−15−
気がつくとベッドの上だった。当たり前だが、晴樹はまだ生きていた。睡眠薬の過剰摂取(OD)程度では死なないものなのか、それとも単にクスリの量が少なかっただけなのか、それは分からなかったが、まだ生きていることは間違いなかった。
晴樹は死のうと思ってクスリを飲んだわけではない。あの時のどうしようもない感情から逃げたかった。ただそれだけのことだった。
少し吐き気がした。ベッドの下の洗面器を引っぱり出してそれに備えたが、吐くことはできなかった。考えてみれば、胃の中に吐くほどのものは入っていないはずだった。
体に力が入らない。最低の気分だ。一瞬、実は今自分は死へ向かう途中なのではないかと思ったが、それならそれでもいいと思った。
最悪の気分をこらえて上体を起こしてみた。ひどいめまいに襲われ、最悪のゲージは簡単に振り切れた。死ぬのはかまわないが、この気分は勘弁だった。だが、しばらくするとそれもしだいに収まってきた。
部屋をぼんやり見回すと、かすかな違いが目についた。床に積んであった本の場所、机の上のマウスの位置。部屋のそこここに寝ている合間に母親が合い鍵で入ってきた跡が見て取れた。
そこでようやく晴樹の思考は昨夜の出来事にたどり着いた。あのKUROROを演じていたのが母親であったことに。そのことに対し昨日は憎悪と嫌悪感で一杯だったが、今はなぜか怒る気力も失せていた。
そして、今まであれほど熱中していたサーティワン・キングダムが急に色あせたものに感じられていた。
パートナーのKUROROは母親。おまけにPKギルドには狙われ、いいことなど何ひとつない。興味を失っても当然だった。
窓の外は明るかった。昼頃だろうか。不治の病にかかった病人はこんな気持ちで外を眺めるのだろうかと思うと、不意に笑いがこみ上げてきた。
今のこの気持ちを理解してくれるような相手が誰かいるだろうか。そう考えた時、幸いなことに一人だけ頭に思い浮かんだ。
晴樹はよろめきながら机にたどりつき、パソコンの電源を入れ、メッセンジャーを立ち上げた。
しばらくサーティワン・キングダムに入り浸っていたせいで彼とはここ数日話していなかった。メッセンジャーに入らなかったことに対しては罪悪感があったが、元々このゲームに誘ったのは彼なのだ。なのに、当の本人は姿を現さない。何かあったのだろうかと一抹の不安もあった。
メッセンジャーに接続すると、彼はいつものようにログインしていた。
晴樹は大きく息を吐いて、キーボードに指を置いた。
HARUの発言:おっす。
まったく芸のない発言だと思ったが、元々会話上手ではないのだからとあきらめた。そんなスキルがあれば、おそらく引きこもりなどにはなっていなかったに違いないのだ。
しばらくたって返事が戻ってきた。
TACTの発言:おひさ。
それを見て晴樹はほっとした。少なくとも会話を拒絶されるようなことはなかったのである。
それから晴樹は今の自分の窮状を彼に切々と訴えた。
TACTは前と何ら変わらず晴樹の愚痴に耳を傾けてくれた。
TACTの発言:うへえ、それはキツイな。
HARUの発言:キツイ。子供をなめてる。ふざけんなだよ。
TACTの発言:まったくだね。逝ってよしだ。
HARUの発言:どうすればいい?
TACTの発言:うーん、オレはHARUじゃないからな。
そう言いながらも彼は、晴樹にひとつの提案をした。
TACTの発言:31はオレもやってみたけど、一日でやめた。アレ、つまらないネ。
TACTは自分が勧めたゲームを一刀両断で切り捨てた。
TACTの発言:で、今は違うのやってるのさ。GAってやつ。グレゴリオ・エイジ。
TACTの発言:まだ始まったばかりなんだ。お勧めだよ、HARUもこっちやらない?
TACTの気移りの早さを見て、彼らしいと晴樹は苦笑した。数ヶ月のつきあいしかないが、それでも彼の臨機応変というか、適応力が高いところは晴樹も分かっていた。そして、そんな彼でも引きこもりにならざるを得なかったことに、晴樹は絶望も感じていた。
TACTの発言:そんな状況じゃ、どうやっても面倒なだけだろ。見切りつけてGAで遊ぶのが吉。これ間違いなし。
どこかのインチキ占い師のようなアドバイスをしてTACTは晴樹を誘い続けた。
HARUの発言:ちょっと考える。
TACTの発言:いつでも待ってるぴょーん。
HARUの発言:うん、また後で。
TACTの発言:了解〜
TACTは正しい。少なくとも晴樹がそう言ってほしいことを大抵の場合言ってくれた。今回も然り。サーティワン・キングダムをやめてGAとやらを始めれば環境はリセットされる。また一からのスタートである。簡単で確実な方法だった。低きに流れるのは、引きこもりにとって何ら恥ずべきことではない。ためらう必要など何もないはずだった。
それでも、晴樹には抵抗があった。このままサーティワン・キングダムをやめてしまうことへの戸惑いが、わずかにだが間違いなくあった。
その理由を確かめずには前へ進めない気がした。
心のどこかでためらいながら晴樹はメールソフトを立ち上げ、宛先にまだ一度も使ったことのないアドレスを設定した。それはKUROROの言っていたようなフリーメールではなく、プロバイダ名から携帯のアドレスだと判別できた。このアドレスを実際に使うことになろうとは思ってもみなかったし、本当に今自分が彼女にメールを出したいと思っているかどうかも晴樹には自信がなかった。
何と書こうかと随分迷い、結局、本文は何も書かずにタイトルを「HARU」とだけ書いて送信した。
返事がくるかどうかはかなり怪しかった。むしろ、これではいたずらメールと取られてもおかしくはない。
別に返ってこなくてもかまわない。返事などどうでもいいのだ、と支離滅裂なことを思いながら、晴樹はイスにもたれかかってただひたすら待った。
三十分ほど経った時だった。晴樹はメール受信の軽快な電子音にうたた寝を起こされた。
あわててメールソフトをチェックすると、彼女からの返信が届いていた。
<<遅くなってごめんね。何かあった?>>
それが無言メールに対する彼女の返信だった。優しい言葉に幾らかほっとしながら晴樹はさらに返信をうった。
<<あなたは、ホントは誰? 悪いSARAHとはホントに別人? ホントに女性? まさかオレの知ってる人じゃないよね?>>
メッセンジャーのチャットやゲーム内の会話とは違い、時間差の大きいメールのやりとりは晴樹に大きなストレスを感じさせた。
<<ホントに別人、ホントに女よ。疑われるのも仕方ないけど……>>
<<言葉だけなら何とだって言える。あのKUROROだって……>>
<<あのニーム君がどうかしたの?>>
<<……実際に会ってみないと、信用なんてできない>>
次のメールはなかなか戻ってこなかった。ふと、先に出した文面がある意味にとれることに思い至り、晴樹はあわてて訂正のメールを書き始めた。
だが、それを書き終える前に、返信があった。
<<いいわよ>>
それを見て、訂正のメールを出そうという晴樹の意志は一瞬の内に氷解してしまっていた。