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 広美が息を弾ませながら新宿駅南口にたどり着いた時、ドコモビルの時計は三時十五分を示していた。人混みをかき分け、急いで待ち合わせ場所に向かう。東京へ来てからの自堕落な生活での運動不足は隠しきれなかった。
 手錠の開錠が奇跡的に成功したのは孝司がアパートを出て二十分近くたってからのことだった。広美が孝司より先に待ち合わせ場所に着くのはどう考えても不可能だった。そこで、広美は、HARUに連絡を取って今日の約束をキャンセルさせることを思いついた。
 だがよく考えると、HARUのメールアドレスは先ほど孝司に取り上げられた携帯電話にしか入っていないことに思い至った。目の前のパソコンにはHARUのメールアドレスは入っていないのだ。
 広美は必死になってHARUのアドレスを思い出そうとした。出だしは簡単。だが、プロバイダ名でつまずいた。大手ではないようで、なじみのない名前だった。スペルがはっきりしなかった。
 結局、三通りのアドレスを作り宛先に設定した。本文には、今日の約束をキャンセルしたいので待ち合わせ場所には来ないよう記した。後は運を天にまかせ、送信。
 これでできることはすべてやった、そう思いかけて広美は自分の手首に目をやった。そこについた赤い痕は、腐った楽園から這い出るためのリアルへのパスポートを取り戻せと彼女に告げていた。
 歩道橋の上に待ち人はいなかった。通行人が数人、足早に通り過ぎてゆくだけだ。HARUらしき男の姿もなければ、孝司の姿もない。
 広美は安堵して、歩道橋を歩き始めた。甲州街道を渡りきってサザンテラスへ降りても、二人の姿は見つからなかった。辺りもぶらついてみたが、結果は同じだった。
 ようやく広美は大きく息を吐いた。この足で田舎へ戻ろうかとも思ったが、やはりやるべき事を残したままにはしておけなかった。
 広美は再び歩道橋をのぼり、駅へ向かおうとした。
 その途中、聞き覚えのある声が耳に入った。今のぼってきたのとは違う、もう一つの階段からだった。そしてそれは、嫌というほど聞かされたあの激高した孝司の声だった。
 広美は急いでもう一方の階段を駆け下りた。
 踊り場で孝司が少年を手すりに押さえつけ暴力をふるっているのが目に入った。
 あれが、HARU? そんな!
 広美の思考は激しく回転したが、実りあるものにはならなかった。はじき出されたのは直感による行動だった。

「孝司ぃ!」
 女の声が男の背後から聞こえた気がした。その直後、不可解なことに男は晴樹の目の前で地面に膝をついた。
 それと同時に、男に押さえつけられようやく立っていた晴樹も、地面に崩れ落ちた。
 逃げなければと思ったが、体に力が入らなかった。頭ははっきりしているのに体が動かない。それほどまでにスタンガンの一撃は強烈だった。
 晴樹は若い女が自分を見下ろしているのが分かった。晴樹よりも少し年上に見えた。しばらくして晴樹は思った。SARAHだ。彼女こそが自分の会ったSARAHなのだ。やはりSARAHは二人いたのだ。男が言っていたのは嘘だったのだ。
 晴樹は涙目になって彼女を見上げた。
 どこから取り出したのか、彼女は手錠を手にしていた。そしてよろよろと立ち上がろうとする男に対し、素早くそれを男の腕にかけた。がしゃりという音がして、女の顔に安堵の表情が浮かんだ。
 だが、もう一方もかけようと彼女がそれを持ち直した時、男が腕を力一杯振りまわした。すると、手錠は男をつなぎ止める役目を放棄し、勢いよく彼女の手から離れた。
 男は広美を不思議そうに見つめた。彼女はアパートにつないできたはずで、今自分の片腕にぶらさがっているそれは、彼女をつなぎ止めていたはずのものだった。
 それでも、男は何とか自分の中でつじつまを合わせ、彼女に尋ねた。
「どういうつもりだ」
 男の硬い声に彼女は内心の怯えを見抜かれないよう威勢良く言い返した。
「私の携帯返して!」
「ふざけるな!」
 男は握り拳で彼女の顔をぶった。
 彼女は手すりにしがみつき、男をにらみ返した。
「あなた、おかしいわ! 普通じゃない、分かんないの?」
「テメエは黙ってろ! オレはコイツに用があるんだよ!」
「こんな子供脅して楽しいの、馬鹿じゃないの!」
「黙れっつってんだろォ!」
「!」
 男は完全に切れていた。彼女を何度も足で蹴りつけ、その度に彼女の押し殺した声が聞こえてきた。
 彼女を助けなければ。晴樹はそう思った。逃げ出したいという気持ちも残っていたが、どちらにせよ体はまだ動いてくれなかった。何もできず傍観しているしかないのは最悪の気分だった。
 歩道橋の下の通行人たちが踊り場にちらちらと視線を向けていたが、それにも気づかず男は暴行を続けていた。
「オマエはオレの言うとおりにしてればいいんだよ! 誰が拾ってやったんだ、誰が飯喰わせてやってるんだ、クスリで現実逃避するしか能のない女が偉そうにするんじゃねえよ! 分かってるのか!」
 男の執拗な暴力に女の声はむせび泣きに変わっていた。
 晴樹の中には激しい怒りが芽生えていた。それなのに体は動かない。動きたいのに動かない。悔しくて神経がぶちきれそうだった。
 そんな時、晴樹は自分のつま先から三十センチほどのところに黒い物体が転がっていることに気づいた。男が先ほど使ったスタンガンだ。そして、男はまだそれに気づいていなかった。
 あれを取れば彼女を助けられる。そう思って晴樹は右手に力を入れた。すると、他人のような手が遠隔操作のようにぎくしゃくと動いた。いける。上体を前に倒して手をのばした。スローモーションな動きがもどかしくてたまらなかった、もう少し。あとほんの数センチ。
 彼女に対する男の罵声は変わらず耳に入ってきていた。
「オマエはオレの部屋でおとなしくしてればいいんだよ。誰とも口聞かなくていいんだよ、オレの言うことだけ聞いてればいいんだ。分かったか、分かったら返事しろ!」
 何て奴だ。サイテーだ。晴樹はその怒りを腕に込めた。
 すると、届いた。晴樹の指先は確かに固い感触を感じていた。しかし、指はまだ痺れていてそれをつかむことができなかった。晴樹は一か八か思い切って体を揺すり、左手を右手に添えた。
 だが、その大きな動作は男の注意を引いた。
「テメぇ、何してる!」
 男は晴樹の手にしている物に気づいて顔色を変えた。
「何、人のモノ取ってるんだ、返せ!」
 晴樹は夢中で座り込んだまま両手で包み込むようにスタンガンを持ち上げた。
 相手の中に怒りと同時にかすかな怯えがあるのが晴樹にも見て取れた。
 だが、晴樹はそれ以上、男に対し何もできなかった。動けない晴樹はスタンガンを男に突き立てることもできない。スイッチすら押すことができない。今のこの状況は何の意味もなかった。少なくとも晴樹の体が動くようになるまでは。 
「コイツの前で何いい格好しようとしてるんだ? 立てもしないくせに。さあそれを渡せ。渡したらオマエには何もしないから。な、それでいいだろ」
 男の足下で地面に倒れているSARAHがこちらをじっと見ていた。くしゃくしゃにした顔で強く何かを晴樹に語りかけているように見えた。
 男はゆっくりと晴樹の方ににじり寄ってきた。
 動け────
 晴樹は念じ続けた。ここで自分を助けることは彼女を助けることなのだ。
 動け、動け、動け────
 しかし、腕は動かなかった。指さえ動かなかった。こんなにだらしないのは自分が引きこもりだからなのか。だからこんな時に何もできないのか。引きこもりには最低最悪の結末しか用意されていないのか。晴樹は悔しくて涙が出そうになった。
「うぉ!」
 その時だった。突然、男が晴樹の方に向かって倒れてきた。本日二度目の転倒だ。男に抱きつかれるのを避けようと、晴樹は思わず体をねじった。その瞬間「バチッ」という音と共に男の体が小さく跳ねた。
 男は短いうめき声をもらしながら、晴樹を怖ろしい形相でにらみつけていた。
 男から逃げるように体をずらし、もう一人のSARAHの方に視線を向けた。
 彼女は男の両足に両腕でしがみついていた。まさに捨て身の戦法。それで男を倒したのだった。
 ゆっくりと立ち上がった彼女の目は真っ赤にはれていた。
 彼女はふるえる息をしながら、男の手につないだ宙ぶらりんの手錠を逆の足首につないだ。男は短いうめき声とともに無抵抗のまま憎悪の眼差しで彼女をにらんだ。
 だが、彼女は意にも介さず男の体を探り、携帯電話を取り戻した。
「これ、私のだから」
 それから、地面に転がっているスタンガンに気づくと、それを拾い上げ、スイッチをオンにすると、とどめとばかりに男の腹に押し当てた。男は短い声を上げ、白目をむいた。
 スタンガンを歩道橋の裏手に投げ捨てると、彼女はやることはすべてやったというかのように大きく息を吐き、そして、晴樹に手を差しのべた。



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