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 新宿駅南口改札をようやくの思いで抜けたものの、外も変わらぬ人だかりだった。引きこもりを初めてから街中に一人で来たのはこれが初めだった。気分は最低。吐き気もする。しかし、目立つことはもっと嫌だったので、晴樹は気合いで吐き気を抑え早足で人混みを抜けた。
 高島屋の向こうに見えるドコモビルの時計は午後二時五十五分を示していた。
 約束は午後三時。待ち合わせ場所は甲州街道をまたぐ歩道橋の上。南口改札からは目と鼻の先だった。
 胸の鼓動が高鳴るのを覚えながら晴樹は目的の歩道橋の階段をのぼった。
 天井をガラスで覆われた歩道橋はどこか息苦しさを感じさせた。一本道のその通路に待ち合わせの人間がいないのは一目で明らかだった。
 晴樹は歩道橋の真ん中で立ち止まると、息を整えながら目印である黒のリュックサックを目立つように胸の前で抱えた。相手の特徴は白のパンツに、身長一五五センチ程度痩せ形。
 晴樹は時折目の前を通り過ぎる通行人の格好を注意深く観察しながら彼女を待ち続けた。
 いつの間にか腕の時計は約束の時間を十分程すぎていたが、やはり白SARAHらしき人物は現れなかった。
 それならそれでいいではないかと晴樹は思った。そもそも、なぜ自分がここへ来たのか、晴樹は自分でもよく分からなかった。口のきけない自分が彼女に会ってどうしようもないというのに。このまま帰っても取りあえずは約束を果たしたのだから責められることはないはずだった。そう踏ん切りをつけようとしていたところで、晴樹の中で何かが待ったをかけた。
 なぜ彼女は来ないのか。晴樹の拒絶のメールに対し、彼女は相談したいことがあるから来てほしいとわざわざ返信して来たのだ。その彼女が来ないはずはない。何かの理由で遅れているのだとしか考えられない。
 だが、今日のこの約束のことは黒SARAHも知っていた。それ故、黒SARAHは白SARAHに成りすましてのメールを晴樹に返してきた。晴樹をここに来させないために。
 本当にそうなのか。嫌な予感が晴樹の中でがんがんに響いていた。ひょっとして、約束キャンセルのメールを入れてきた方が白SARAHなのではないのだろうか。ふとそんな可能性が晴樹の頭をよぎった。黒SARAHに約束のことがばれたから。彼もこの場所に来る可能性があるから。
 否、ではなぜ黒SARAHは来ないのか──
 疑問は堂々巡りになるばかりだった。
 その時、晴樹はいきなり声をかけられた。
「君がHARU君?」
 地面を見つめて考え込んでいた晴樹は、慌てて正面に立つ相手の顔を見上げた。
 相手は二十歳前後の男だった。身長一七○センチの晴樹から見ても頭ひとつ大きかった。
 晴樹がこわごわと頷くと彼は
「やっぱり、そうじゃないかと思ってたんだ。ああ、オレ、SARAH。あのSARAHだよ。驚いた? 驚いたよね? ハハハ」
 彼は一人で完結したリアクションを見せると、急に真顔になって言った。
「ここ、ちょっと空気悪いね、少し動こうか」
 晴樹はリュックサックを強く抱きしめ、さっさと歩き出した相手の背をにらみつけた。
 目の前の男が黒SARAHであることは間違いなかった。男が履いているのは濃紺のジーンズだ。目印の白いパンツではない。やはりキャンセルのメールを入れてきたのは白SARAHだったのだ。晴樹と黒SARAHを会わさないために。晴樹はのこのこと出てきた自分の決断を悔やみに悔やんだ。
「どうした?」
 男は振り返って言った。
「ここ、人通るし、邪魔になるからさ」
 そう言って男はにこやかな笑みを晴樹に向けた。晴樹はそれに従うしかなかった。
 男は歩道橋をそのまま南側へ向かい、二本に別れた降道の細い方を降り、その踊り場で立ち止まった。距離的な移動はたかだが数十メートルのものだった。歩道橋の上よりは人通りも少なく、人の目にも付きにくいとはいえ、もっと危ない所へ連れて行かれるのかと思っていた晴樹はひとまず安堵した。
 男は手すりにもたれかかってくだけた感じで言った。
「さっきはびっくりしたよ、いきなり来ないなんてメールが来たからさ。でも、来てくれて良かった」
 その言葉は再び晴樹を困惑させた。それはつまり彼女の携帯電話を目の前の彼が持っているということになる。一体、どういうことなのだ。
「で、どうよ? 実物を見た感想は?」
 男は晴樹を見下ろして言った。
 実際の所、相手の男は晴樹が想像していたよりも普通だった。温厚そうで、本当に普通の大学生か何かに見える。けれども、晴樹はその外見を信用しなかった。
 晴樹の不審感を見取って、男はにやりと笑った。
「最初に言っておくと、全部オレの一人二役だから」
「え」
「女役のいいSARAHも、男役のPK大好きSARAHも、どっちもオレ。……ん、言葉も出ないか?」
 男は心底楽しそうな笑みを浮かべた。
「ゲーム歴が長いとさ、普通のプレイじゃ物足りなくなるわけよ。どうせなら楽しく遊びたいだろ。それでいろいろやるわけよ」
 男は余裕を見せつけるように、ポケットから取り出したタバコを口にくわえた。
「PKのことは気にしてないよな? PKだってあのゲームの中じゃ遊び方のひとつだからな。殺すのも殺されるのも楽しんでやらなきゃ、そうだろ。初心者には難しいかな?」
 晴樹は男の足下を見つめ、ごくりと唾を呑み込んだ。
 おかしい。おかしい。おかしい。絶対におかしい。晴樹の直感がそう告げていた。あるいは感情が男の言を認めたくなかっただけなのかもしれない。どちらにせよ、SARAHは一人の人物であるというこの男の言い分を晴樹は受け入れたくはなかった。
 晴樹は男のズボンを指さした。
「何、ああ、これ?」
 男はジーンズの膝を右手でぱんと叩いて言った。
「今日はそういう気分じゃなくてさ。白のズボンはね」
 彼は目印のことも知っていた。そのことまでこの男にばれてしまったのか。それとも、この男こそが、晴樹がメールを送ったSARAH本人だというのだろうか。もしそうだとすれば、彼の成りすましは晴樹にとって完璧だったと言わざるを得ない。
 それをどうしても認めたくない晴樹は、他に何かないかと必死に頭をひねったが、男はそれを待たず次の言葉を発した。
「でさあ、今日、君に会いたかったのは、相談というか、ひとつ、言いたかったことがあったワケよ」
 男はようやく本題と言わんばかりに晴樹に顔を近づけた。
「いくら女性キャラを演じてるからって、あんまり真に受けられるのも困るんだよ。それに初心者だからって、べたべたしないでほしいんだよ、分かるよな」
 男の口調は急にきつくぞんざいになった。加えて目の前で吐きかけられたタバコの煙に、晴樹は思わずむせた。
「悪い悪い」
 男がまったくそう思っていないことは明らかだった。
「じゃあ、そういうことでいいよな。オマエは二度とSARAHに近づかない、OK?」
 晴樹はうつむいたまま返答に窮した。本当にこの男の言う通りなのだろうか。自分は一体誰を相手にしていたのだろう。
「返事は?」
 男は苛立った声で言った。
「びびってるのか。ちゃんとしゃべれよ。最初に会いたいって言ってきたのはそっち──」
 その時、中年のサラリーマンが目の前の階段を降りてゆくのを見て、男はぴたりと口を閉じた。
 サラリーマンは二人には目もくれず早足で階段を下りきり、男はそれを見届けて再び口を開いた。
「まあいいや。話はもうひとつあるんだよ。これ見ろよ」
 男はそう言いながら、折り畳まれた一枚の紙をポケットから取り出し晴樹に渡した。
「オレの書いたコラム」
 KUROROの言っていたメールマガジンの連載記事の原稿らしい。そこには先日、HARUが受けたつきまといとエリアチェンジによるモンスターを使ったPKのことがHARUの名前入りでおもしろおかしく書かれていた。
 晴樹は相手をにらみつけて紙を突き返した。
「おまえもこれで有名人だ、うれしいだろ」
 男は一人で笑いながら言った。
「このコラムはPKネタで押そうと思ってるんだよ。でも、知ってるか? 読者ってのは読むだけのくせに、際限なく贅沢したがるんだ。刺激の強いものじゃないとダメ。奴ら鈍感だからな。もっと多く、もっと面白く、もっと残酷に。分かるだろ、オレもこのコラムを続けるの大変なんだよ」
 そんなことは晴樹には全く関係ないことだった。彼のコラムがどうだろうと晴樹にはどうでもいい。関わるなと彼が言うなら上等である。もう男の顔など見ていたくはなかった。
「でも、オマエにはもっと協力してもらわないとな」
 男の引きつった笑みを見て、晴樹は思わず後ずさった。あらためて晴樹は実感した。この男は、どこか変だ。
 本能的に体を引き離そうとする晴樹に対し、男は晴樹のリュックサックを強くつかんだ。
 !
 晴樹は男の手を振り払おうともがいたが、男の力は意外と強かった。
「そんな大したことじゃないんだよ、生のオマエの反応が欲しいだけなんだ」
 この男はおかしい。明らかにおかしい。
 晴樹は目を閉じて亀のように縮こまった。スキを見て逃げるのだ。それしか晴樹の頭には思い浮かばなかった。それまでは男が何を言っても何をしてきてもただじっと耐えるしかない。
 そんな晴樹に男は言った。
「オマエ……さっきから一言も口訊いてないよな、どういうつもりだ? あ、ナメてるのか!」
 男は晴樹の首筋をつかまえて押さえつけた。
「何とか言えよ!」
 じっと耐えていることすら不可能だった。晴樹はうめきながら必死にリュックを指で示した。
「何だ、背中? リュックがどうした?」
 男の苛立った声に対し、晴樹は素早くリュックをおろし、中から一枚の紙を取り出した。いざという時のために用意してきた医師の診断書である。
 それを見た男は素っ頓狂な声を上げた。
「ハア? 心因性、失声症? ……口が、きけないってことか?」
 晴樹はうつむいたままその問いにうなずいた。
 男の表情は晴樹を捉えたままスライムのようにぐにゃりと変化した。そして、それは安定点を失い突然の大爆発を起こした。
「フザケんな! 声が出ない? 声が出ないだと! 予定と違うんだよ、先からレコーダーもオンにしてるんだ! それじゃ記事にならないだろ、もっとびびってくれないと困るんだよ、ちゃんと言葉にしてくれなきゃ困るんだよ、分かってんのか、ええ!」
 勝手な理屈を並べ立て、男は診断書をまっぷたつに破り捨てた。
 そして、荒い息で男は上着の内から黒い機械を取り出した。晴樹がちらと見ると、電気シェーバーにも似ているが、男の様子からしてそれがヤバイものであることは間違いなかった。
「それじゃあ、ショック療法だ」
 男が手にした物体のスイッチをオンにすると、その先端から「バチッ」という音とともに青白い閃光がほとばしった。
「オレが声出るようにしてやるよ。オレ様は親切だからなあ、それでいてどんな医者より腕がいい」
 スタンガンだ。晴樹は思った。ネットで見たことはあったが、本当にこんなのを持っている人間がいるとは驚きだった。
 男は獲物のどこに牙を突きたてようかと迷うマヌケな獣のように、スタンガンの角度を変えながら晴樹を物色した。
 大声を出せば助かる。助けを呼べばいい。頭では分かっているのに、晴樹は声を上げることができなかった。
 どうしてこんな男がSARAHなのだ。あのSARAHがこんな人間だったなんて。自分は何てバカだったのだろう。黒い恐怖に押しつぶされそうになりながら晴樹は男の歪んだ顔を凝視するしかなかった。




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