−21−

「君がHARU君?」
 晴樹はうなずいた。それは彼が想像していたのと同じ優しい声だった。

 サザンテラスに中秋のさわやかな風が吹き抜けていた。広美は植え込みの所で座っている晴樹をちらと確認しながら、携帯電話の呼び出し音を聞いていた。
「もしもし、ママ?」
 電話の向こうの母親は第一声にヒステリックな声を上げたが、広美は自分でも不思議なほどにおちついて言葉を返すことができた。
「今から帰るから、迎えに来てくれる?」
 久しぶりに聞く母親の声がなぜか無性に心に沁みた。
「今? 新宿」
 今なら妹にも同じように接することができる自信があった。
「えー、なによぉ、いいじゃない、帰るって言ってるんだから。お金ないんだもん……ハイハイ、うん、分かった、そう、新宿南口、待ってるね」
 今にも電話を切って飛び出す雰囲気のあった母親を広美は呼び止めた。
「ママ」
 つめた息が自然に漏れた。
「あの……ゴメンね」
 電話の向こうの母親は何も言わなかった。
 けれど、広美はそれが母の言葉なのだと理解できた。

 電話を終えて戻ってきたSARAHを見て、晴樹は買ってもらった缶ジュースから口を離し、彼女を立ち上がって出迎えた。
「もう、大丈夫?」
 彼女の問いに晴樹は小さくうなずいた。本当はまだ体の調子はおかしかったが、動けないほどではない。
 彼女も白いジーンズをぽんとはたいて晴樹の座っていた隣に腰を下ろした。晴樹はしばらくの間、ためらったが、結局彼女の隣に腰をかけた。
 おもむろに彼女は言った。
「私、多岐川広美。SARAHよ」
 晴樹は慌てて二度うなずいた。
「私、ブスでしょ」
 彼女は笑って言った。
「がっかりさせちゃったかな。SARAHはあんなにきれいなのにね」
 正直、目の前の彼女の容貌は、晴樹が頭に思い描いていたものとは違っていた。けれど、それでも彼女が言うような形容がふさわしいとは思わなかった。
 晴樹は慌てて首を横に振った。
 それを見て彼女は苦笑した。
「……ごめんね。こんなことになっちゃって」
 彼女の声のトーンが沈んだ。
「さっきのが私の同棲相手。ていうか、私、田舎から家出同然で出てきて、彼に拾ってもらったの。彼にクスリをもらってぼうっとして、彼の言うとおりのことをやってた。サーティワン・キングダムも、そのひとつ。でも、もうついていけないって分かっちゃった……いつまでも、こんなことしててもね」
 自分の内心を飾らずに語る彼女は間違いなく晴樹の想像していた通りのSARAHだった。
 そんな彼女に語りかけることのできない自分が晴樹はどうしようもなくもどかしかった。それに、このまま無口を通せば、引きこもりだということがばれてしまう。
「ほんとにごめんね」
 彼女は重ねて謝罪の言葉を口にした。
 HARUならば、キーを打てば彼女に語りかけられるのに、口がきけないほどシャイで人見知りの激しい引きこもりだと彼女に思われるのは我慢がならなかった。
 晴樹はリュックからメモ用紙とボールペンを取りだし、言葉を書き付けた。
『ありがとうございました』
 彼女はメモを見て、それから晴樹の顔を見て、そして怪訝そうな表情になった。
 失敗したと晴樹は思った。これでは余計怪しい奴に思われてしまう。
 晴樹は彼女を見ていることができず、思わず視線を伏せた。
 彼女は何度かうなずきつぶやいた。
「そっか……HARUは、ここでもHARUなんだね」
 オンライン引きこもり認定を受けた晴樹はがっくりと肩を落とした。メモ用紙に走らせるボールペンがやけに重たく感じられた。
『またサーティワン・キングダムで会える?』
 彼女は首を横に振った。
「私、田舎に帰ることにしたの。もう一回やりなおそうかなって。一浪したと思えば何でもないものね。これでも高校じゃ成績よかったのよ」
 彼女は笑ってそう言った。
 晴樹は彼女の言葉にショックを受けた。それが彼女ともう会えないということに対してなのか、それとも彼女が自らネットゲームから足を洗ったからなのか、晴樹にはよく分からなかった。
「あ」
 彼女は短い声を上げ、視線で歩道橋の方を示した。
 男を置いてきた場所に人だかりができていた。
「あらら、見せ物になってるみたいね、彼。いい気味だわ」
 SARAHのイメージからはずれる言葉を口にして彼女は笑った。
「彼、多分もうあなたにちょっかい出してこないと思うから、許してあげてね」
 晴樹は男のことなどもうどうでもよかった。それより、もっと彼女に伝えたいことがあったはずなのだ。なのに、それが出てこなかった。文字ではなく、自分の声で伝えたい何かが本当はあったはずなのに、情けないことにそれが何だか分からない。晴樹は自分の心の中を両手で力任せにこじ開けたかった。
 気まずい間が流れ、彼女はそれが別れの合図だと判断したようだった。
 すっくと立ち上がって彼女は言った。
「それじゃ、HARUもがんばってね」
 そして、彼女は晴樹に背を向けた。
 もう二度と彼女と会えることはないのだろう。ここで別れたらそれが最後なのだ。そのことが晴樹には痛いほど理解できた。
 離れてゆく彼女の後ろ姿を見送る晴樹の中に抑えがたい衝動が膨らんだ。そしてそれは、初めて会う他人であるにもかかわらず、昼間の街中であるにもかかわらず、もう会う機会もないであろう相手であるにもかかわらず、晴樹に胸と腹の奥からありったけの息を吐き出させた。
「おげ、おがが、ばうき!!!」
 ひどいだみ声だった。発した晴樹自身が思わず顔をしかめるほどのひどい声。
 その声に彼女は立ち止まり、晴樹の方を振り返った。
 彼女の驚いた表情を見て、晴樹は恥ずかしさで顔から火が出そうな気がしたが、ここでやめるわけにはいかなかった。
 晴樹は灼熱の溶鉱炉に飛び込むつもりで、もう一度彼女に向かって声を上げた。
「おばば、ばるり!」
 彼女は眉間にしわを寄せると、目の前で人さし指を立てた。
 それが何を意味するか晴樹は即座に理解する事ができた。
 晴樹は臆することなく、自らの行為をもう一度くり返した。
「おがば、ばるい!」
 彼女はもう一度人さし指をびしっと示した。
「おがば、ばるひ!」
 それに応えて、今度は彼女が叫んだ。
「も一回!」
 晴樹もそれに応える。
「おがば、ばうき! おがば、ばうき! おがば、ばうき!」
 壊れた選挙カーのように晴樹は連呼した。
 周りの人たちが奇異の目で見ていたが、そんなことはどうでもよかった。
 彼女はそれを反芻するように何度かつぶやき、そして、晴樹に向かっておそるおそる復唱した。
「オガワ ハルキ?」
 彼女の声は正しく晴樹の名前を呼んでいた。
 奇跡だった。通じるとは夢にも思っていなかった。ただ彼女に自分の名をぶつけることができればいいと思っただけだった。
 けれど、彼女は晴樹の名を正しく呼んでくれた。
「そっか、ハルキ君か、それでHARUね」
 彼女は得心したようにうなずいた。
「……あいがお」
「こちらこそ、ありがと」
 彼女はにっこりと笑って頭を傾げた。
「ありがお」
 偽りのない晴樹の感謝の言葉だった。
 顔中が涙と鼻水でぐしょぐしょでも、他人のいぶかしげな視線がはりついてきても、彼女の笑顔が長い間自分から離れなくても、それでも、自分は幸せなのだ、晴樹はそう思った。その幸せを感じることのできる自分が、少しだけ誇らしく思えた。



BACK
NEXT