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TACTの発言:やめたって?
HARUの発言:うん。キャラも削除した。
TACTの発言:ほうほう。ふんぎりがついたんだ。
HARUの発言:ついた、かな。
TACTの発言:ならばGAに来る準備は整ったってワケだ。
HARUの発言:それは……
TACTの発言:面白いぜ。ソフトはネットからダウンロードできるから、すぐ始められるから。サイトアドレスは
HARUの発言:いや。
TACTの発言:ん?
HARUの発言:しばらく、オンラインゲームはやらないかな。
TACTの発言:どして?


 台所から母親の声が聞こえた。
「夕御飯そっちへ持っていく?」
 いつもならメッセンジャーで伝えられる言葉だった。珍しいリアルの音声が、自分の破壊行為の結果であることに気づくまで晴樹はしばらくの時間を要した。

HARUの発言:これから忙しくなりそうだから。

 TACTに対し後ろめたい気持ちはあった。けれど、こればかりはTACTを逆に誘うということはできなかった。
 そして、その言葉でTACTはすべてを理解してくれたようだった。晴樹はそのことが嬉しくもあり、悲しくもあった。

TACTの発言:そっか。いいことじゃん。
HARUの発言:ありがと。


 晴樹はTACTに別れを告げると、イスから立ち上がって深呼吸をした。
 驚いたことに、今朝起きてから声を出すことが随分楽にできるようになっていた。勿論、例の濁音満載の、ほとんど意味不明な音の羅列ではあったが、それでも晴樹には嬉しかった。昨日、思い切り大声を出したのがよかったのか、あるいは何か気持ちに踏ん切りがついたのか、おそらくはその両方なのだろうと晴樹は自分で思っていた。
「ぞっじで だべぶ!」
 晴樹が自室で叫ぶと、家の中は静まり返り、続く返事はどこからも戻ってこなかった。
 晴樹はおそるおそる部屋を出て、母親のいる台所に足を踏み入れた。
 そこで彼女は、信じられないといった表情で晴樹を見つめていた。
 台所にはカレーのにおいが充満していた。鼻孔を刺激するその匂いは晴樹の記憶にある家庭の匂いだった。
 母親は我に返ると、おろおろしながら晴樹に向かって言った。
「あのね、悪かったと思ってるの、でもね、お母さん、晴樹のことが心配でしかたなかったの。決して、晴樹を騙すつもりじゃ──」
「えすてぃのおやぐ、いづ?」
 晴樹は母親の言葉を遮った。そのことに関しては何を言われても今さらだった。
 母親は壁に掛かったカレンダーを見てそれに答えた。
「え、ええと、言語聴覚士(ST)は、十七日、明後日よ」
 あっさりと通じてしまったことに晴樹は軽いショックを覚えた。
「あぞこ、ばばみだあに、はっぜえれんじゅう、だんだどな」
「……行くの、ST?」
 母親はまたもや信じられないといった表情で尋ねた。
 けれど、それは晴樹も同じだった。
 たった一日で自分の気持ちがこんなに変わるとは夢にも思ってみなかった。
「……いぐよ」
 もうベッドで毛布にくるまっているのはやめにしようと晴樹は思った。あの晴れやかなSARAHの表情は、自分にも何かができるのではと思わせてくれた。自分の声で相手に語りかけたいと、そう思わせてくれた。彼女のリアルの声を聞くために自分のリアルもさらけ出さなければという気にさせてくれた。
 彼女と会うことはおそらくもうないだろうということは晴樹にも何となく分かっていた。けれど、また、どこかで同じような声を聞けるかもしれない。いや、ひょっとしたら、晴樹自身がそんな声を誰かにかけることができるようになるかもしれない。きっとそれはそう遠くないいつかのはずだった。
 それを夢みて、夢みることに賭けてみようと思い、晴樹は食卓についた。


−END−


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