、少女は涼しげな顔でそう言った。
そう問われ、小田切は相手の顔をまじまじと見つめた。
ショートヘアの似合う少女はなかなかの美人に見えた。きゃしゃな体つきはセーラー服の上からでも容易に見てとれる。
だが、子供ではないか。高校生を相手にするほど自分は‥‥
その後の考えはうやむやにして、小田切は少女を無視することに決めた。高校生に声をかけられてパニックになる自分がひたすら情けなかった。
早足で五十メートル程進み、そこで立ち止まって後ろを振り返る。
電柱の下に少女の姿はなかった。
次の客を探しに行ったのだろうか。とにかく少女がいなくなったことに小田切は胸をなで下ろし、再び駅への道を探し始めた。
ひょっとしてからかわれたのだろうか。一人でホテル街を歩いている中年は、からかうにはいい相手に違いない。あるいは、駅で見かける少女のように詩集とかそういったものを売ろうとしたのかもしれない。
小田切はパニックをまぎらわせるために強引にそう考えようとした。
疲れた足取りで坂を下っていると、前方の坂のつき当たり、ちょうど曲がり角になった所に再び人影を認め、思わず足を止めた。
あの少女だった。暗くて制服のシルエットしか分からなかったが、間違いない。
頭の中が一瞬真っ白になった。そして、しばし考えた挙げ句、今来た道を引き返すことにした。駅へは大きく迂回することになるが、どうせ正しい道など分からないのだ。
初めは早足だったのが、すぐに駆け足になった。
あの少女は何なんだ? 俺に用があるとでもいうのか? 客なら他にいくらでもいるだろうに。
息を切らして走る小田切の頭の中に、様々な考えが次から次へと浮かんでは消えていった。
細い路地を抜け、中途半端な舗装にこけそうになりながら、小田切は体力の限界まで走り続けた。
だが、立ち止まった場所はまだホテル街の中だった。
それほど広くはないはずのホテル街で完全に道に迷ってしまっていた。
まったく、どうして、こんな目に‥‥
上がった息でそう悪態をつきかけた時、彼の背筋は冷たくなった。
遠くからじっとこちらを見ている少女の視線がそこにもあった。
小田切は自分が限界だったことを忘れて再び走り始めた。
駅は坂の下。坂を下れば、駅に出られる。このホテル街を出れば、助かるのだ。
哀れな悲鳴を上げる呼吸器にそう言い聞かせ超過勤務を強いる。
助かる?
小田切は、自分が怯えている、恐怖していることが理解できなかった。なぜあんな少女にそんな感情を抱かねばならないのか。
しかし、実際に彼は逃げていた。あの少女から。それは動かしようのない事実だった。
小田切は後ろを振り向かずに走った。胸をかきむしり、めまいを感じてもただひたすら走り続けた。
そして、いつの間にか雑踏の中にまぎれ込んでいた。
騒々しい人ごみの音が、かすれた呼吸音にかぶって耳に入ってくるのを聞いて、小田切は安堵した。
目の前では西口の交差点が、目まぐるしく殺到する光の流れを機械的にさばいていた。
助かった。
小田切は心の底からそう感じた。
信号が青に変わり、一斉に人で埋まるスクランブル交差点へ小田切も足を踏み出した。
彼は疲れ切った脚を叱咤激励した。
後は帰るだけだ。頑張れ。
彼の体に三度めの電撃が駆け抜けたのはその時だった。
小田切の虚ろな視線は、信号の向こう側から向けられる冷たく、冷めた、刺すような視線を捉え、焦点を定めようと激しく動いた。
彼女だ。
小田切は人の流れの中に茫然として立ち止まった。結果、すぐさまいくつもの非難の視線と罵声を浴びせられる。
だが、そんなことは気にならなかった。彼の頭の中は、自分を見つめるただ一人の少女で一杯になっていた。
理解できぬ恐怖。それが、全てだった。
彼は理性で必死にその恐怖を押さえつけようとした。
どうする、どうすればいい?
信号の点滅が人の流れを加速した。それに逆流する勇気もなく、小田切は再びその流れに乗った。
少女の待っている向こう側へと一歩一歩近づくにつれ、恐怖が理性をはね飛ばそうとする。反対側に引き返したくなる衝動に襲われるが、かろうじてそれをこらえる。頭がぼうっとする。指もしびれてくる。
わずか十数メートルの距離が数マイルのように感じられた。
そして、彼女が目前に迫った。
心臓は今にもパンクするかと思われるほど激しい収縮を続けていた。
彼女の姿を視界にいれたまま、それでいて視線は合わせないように必死の努力をする。そして、彼女の横を通り過ぎる。
視界から、彼女が消える。
何も起こらない。
小田切は振り向かず、そのまま早足で歩き続けた。五歩、十歩、二十歩、駅の券売機にぶち当たって初めて思い切って後ろを振り返った。
そこには、再び信号待ちの人だかりができていた。けれど、そこに彼女の視線がないのは確かだった。
小田切の背中は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。