ラスト・ピース


 都会の午後の喧騒は、防音サッシとレースのカーテンをとおり抜け、地上六階の部屋の中にまで侵入していた。
 部屋の中では、正座をした男が身を乗り出し、床の上に視線を据えていた。時折、首を傾けたり、体を倒したりしているが、長い間、一言も声を発してはいない。
 ついに大きなため息がもれた。吐息とともに集中力も体の外へ流れ出てしまったようで、男はばらりと脚をくずした。
 やはり、違う。
 男は手にしていた最後の小さなピースを、ぽろりと落とした。
 そして、低いガラステーブルの上に置いたペットボトルに手をのばすと、ごくりと喉を潤わせた。
 視線を床の上に戻すと、そこにはパステル調で描かれたオードーリー・ヘップバーンが、不完全な笑みを浮かべていた。
 男が意図したのとはわずかに違う表情だった。どこかで間違えてしまったのだ。
 これで五度目である。何度やっても、ピース上のヘップバーンは、ひきつっていたり、悲しげだったり、あるいは眠そうだったりとまるで違う表情を見せる。こんなことになるとは男は予想だにしていなかった。
 男は床に落ちた最後のピースを指ではじいた。思ったより力が加わって、それは「聖域」の外のゴミの山に突っ込んでいった。
 男は慌てて、ゴミの山をかき分け、ピースを回収した。そして、そのピースを宙にかかげ、恨めしそうに見つめた。
 こんな形でさえなければ。
 ピースは壁にへばりついたトカゲのような形をしていた。男が手にしたものだけではない。床の上で組みたてられたピース三百片のどれもが同じ形をしているのだ。
 それは、友人から結婚祝いとしてもらった手作りのジグソーパズルだった。長い間捨てずに取っておいたものを、あまりの暇に耐え切れず、四日前押入れの奥から引っ張り出してきたのだった。
 だが、それはあまりにも難しすぎた。わずか三百片のピースだが、すべて同じ形をしているため難易度はずっと高い。パズルが趣味でもない男には、手にあまる代物だった。
 それでも、それを五度も惜しいところまで組みあげたのは、男に時間があったからだ。そしてそれ以外、男にはやることが見つからなかった。
 男は立ち上がって「聖域」の外へ出た。
 聖域は、部屋の中で男がこのパズルのために自ら確保した清潔な一角だった。聖域の外の冷たいフローリングの床の上には、ゴミ箱からあふれ出たペットボトル、スナック菓子の袋、コンビニ弁当の容器が無残に散乱、堆積していた。
 ちょうど四日前、部屋は清掃人を失い、一人残された男はただのゴミ製造器になった。昨日、ピースをゴミの中にまぎれさせ、三十分かけて探し出した後、男は居間の一畳相当を「聖域」として確保した。
 男は玄関で履き慣れないスニーカーのかかとをふんづけると、ジャージ姿のまま外に出た。
 郵便物を手に入れるのに、わざわざ一階まで降りなければならないのが、高層住宅の不便な点だ。一人になって男はようやくそれに気がついた。
 エレベーターには乗らず、階段を使った。他人の視線を避けたがる自分に嫌悪感を持ったがどうしようもない。
 幸いエントランスに人の姿はなかった。管理人室も郵便受けからは死角にある。
 男は音をたてないように郵便受けの中のものを両手で抱え込んだ。
 男は急いで部屋に戻ると、テーブルの上に郵便物をばらまいた。
 マンションの分譲、ピザの宅配、裏ビデオの宣伝。どれもこれもくだらないものばかり。男はそれをまとめてくしゃくしゃにした。くずかごに向かって放り投げたが、まとを外して部屋のゴミの一部となった。
 どうせなら、早い方がいい。悪いことは何でもそうだ。それで落ち目の終着駅にたどり着くはずだった。
 だが、妻からの離婚届けはなかった。
 男はベッドに大の字になって横たわった。昼も夜も関係ない。気力の尽きた時が、眠る時だった。この四か月でそういう生活になっていた。勤めていた頃には想像もできなかったそんな眠りを、男は今、当然のものとしてむさぼっていた。
 その日、男は玄関のチャイムの音で目を覚ました。ベッドの上で目をこすりながら外を見ると、窓は薄いカーテン越しに夜の暗闇を映し出していた。
 見知らぬ訪問者など端から無視するつもりでいた。少なくとも話がしたい気分ではない。
 もう一度チャイムがなった。
 この時間では一階の管理人は帰ってしまっているのだろう。半端なマンションだと男はつくづく思った。
 五度目のチャイムがなって、男はようやく立ち上がった。男が向かったのは、インターホンではなく、玄関だった。執念深い相手をレンズ越しに確認してみるつもりだった。
 男は息を殺してドアのレンズに目を近づけた。
 その時、ドアが派手に叩かれ、男は思わずのけぞった。
 ドアの向こうからなれなれしい声が聞こえてきた。
「葉山、いるんだろ。俺だよ、谷口だよ」
 葉山はしばらく迷った挙げ句、ドアのロックに手をかけた。
 葉山より頭半分大きな訪問者は、葉山の顔を見てにやりと笑った。
「やっぱり、居留守か。にらんだとおりだ」
 葉山は寝起きの不機嫌さもあって、ぶっきらぼうに言った。
「何の用だ?」
「ちょっといいか。どうせ暇なんだろ」
 そう言いながら、谷口は大きな体をドアの間にすべり込ませ、強引に上がり込んだ。
 そして、居間に入るなり、感動の声を上げた。
「すげえな、この荒れようは。学生時代と同じだな」
 葉山は、その言葉で自分の心境まで描写されたように感じて顔をしかめた。
 客のためのスペースは居間のどこにもなく、葉山はダイニングの食卓に谷口を呼んだ。
 だが、彼はそれには応えず、聖域の中のものに目をつけた。
「お、やってるのか、シュマッズル。むつかしいだろ、これ」
 これを葉山に贈ったのは、他ならぬ谷口だった。
 耳慣れぬ言葉を聞いて葉山が聞き返すと、谷口は
「こういうパーツの形が全部同じやつをそう言うんだ。なんだ、完成したのか」
 残念そうな口調で、一つだけ残った空白を無視し谷口はそう言った。
 葉山はダイニンテーブルに頬杖をつきながら、パズルの前に陣どった谷口を眺めた。
「で、何の用なんだ?」
 谷口はようやく葉山の方を振り向いた。
「機嫌わるそうだな」
「わるい」
 あまりの率直さに谷口は苦笑した。
「飲もうぜ」
 そう言って、谷口はコートの下から取り出したワインの瓶を掲げて見せた。
 葉山は答えに迷った。谷口はまぎれもなく友人だった。ただ一人の親友と言ってもよい。けれど、今のささくれだった心境で彼と言葉 を交わすのは気がすすまなかった。
 彼が今の自分の状態をどこまで知っているのかそれも気がかりだった。
「悪いが、」
 谷口は両手でそれを制しながらダイニングに来ると、棚のグラスを物色し始めた。
「まあ、そう言わずにだな」
 谷口は勝手にグラスを二つ取り出し、テーブルの上に並べた。
「この様子じゃ、まだ仕事見つかってないんだろ。まあ、今はなかなか難しいからな」
 コルク抜きも目ざとく見つけた谷口は、ワインの栓を大げさに引き抜いた。
「ところで、彼女は?」
「谷口!」
 突然の大声でダイニングの空気は凍りついた。
「今はおまえの相手ができる気分じゃない。悪いが、帰ってくれ」
 谷口は、視線を伏せた友人をまじまじと見つめた。そして、ため息を一つついて穏やかに言った。
「おまえはいつか職を見つけるし、彼女もいつかは帰ってくる」
「ふざけるな!」
 仕事のことではなく、妻のことを言われたことが我慢ならなかった。
 危うく倒れそうになったワインの瓶を谷口はとっさに手で押さえた。
 頭に血が上っているのが葉山は自分でも分かった。なぜ、妻が出ていったことを知っているのか。大声で怒鳴ってはみても、その疑問を追求する勇気は葉山にはなかった。
 谷口は動じることなく言い返した。
「もう四か月だろ。いい加減頭冷やせよ。リストラされた人間なんて社会にはごまんといるんだぜ。何もおまえに限った話じゃない」
「そんなこと、おまえに言われなくても分かってる」
 頭では分かってはいても、受け入れられないことはいくらでもある。
 それに谷口の言葉では、素直に受け取る気にはなれなかった。
 谷口は既に三回も勤め先を変えている。彼の言うことには、企業コンサルタントの経験を積むためとのことだった。自ら会社を渡り歩きキャリアを磨く彼に、自分のような人間の気持ちが分かるはずがないと、葉山は決めてかかっていた。
「まあ、今日はゆっくり飲んでだな」
「帰ってくれ」
 間を置かぬ拒絶の言葉に谷口はわざとらしく肩をすくめてみせた。
 立ち上がりながら、彼は言った。
「気が向いたら、いつでも電話くれ」
 葉山は自分の狭量さに唇を噛みながら、鉄の扉をくぐる谷口の背中を黙って見送った。
 どこかで何かがおかしくなった。
 会社でリストラがあったのは四ケ月前のことだ。業績悪化の結果、お決まりの人員整理が始まった。葉山は他の数百人の社員と共にその対象となった。
 自分が無能だとは決して思わなかったが、逆に有能だとも思わなかった。だが、それだけでこの運命を素直に受け入れることはできなかった。
 職業安定所へ出向いても、本気で仕事を探す気にはなれず、失意のまま怠惰な生活が続いた。十年以上一本のレールの上を歩いてきた男にとって、突然の「ふりだしに戻る」は呆然とするのに十分な出来事だった。せめてもの救いと言えば、しばらくは保険で生活が保障されたことぐらいだ。
 最初はいたわりと励ましの言葉をくれた妻は、しだいに刺のある言葉を吐くようになり、そしてそれさえもしだいに減っていった。
 夫婦の関係がおかしくなっていたのには葉山も薄々気づいてはいたが、彼女だけは自分の味方だと、心のどこかでそう思っていた。
 だから、彼女が出ていった時は、つながっていた糸をいきなり切られ、失速して、つんのめって、墜落した。そんな感じだった。
 何とかしなければという思いとは裏腹に、絶望感から抜け出すことはどうしてもできなかった。
 葉山は遅い朝食に生の食パン一枚をかじると、昨日谷口が帰った後ばらしたピースを一ケ所にまとめた。
 また一からのやりなおしだ。
 最初のピースをつかんだ手は不安にとらわれ、なかなか置き場所を定めることができなかった。
 それでも葉山は、ここ数日どっぷりとジグソーにひたっていたため、そのコツを少しはつかんでいた。
 まずは、ピースに描かれた絵の色合いを分けることだ。今作っている人の顔のような場合、肌の部分、髪の部分、唇の部分、そして、背景の個所は、ピースを眺めればだいたい区別できる。それを最初に分けておくのだ。これで外枠が直線になっていればもっと楽なはずだが、これはそうではない。ピースはすべて同じ形。どこにも直線はない。
 昨日谷口はああ言ったが、心の中では、おまえには決して完成できまいと言っているような気がしてならなかった。
 別に理由があって始めたわけではない。ただの暇つぶしだ。実際、なぜこんなことに夢中になっているのか、自分でもよく分からなかった。
 だが、そんなことはこれまでにもよくあった。
 女に夢中になった時。賭け事に夢中になった時。仕事に夢中になった時も勿論あった。
そして、熱が醒めて平静に戻ると、それに対する興味はどこかへ消えてしまっていた。
 だが、後で考えると、それは確かに必要な時間だったように思われるのが常だった。
 単なる暇つぶしで始めただけのこのパズルも、きっとそうに違いない。葉山はそう思った。
 今度こそは何としても完成させたい。そう思うと、ピースを置く手がこれまでにもまして慎重になった。ピースはすべて同じ形をしているので、間違った場所でもすっぽりとはまってしまう。そして、後になって何かがおかしいと悩むはめになるのだ。
 最初はオードリーの髪のトップから手をつけた。
 微妙な色の変化に目を凝らし、黒のパーツの中からもっともそれらしいのを当てはめてゆく。
 一つのピースの中に、背景と髪の両方の部分が描かれているものがある。ちょうど境界の部分だ。そこはかなりの確信をもって置くことができた。
 それでも、最初の十ピースを置くのに三十分かかっていた。これとて絶対ではない。後ではめ直すかもしれないのだ。残り二百九十ピース。
 遠くで聞こえる車の音が、別世界のように響いてくる。反射的にオフィスの匂いと喧騒が頭に思い浮かんだ。
 葉山はせき払いをして、意識を目の前のヘップバーンに集中させた。
 髪と額の境界を含んだピースを置き終えたところで手がとまった。
 前回までの葉山の実感としては、容易な部分が七割に、自信の持てない部分が三割であった。
 だが、今までその七割でつまずいていたとしたら。今までは何気に置きすぎていたかもしれない。
 葉山はピースの集まりに目を凝らした。
 一つ一つ仮置きして、周りの色合いと比べてみる。向きを変えてどれが一番しっくりくるか頭をひねる。どれもが正解のようでもあり、そうでないようでもある。目がチリチリした。
 その時、電話が鳴った。
 葉山は驚いて、息をつめた。
 部屋の隅のチェストの上で電話が鳴り響いていた。いつもなら真っ先にかけつける妻の足音はない。
 葉山は鳴り続ける電話をしばらくじっと見守った。
 十数回コールを鳴り響かせた後、電話はぴたりとやんだ。
 葉山は大きく息を吐いた。いつもより長いコールが気にかかった。知り合いからだったかと思うと、よけいに気が重くなった。
 彼はしめった掌をズボンでふいて、ピースを握りなおすと、またヘップバーンに向きなおった。
 とその瞬間、また電話が鳴った。
 葉山は大きく舌打ちした。受話器を取って大声で怒鳴りたい衝動にかられたが、それもすぐになえた。
 自分は今、職のない、ジグソーパズルに没頭する男でしかない。そう思うと、相手が誰であれ、電話に出るのが怖かった。何を話していいのか分からなかった。相手の顔を想像するのさえ、苦痛以外の何ものでもなかった。
 葉山は息をとめ、ひたすら電話が鳴りやむのを待った。何が怖いのかも分からず、自分の生活に踏みいって来ようとするものがいなくなるのをただじっと待った。まるでハリネズミのようだと思うと情けなくなった。
 電話が切れると、葉山はがっくりとうなだれた。
 そして、すぐ三度目の呼び出し音を耳にすると、葉山ははじけたように立ち上がり、壁のモジュラージャックを乱暴に引き抜いた。
 部屋には静寂が戻ってきた。偽りの静寂だったが、葉山にはそれで充分だった。
 葉山は作業に戻ろうとして、床に垂れたモジュラージャックを見て考えた。そして、もう一度ジャックを差し込み、時間指定でピザのデリバリーを頼んだ。
 一人きりの夕食は、相変わらずものを食べている感じがしなかった。脂ぎったピザをミネラルウォーターで胃に流し込むと、べとついた手を神経質なまでに洗って、再びヘップバーンに取りかかった。
 それはまだ二割も完成していなかった。
 葉山は「急ぐな急ぐな」と呪文のように心で念じながら、それと向きあった。時間はくさる程あった。仕事がなくなり、時間を金に変える方程式を失った。妻が出て行き、時間を愛情に変える方程式を失った。今、葉山にとって時間は意味なく流れているだけだった。
 髪の毛の後、目のピースを組み上げた。だが、かつてファニーフェイスと呼ばれたヘップバーンの瞳は、どこか硬い感じで葉山を見つめていた。
 嫌な予感がした。
 目の周りは簡単なところで、間違えるはずはなかった。どうして違和感を感じるのか分からなかった。
 葉山は急に落ち着かなくなった。
 何度も見直すが、間違えた様子はない。間違った置き方はしていない。そう自分に言い聞かせ、ヘップバーンの瞳から目をそらした。
 そして、今度は鼻筋から唇にかけてのピースを置きにかかった。目に続いてこの部分も簡単なところだ。だが、葉山はあえてスピードを落とし、吟味を繰り返した。
 それでも、いつのまにか三分の一のピースがはめ込まれていた。
 窓の外を見ると、真っ暗だった。時計は夜の三時を指していた。
 頭がぼうっとして、ガラステーブルの上のタバコに手を延ばした。煙嫌いの妻に遠慮する必要はどこにもなかった。
 火をつけて煙を吸い込んだ。一瞬、暗い映画館の景色がまぶたに浮かんだ。
 はっとして目を開けると、宙にはたよりない煙がただよっているだけだった。
 葉山はもう一度ゆっくりと煙を吸った。
 それは再び現れた。葉山はそれに丁寧に焦点を合わせた。銀幕に映るのは、石造りの街、陽気な人々・・・・・・・・『ローマの休日』
 ヘップバーンの出ていた映画を、葉山は思い出した。
 妻との初めてのデート、中野の名画座で見たのがそれだった。映画好きでもない葉山が、そんな古い映画に彼女を誘ったのは、谷口のアドバイスだった。初めて見たモノクロームのヘップバーンは、どことなく彼女に似ているように思えた。このデートをきっかけに彼女との交際は深まった。
 結婚してから、谷口が彼女のことを好きだったことを人づてに聞き、葉山は複雑な気持ちになった。
 このジグソーと同じだ。どこかでピースを置き間違えたのではないかという気がしてならなかった。だが、それがどこかが分からない。
 どうして、職を失ったのか。どうして妻を失ったのか。分からない。
 気がつくと、タバコの吸い殻がガラステーブルに必死の侵食を試みていた。慌てて指に押しつけ、灰皿の中で指を払った。
 テーブルの上には醜い跡が微かに残っていた。まだ熱さの残るその跡に、葉山はそっと指で触れた。何度指でこすっても、それは消えなかった。
 やり直しがきくのはジグソーだけ。正解にたどり着くまで何度でも。葉山は自虐的に無言でそうつぶやいた。
 まだ背景と頬の部分が残されていた。変化にとぼしくやっかいな部分だった。
 正解のピースを選び取り、正しい向きではめ込み、完成にまでたどり着くのは、一体どれほどの確率なのだろう。
 夜の闇が耳元で流れて行くのが聞こえるような気がした。ピースを一つはめ込むたびにサラッ。また一つはめ込むと、サラッ。  頭の中が重いうずを巻いている奇妙な感覚は、徹夜という行為から随分遠ざかっていたことを葉山に思い出させた。
 自分が今やっているのは、時間をピースに置き換えているだけのこと。時間を金や愛情に変えるのと、どれほど違いがあるだろう。しかし、間違えたピースを並べているとしたら、この行為は一体何に値するというのだろう。
 幻のような時間と戦いながら、葉山は残ったピースを延々と置き続けた。
 いつの間にか、ピースに囲まれた空白は一つを残すだけになっていた。そして、手元にあるピースも一つ。
 長い時間、葉山は後少しで完成するヘップバーンの顔を見つめていた。最後のピースを握った手は、いつまでたってもそれを最後の空白に埋め込もうとはしなかった。
 葉山は彫像のようにヘップバーンと対峙した。
 いつの間にか、意識が途切れていた。
 気づいた時には、カーテンを通して光が差し込んでいた。
 葉山はガラス戸を開けて、ベランダへ出た。
 しょぼついた目に、周りの世界は、ただ眩しく、痛いだけだった。
 マンションからは、人々が一日の目的地を目指し、散っていくところだった。
 青い空を背景に、ビルやマンションは奇妙な正当性を主張しながら乱立していたし、地上を血管のように走る電車や道路も、それなくしてはすべてが終わってしまうかのような脅迫状をちらつかせていた。そして、人々はその中にいるのが当然のごとく、その日常を受け入れていた。
 葉山はベランダの手すりに胸を押しつけるようにして身を乗り出した。胸の圧迫感を感じながら、ゆっくりと視線は真下へと移動す る。
 スカートをなびかせ坂をすべる自転車、陸上選手のように疾走する会社員、母親の手からかけ出す子供。まるで万華鏡。目がくらむようだ。
 手すりをつかんでいた両手から、すっと力が抜けた。
 足が浮き上がるような不思議な感覚。ゼラチンでくるまれたような本能が遠くで危険を告げた。しかし、葉山にはそれに抗う力はなかった。もし、時がそのまま流れていたならば。
 その時、玄関から呼び鈴が響いた。
 モザイクのように分割された幻覚は、その鋭い音で砕け散り、そして、葉山は我に返った。手すりを握りしめる掌が、汗でぐっしょりとぬれていた。
 二度目の呼び鈴を聞きながら、震える呼吸を整えた。そしてようやく、ゆっくりと玄関を振り返った。
 部屋の中では、人工の照明が朝の光にしりぞけられ、しらじらしく縮こまっていた。
 三度目の呼び鈴はなかった。その代わり、シリンダーが鈍い音をたてて、がちゃりと鳴った。
 葉山は思わず身を堅くした。
 泥棒、空き巣狙い。そんな現実的な空想が頭をよぎった。
 だが、居間をはさんだ玄関の扉の向こうから現れたのは、一人の女だった。
 葉山は呆然として、その女を見ていた。
 紙袋を両手一杯に抱えたその女は、居間に足を踏み入れるなり、嘆きの息を漏らした。
「なに、これ。ちょっと留守にしただけで、どうしてこんなになるのよ、信じられない」
 聞き慣れた小言、いつもの不機嫌。
 葉山はベランダに立ち尽くしたまま、女の動きを無言で追った。
 女はぶつぶつ言いながら、紙袋をテーブルの上に置くと、ダイニングを片付け始めた。
「あなた、朝ごはんまだでしょ。仕度するから、その間にそっち片付けちゃって」
 スリッパがあわただしく床を踏み、冷蔵庫の扉がばふりと開く。
 返ってきた日常。だが、それはどこか下手な芝居を見ているようでもあった。
 離婚、と喉まで出かかって、葉山はそれをかみ砕いて嚥下した。
 そしてその代わり、女の名を呼んだ。
「智子」
 女は動きをとめて葉山の方を振り返った。
 初めて二人の視線があった。
 次の言葉が出てこなかった。何をどう言えばいいのか、いくら考えても葉山には分からなかった。
 葉山の動揺を見とって、智子の視線がちらと揺れた。
「今度は、パズル?」
 葉山はナイフを突きつけられたように視線をそらした。
「俺が何をしようと俺の勝手だ」
 視界の端で歪んだ智子の顔を見て、葉山は自分の言葉を後悔した。
 智子は唇を噛みながら葉山をにらみ、何かを言おうとして、やめた。そしてもう一度、居間のジグソーに視線をやった。
「ヘップバーンね」
 何かを思い出したように智子は言った。
「ヘップバーンだ」
 葉山もつぶやいた。
「どうして、完成させないの?」
 あと1ピースで完成なのは、誰の目にも明らかだった。
「なくしたの?」
 葉山が答えずにいると、智子は居間にやってきて、パズルの前でしゃがみこんだ。
「なんだ、あるじゃない」
 そう言って智子は箱に入った最後のピースを手に取った。
「駄目だ」
 葉山は言った。
「どこかで、間違えた」
 智子はじっとヘップバーンの顔を見つめた。
「そうね。ちょっとだけ、違うかな」
 そう言うと、智子はパネルの空白に最後のピースをはめこんだ。
 葉山がとめる間もなかった。
 できあがったのは、間違った笑顔。
 呆然として葉山は完成してしまったパズルを眺めた。
 結局、自分には正しい絵を完成することができなかったのだ。いくら時間をかけても、どれだけ注意をしても。パズルも人生も変わりはないのかもしれない。
「‥‥ない」
「えっ」
「これも、いいじゃない」
 智子は繰り返して言った。
「あたしは、嫌いじゃないわ」
 智子はそう言って笑って見せた。
 それは葉山が昔見た笑顔とは違っていた。
 けれど、それもまた間違いなく智子の笑顔だった。
「本当に、これでも、いいと思うか?」
 葉山はかすれた声でそう尋ねた。
 智子は何も言わず葉山を見つめていた。
 智子とヘップバーンを見比べて、葉山は小さくうなずいた。
 最後のピースは、もう完全にヘップバーンの一部となって、穏やかな笑みをたたえていた。




<END>


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