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 広美は自分の左手首に食い込んだ金属の戒めが信じられなかった。遊びでならいざ知らず、こんな日常で自分の自由が奪われるとは思ってもみなかった。孝司が戻るまで自分はただ待つしかないのだろうか。
 彼の行動に広美はもはやついていけなかった。ゲームの中だけではなく現実でも、他人という存在は彼にとって自分のための道具でしかなくなってしまったのだ。前はあんな人ではなかったと思いかけて、そう言えるほど自分は彼のことを知らないではないかと思い直した。
 広美は孝司のことが好きだったわけではない。田舎から出てきて渋谷の街をふらついていた彼女に最初に声をかけてきただけの男だった。家に来ないかという軽い誘いに、行き場のなかった彼女は簡単に同意した。そして、勧められたクスリを好奇心から始め、のめりこみ、結果、彼の暗い家で生きる屍になった。それでも彼を恨む気持ちはなかった。それらはすべて彼女自身が選んだことだったからだ。
 金属の鎖を意味なく引っ張りながら広美は自問した。 
 これが自分の望んでいた日常なのだろうか。こんなことがやりたくて自分は家を出てきたのだろうか。あの窒息しそうな家庭にいた頃思い描いたのはこんな生活だったのだろうか。
 否、これは自分の日常などではない。あるはずがない。これは日常から逃げ出して潜り込んだ体臭の染みついた布団の下なのだ。思考停止している間だけの腐った楽園なのだ。
 今はそこから這い出す時だ。これ以上自分を腐らせておくわけにはいかないのだ。
 広美はそう決意した。
 孝司を止めなければ。彼を止めないと、HARUがどんな目にあうか分かったものではない。そうなればその責任の一端は間違いなく自分にもあるはずだった。
 自分に言い聞かせるように広美は大きくうなずいた。
 まずはこの手錠である。力任せにやってもはずれないのは以前の経験で分かっていた。鍵は孝司が持って出ているはずだった。仮に部屋のどこかに隠してあったとしても、鎖でつながれたこの行動範囲では見つけ出せる可能性は極めて低かった。外を通る誰かに大声で助けを求めようかとも考えたが、それでは話がややこしくなると思いあきらめた。やはり独力ではずすしかなかった。
 窓の格子に左手首をつながれた彼女に届くのは、狭い六畳間のほんのわずかな場所でしかなかった。そこにあるもので利用できそうなものを探すほかなかった。
 包丁、皿、コップ。違う、もっと細くて鋭いものだ。フォーク、箸。それでは太すぎる。歯ブラシ、サランラップ、まな板。ダメだ。なぜこういう時に限ってヘアピンをしていないのかと歯がゆくなった。高校に行っていた頃は毎日していたのに。今朝のスポーツ新聞、封の開いたタバコ、汚い灰皿、脱ぎっぱなしのシャツ、真っ新なコンドーム、くしゃくしゃの書類───書類。そこで彼女の視線はぴたりと止まった。孝司がコラムの原稿をプリントアウトして束ねたものだった。重要なのは書類そのものではなく、それを束ねている金属の一片、ゼムクリップ。
 広美はそれに賭けることにした。



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